ウィーン軍事史博物館の展示を元にヨーロッパの戦史について学ぶシリーズ、
(そうだったのか)第一次世界戦の勃発とともにオーストリアが巻き込まれた
帝政の終焉と、そのあと革命を経て彼らがなぜナチスと同化し、
アンシュルスの道を選んだかというテーマでお話ししております。
さて、ここで少し時をドルフス暗殺前に巻き戻しましょう。
ドルフスは、政権を握ると、1933年に議会を廃止しました。
自分の独裁体制確立のために、社会民主党の声を封じる手段を取ったのです。
前回も言いましたが、このことを現在の価値観で論じるべきではないでしょう。
ドルフスが世界恐慌のあおりで起こった経済危機をなんとか乗り切ろうとしたとき、
独裁体制が一番手っ取り早かったということであって、オーストリアの覇権を、
とか、世界征服を目指していたとかいう話ではないのです。
「歴史には善悪はない」
と当ブログ主はよく言いますが、帝国主義の時代の植民地支配が
悪ではなかったように、この時代、激動のヨーロッパで人々が
強い独裁者を求めたのはある意味当然でした。
石坂洋次郎だったか、昭和20年代の学校を舞台にした青春小説に、
主人公の女先生が、冗長な職員会議の間あくびを噛み殺しながら、
「夏の帽子のリボンの色を決めるのに何時間も会議する。
こんなときはついヒトラーは偉いなと思ってしまう」
と、今ならポリコレで問題視されそうな感想を持つシーンがありました。
独裁主義の良さというのは、何と言っても「話が早い」ことです。
夏の帽子のリボンの色だって、ヒットラー総統が一言、
「ピンク」といえばピンクになり、誰からも異論は出ません。
戦後の世界では、民主主義が善、ということになってしまっていますが、
当然ながら民主主義にもおのずと欠陥と限界があります。
多数決が良くて、皆が選挙で選んだ一人が決めるのがなぜダメなのか、
納得できる理屈をご存知の方、ぜひ教えて欲しいと思います。
さて、写真をご覧ください。
第一共和国下の軍服の向こうに見えるポスターには、
HEUTE ROT-MORGEN TOT
(今日の赤は明日の死)
として、赤い人の後ろに骸骨が影となって同じポーズをしています。
社会民主党の政治活動の場を奪ったドルフスは、続いて
自分の独裁体制を脅かしかねない、
オーストリア・ナチスの活動を停止しました。
さて、ここまでやると、当然ながら反動というのが予想されます。
ドルフス首相の運命やいかに。
って、暗殺されるんですけどね。
こちらは共和党の軍事組織、「防衛同盟」の制服です。
ナチスの鉤十字と骸骨の組み合わせのポスターが見えます。
革命前夜、両陣営のプロパガンダ合戦も熾烈だったのでしょう。
ナチスと組むことは死に通じる、反対派はこう気勢を上げました。
もちろんオーストロ・ファシズムの旗手であるドルフス大統領も
こちらの側です。
ドルフスは、社会民主党と社会主義者たちの団体「防衛同盟」に対して
活動を停止したり解散命令を出すなど圧力をかけ続けたため、その結果、
1934年、社会主義者たちはついに武装蜂起を行いました。
Gemälde von Maximilian Florian: ”Die Revolution”
オーストリアの画家、マキシミリアン・フローリアンが描いた「革命」原画が
ここウィーン軍事史博物館には展示されています。
画家マキシミリアンは1934年の2月、この武装蜂起の目撃者となりました。
赤いドレスを着た女性は赤い人たち、つまり「革命」を表していますが、
彼女は死にかけている人によって後ろから抱きつかれています。
そしてこれから、死者と負傷者が重なる部屋の奥に引きずり込まれるのです。
このことから想像するに、マキシミリアンが立っていたのは現政権側、
つまり「社会主義者ではない方」ということになりますが、だからといって
この革命を起こす側がナチス支持派かというとそうとも言えなかったのです。
なんでもそこに落とし込むなと言われそうですが、オーストリア含め
欧州情勢はとにかく複雑怪奇(by平沼騏一郎)だったのです。
その後、この絵の示唆するように、防衛同盟・社会民主党のの武装蜂起は鎮圧され、
蜂起を指導していたバウアー外相ら社会民主党の指導者は亡命を余儀なくされます。
この暴動の結果、1,000人以上の市民が死傷し、1,500人が逮捕されました。
防衛同盟のうち9名が裁判にかけられその後処刑されています。
革命によって雨降って地固まるというのか、社会民主党やその系列の労働組合は壊滅し、
ドルフスの権威主義的独裁体制はこの瞬間確立されたのです。
しかし、その政権は短命に終わりました。
4月30日に、イタリアファシズムに倣った憲法を制定し、国号を
「オーストリア連邦国」
とした3ヶ月後の7月25日、ドルフスはナチスの一派によって暗殺されます。
後ろの布告は全くフラクトゥールが読めず、ほとんどお手上げだったのですが、
なんとか大きな文字だけ読んでみると、
宣言 憲法の優位性について
という声明が暗殺事件後、一種の戒厳令状態となったウィーンで
市長の名前で出されていたことがわかります。
ドルフスが暗殺されたのが直接の原因ではありませんが、
結果としてこの後オーストリアは併合に大きく傾いていくことになります。
アルバムで軍隊の視察をしているのは、クルト・シュシュニックです。
ドルフス内閣で法相を務めていた彼は、ドルフスが暗殺されると、すぐさま
後任として首相に就任し、ドルフスの路線を引き継いで、
オーストロ・ファシズム=独裁体制を維持しようとしました。
そのやり方とは、ドルフスが実施した国民議会の停止や社会主義者への弾圧、
大量の(1万3,338人)政治犯を逮捕し、さらには
「オーストリアの評判の保護のための連邦法」
を制定して海外メディアの報道を統制するといったドルフス路線の強化です。
その上で経済統制も行なっています。
ヒトラーはシュシュニックに、露骨に圧力を加えて併合を迫ってきますが、
ドルフスと同じくナチス嫌いだったシュシュニックは、まず、
オーストリアの独立を訴える演説を行った上で、
24歳以上の国民に対し併合の是非を問う国民投票
を行うということを決めます。
なぜ24歳かというと、当時ナチスはオーストリアの10代、20代前半に
絶大な人気があり、支持されていたため、その層をカットしたのでした。
(投票を呼びかけるシュシュニック)
その下にあるのが国民投票前に行われたプロパガンダのポスターだと思われますが、
ここで下の写真の帽子を被った青年は
「首相、あなたは自分自身を信頼することができます。
あなたの若者たちはあなたのためにはいと言います」
この時シュシュニックが提唱した国民投票は、
「自主独立」か「ドイツとの併合か」
という二択でした。
隣のデスマスク(つまり死んだ人)も、
Auf dass er lebe,
stimmen mir mit "Ja!"
