この写真は九軍神慰霊祭の行われた三机のある瀬戸町民センターの
二階に掲示してあった「千代田」乗組員の総員写真です。
全員の顔が見えるように甲板はもちろん、煙突や砲塔にまで
人が鈴なりになっている様子は壮観です。
「千代田」は「千歳」型水上機母艦の2番艦として開発されましたが、
就役して1年半後の1940年5月、甲標的(潜航艇)母艦として
ハワイ攻撃のための特別訓練を行うため三机に停泊していました。
その後再び航空母艦に改造され、レイテ湾沖で戦没しているので、
艦種カテゴリは空母ということになるのですが、そこでわたしは
戦後海上自衛隊が、潜水艦救難艦として「ちはや」とともに
二代にわたって「ちよだ」の名前を引き継いだということに気付きました。
艦種名こそ「潜水艦救難艦」ですが、つまりこれは「千代田」と同じ母艦です。
甲標的を載せるため三年間潜水艦母艦になっていた「千代田」の名前を
海上自衛隊が潜水艦救難艦に引き継いだことから、わたしは関係者の
ある「想い」を感じるのですが、それは考えすぎでしょうか。
今日は、三机の岩宮旅館にある史料館をご紹介します。
いわゆる九軍神となったハワイ攻撃の甲標的乗組員はじめ、
三机で訓練を受けるために滞在していた海軍軍人たちの写真、
直筆コピー、遺品などが、旅館の玄関横のスペースに展示されています。
ガラスケースの上部には、特別注文らしい横長の額に、九軍神の顔写真、
その下には岩佐中佐の遺書(複製)が掲げられています。
出撃前に故郷の両親に宛てた遺書で、文中の
「大和民族の擁護者として 大和氏族の推進者として
現下の時局に対処しうるは 直治最大の栄誉なり
まして選ばれて軍身(?)湾に突入以て
直撃一撃に敵(?)を打破し 大和正義を(?)せしめ
氏族の(?)を 世界平和根本の大任を(?)ぶにおいてをや」
という文言に続き、最後には
桜花 散るべき時に散りてこそ
大和の花と賞らるるらん
身はたとえ 異境の海にはつるとも
護らでやまじ大和皇国を
という辞世の句が記されています。
大本営の発表後、世間はことに岩佐中佐を称え、
毎日新聞が募集した詩に、東京音楽大学が曲をつけた
「軍神岩佐中佐」という曲までできたということですが、
その曲が世間一般に広く知られるには至らなかったようです。
ガラスケースの展示で目を引かれたのは、岩宮旅館に残された
三机滞在中の海軍軍人たちの見せるオフの姿でした。
旅館の人々によって記された彼らの階級は、潜航艇で突入後
二階級特進したものではなく、ここ三机でのものです。
左の写真はまるで修学旅行の学生のような雰囲気ですが、
捕虜になった酒巻和男少尉とシドニー湾突入の松尾敬宇中尉の他にも、
加藤中佐、そして下士官も一緒に写っています。
右は三机湾を後ろに撮ったもの。
「千代田」が停泊して訓練が行われていた16年夏の写真で、
当時は港に銃を持った衛兵が立って機密保全をしていたということですが、
とてもそんな港の物々しい様子は彼らの表情からはうかがえません。
左の写真の「講習員」とは、甲標的の訓練を受けたことを意味します。
「呉丸」の船上で撮ったものということですが、揺れる船上で
中馬兼四少尉の頭に伴少尉と横山少尉がふざけて手をかけています。
「やーめーろーよー」
とか言ってそう(笑)
彼らは同じ年頃の岩宮旅館の姉妹とは大変仲が良かったようで、
この左側のような写真も残されています。
後方真ん中が酒巻少尉、右端で笑っているのが横山少尉です。
獅子文六の「海軍」のモデルになった横山少尉は、九州の出身なのに
りんごのように頬っぺたが赤く、そんな彼が日焼けすると、
「焼きリンゴ」
とからかわれたそうですが、この写真からもそれがうっすらわかります。
「呉丸」というのは地元の屋形船か何かだったのでしょうか。
いろんな写真を見る限り、酒巻少尉はどうもかなりの照れ屋さんのようです。
右側はまるで臨海学校の写真のような雰囲気ですが、三机湾から離れた
海岸で行われた水泳訓練での一コマのようです。
ここに写っている酒巻少尉以外の青年たちは、終戦までに全員が
戦地に散って逝ったことになります。
昭和16年12月の真珠湾攻撃ののちも、訓練がつづいていたことを
表す写真ともなっています。
いずれも岩宮旅館の前で撮られたということですが、
講習員であった「太田中尉」「佐藤少尉」が
岩宮家の人々と、赤ちゃんを抱いたりして写っています。
いわゆる「九軍神」と酒巻少尉らは第1期講習員でした。
ここに写っているのは第13期の講習員として訓練をしていた軍人たちです。
展示ケースには、海軍が三机を実験場にするために
下見に来たところから、その歴史が写真入りで記されています。
海軍がここを甲標的の訓練場に選定したのは、湾形が
真珠湾に似ていることと、交通が少なく機密が保全されるからでした。
左の上は、「千代田」艦長であった原田覚大佐の写真が見えます。
「海兵41期、第33特根(?)司令官