「彼は生きていれば私と共に”はい”と投票する」
なんかよくわからんコンセプトのポスターですが、まあそういうことです。
ヒトラーはこの国民投票に激怒し、カイテルに軍隊を出動させ、
やめなければ武力を振るうと脅迫を行いました。
シュシュニックは脅しに屈して辞任、その後、ドイツ軍はオーストリアに無血入城。
その上で行われたのが、新たな国民投票だったのです。
そう、アンシュルスはこのような形で「合法的に」成立しているのです。
これが国民投票のときに使われた用紙です。
「あなたは1938年3月13日に制定されたオーストリアと
ドイツ国の再統一に賛成し、我々の指導者、
アドルフ・ヒトラーの党へ賛成の票を投ずるか」
併合に誘導する質問に対し、「ヤー」か「ナイン」に印をつけるのですが、
実に露骨に「はい」は大きな丸、「いいえ」は小さな丸であることに注意。
オーストリアとドイツで同時に行われたこの投票で、
99パーセント強の両国民がアンシュルスに合意しました。
無記名とは言えナインに票を投じた勇気ある人々も1パーセントはいたわけですが。
アドルフ・ヒトラー総統の横顔の下には、ナチス党の有名なスローガン、
Ein Volk Ein Reich Ein Führer
(1つの民族、1つの国、1人の総統)
が記されています。
このスローガンはどなたも一度は見るか聞くかしたことがあるでしょう。
しかし、ここまでの経緯を振り返ると、このスローガンが、
オーストリア併合によってオーストリアがドイツの州となり、
ゲルマン民族(一つの民族)による一つの国が生まれたことを
明確に述べていたのにあらためて気づきます。
繰り返しますが、この時、国民の99パーセントが併合に賛成しました。
しかしこの時、ドイツ人はともかく、オーストリア国民の99パーセントが
本当に自分の心に嘘をつくことなく「ヤー」に丸をつけたと思いますか?
合併直後から、多くのユダヤ人や社会民主主義者、自由主義者や、そして
反ナチス的愛国主義者、知識人などへの弾圧と粛清が始まりました。
もし正直に「ナイン」に印をつければ、そのことで自分たちの命が脅かされるとして
心ならずも「ヤー」に投票した人も多かったと思われます。
オーストリア軍への粛清は特に厳しく、合併に反対した将軍が暗殺され、
そんなことからナチスに忠誠を誓うことを嫌って亡命する軍人もいました。
ゲオルク・フォン・トラップ少佐もその一人でした。
ナチス・ドイツのオーストリア統治は、従属を強要するものであり、
オーストリア人は「二流市民」として扱われて、汚れ仕事、典型的なのが
ユダヤ人迫害に関する仕事に動員されたりしたという話もあります。
(この部分証拠資料に基づいて書いているわけではないので念のため)
「サウンド・オブ・ミュージック」でも語られていたように、
オーストリアは戦後一貫して「ドイツによる侵略の犠牲者」という立場で
国家再建を行ってきました。
粛清をちらつかせた国民投票など、我々の意思ではなかった、あれは
あくまでも強制されたものだった、という立場を取ったのです。
それは、そうすることによって分断されたドイツの巻き添えを避けるという
現実的な保身からきたことではありましたが、これなど、国家経営とは情緒ではなく、
筋を通したり自分の過去に誠実である必要もなく、ある時にはなりふり構わず
国益を優先することもありうる、と教えてくれる一つの例ではないかと思います。
しかしながら、喉元過ぎればとでもいうのか、移民問題に揺れる現在のヨーロッパで
本家のドイツにこれらを排斥しようとする動きが起こるのと呼応するように、
オーストリア国内でも、昨今はドイツ的民族主義が台頭する動きがあるのだそうです。
例えば、2013年にオーストリア国民を対象として行われた世論調査では、
4割がナチス政権下の生活はそこまで悪くなかったとし、
6割が強い人が政府を動かすべきであり、
5割以上がナチス党が再び認められれば非常に高い確率で議席獲得する
と信じているという結果が出たそうです。
歴史に善悪はない。
この結果を見てあらためて確信するのは決してわたしだけではないでしょう。
続く。