セブにて甲標的隊を指揮 多大の戦果をあげたが
20年9月25日 戦病死・中将」
写真下二人は甲標的の試作艇の試乗を行った
関戸好密大尉(海兵57期)と堀俊雄機関中尉。
そして目を引くのが、ここに滞在した甲標的搭乗員たちが
出撃前に岩宮旅館の人々に残していた遺墨の数々です。
「轟沈」「男命の捨て所」「一誠」
など、当時の軍人たちが遺していく書の「流行り」でもあった言葉がならんでいます。
その中で、「回天」開発者だった黒木博司機関中尉の書に
目が奪われました。
説明をしてくれていた先ほどの慰霊祭の宮司さんに訊ねると、
黒木中尉はこれを左手で書いたのだそうです。
「裏側じゃないんですよ」
岩宮旅館の女将は笑いながらそう言いました。
そういえば昔、左手で裏向きの字を書く遊びをやりましたっけ。
黒木中尉はそれを遺墨でやってしまっているわけですが、
さすが墨で書き慣れている昔の軍人だけあって、
裏向きながらなかなかの達筆に見えます。
回天の開発後、指導者として黒木中尉の遺した逸話から
部下にはもちろん自分にも厳しい人物のようなイメージでしたが、
これを茶目っ気でやったとすれば、意外な一面です。
旧軍軍人の遺した遺書は達筆が多く、それをもってある人は
「今の若者とはレベルが違う」などと言ったりしますが、
全てを見る限り、決して全員が全員そうではなく、やはり達筆もいれば
そうでもない人がいて、その割合は今も変わらないのではないかと思います。
違うことがあるとすれば全員が毛筆がきに慣れているかどうかだけでしょう。
顔マークを添える人あれば、「男一匹」などとスカした一言の人もいて、
「青年の感激 思ひ出の三机」など、純情な青年らしいことを書く人もいます。
ここにも左手で「馬」という字を「裏向き書き」をした人がいます。
人が歩いている絵には
「ナイト・バイ」
と意味不明な言葉が添えられていますが、仲間が見たらわかったのでしょうか。
書の下にはここで訓練をしたその後や、いつ書を認めたか、
三机に滞在したおそらく全ての軍人たちの詳しい紹介が添えられていました。
たとえば第4期講習を昭和17年に受けた艇附の鹿野明兵曹長は、
昭和17年春に寄せ書きを遺し、その後昭和19年5月29日、
サイパン北方で戦死していますし、その他に名前が見える軍人たちも
読む限り全員が生きては帰らなかったようです。
軍神たちの物語は、幾度かテレビがドキュメンタリーに取り上げたようで、
2015年8月15日の深夜1時35分放送というマイナーな扱いで放映された
ザ・ドキュメントの「軍神ー忘れられた英雄たち」という番組や、
「50年目の鎮魂歌〜姉妹と軍神たちの青春」が録画されたCD-ROMが見えます。
わたしとしては、同じCD-ROMに録画されている
「呉での慰霊祭にて 酒巻少尉との会話」
というのをぜひ見てみたいのですが・・・。
左側の青年の立ち姿の写真は、わたしが見せていただいた
町民会館の二階の展示ケース前です。
ロケを行った俳優でしょうか。
その町民センターに掲示されていた写真です。
遺品の多くは靖国神社に寄贈されていますが、たとえば
シドニー湾に突入した松尾敬宇少佐艇から発見された
(ということはオーストラリアからの返還ということになる)
小さな小さなキューピー人形は、現在、江田島の
第一術科学校の教育参考館に展示されて見ることができます。
ケースの前に集まった「三机初体験」の数人(久野潤氏含む)のために
九軍神と特殊潜航艇の訓練を行った若者たちについて語ってくれたのは
先ほどの慰霊祭を執り行った宮司でしたが、その方は
昔地元の役場に務めておられたころ、ここに慰霊にやってきた
酒巻少尉を役場内で見たことがあったそうです。
「そのときはわたしも若く、声をかけることもできずに遠くから見るだけでした」
そういう宮司さんも岩宮旅館の6代目女将、山本恵子さんと同い年。
(わたしは思わず女将さんがお若く見えるのに驚いてしまったのですが)
「軍神たち」をお世話した岩宮旅館の人々もすでに亡き人になりました。
しかし、ここに岩宮旅館があって、一年に一度、彼らやここで訓練を受け、
その後南の海に散って行った若者たちのための慰霊祭が続けられる限り、
彼らは人々の記憶から消え去ることはないのでしょう。
例年は参加者は旅館に一泊するのですが、今年は昼間に終了したため、
何人かは松山までその日のうちに移動しました。
わたしは海自OBの参加者お二人をお乗せして運転手を引き受け
瀬戸内海を臨む海沿いの道を走っていましたが、夕日が傾いてきた頃、
こんなビューポイントに差し掛かったので、お二人を車に残したまま
外で写真を撮らせてもらいました。
夕日に照り映える海と岸壁をファインダーの中に見ながら、わたしは
かつてここに若き日の一途で純粋な思いを一日一日と燃やし尽くした青年たちがいて、
この同じ海の色を見ていたであろうことを思わずにはいられませんでした。
終わり