「ジーマハト・オストライヒ」(オーストリアの海軍力)という題で
ウィーン軍事博物館にわずかの間存在していたオーストリア海軍の資料を
前回紹介させていただきました。
今日は、いわばこの博物館の海軍的目玉展示をご紹介します。
その前に、前回ご紹介できなかった河川警戒船であろうと思われる写真をどうぞ。
SMS「テミス」に似ていますが、わかりません。
訪問までオーストリア海軍についてなんの前知識もなかったわたしは、よもや
ウィーン軍事史博物館でこんなものに出会えるとは思ってもいませんでした。
この時にはまだ「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐のモデル、
フォン・トラップ少佐が潜水艦乗りだったということも全く夢にも知らず、
さらにはオーストリア海軍が潜水艦を持っていたことも知らなかったので、
部屋に入り、それが潜水艦であることがわかった途端、動悸が早くなったほどです。
展示されていたのはオーストリア=ハンガリー帝国海軍のU-20でした。
第一次世界大戦の開戦後、プーラ海軍工廠で建造が始まり、
1916年進水を行なっています。
U-20と英語で検索すると、上にドイツ海軍のU-20が出てきますが、
同じドイツ語の「ウンターゼー・ブート」の『U』を使っていても
この二隻は同じ命名基準による艦名ではありません。
どういうことかというと、K.u.K海軍のU-20は、
U-20級
のことであって、U-20級は全部で4隻造られているため、
正式にはこれは、
U-20級の1番艦
であり、同級がかつては他に3隻存在していたのです。
オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、第一次世界大戦の発生を受け、
喫緊の必要性に駆られて潜水艦を造ることになりました。
そこで、設計の手間を省いて、国内の造船会社ホワイトヘッド・フューメが
以前デンマーク海軍のために作った、
をそっくりそのままの仕様で建造するという形で進められました。
リンク先を見ていただくと、
After the outbreak of World War I, the Austro-Hungarian Navy
seized plans for the Havmanden boats from Whitehead & Fume Co.
and used them as the basis for its four U-20-class submarines.
とあるのがおわかりいただけます。
「seized」という言葉には「奪い取る」「押収する」という意味合いがあるので、
「KuK海軍はホワイトヘッド社からハフマンデンの設計を『押収』し、
それをもとにU-20級を4隻作った」
という感じで書かれていることになります。
「ハフマンデン」
オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、時代遅れですでに陳腐化していた
この潜水艦に決して満足していたわけではありませんが、何しろ急だったので、
とにかく潜水艦の形さえしていれば背に腹は変えられないといったところでした。
というわけで1918年、完成したU-20の1番艦は、さっそく公試試験に入りました。
しかし好事魔多し、その潜行試験で1番艦はオーストリア=ハンガリー帝国海軍の
軽巡洋艦「アドミラル・シュパウン」に衝突して破損してしまうのです。
「潜水艦の形さえしていればいい」などと失礼なことを言ったので
(いったのはわたしですが)その言霊がよくない影響を及ぼしたのでしょうか。
それは違います。
問題は、4隻のU-20潜水艦が、オーストリアの造船所とハンガリー王国の造船所で、
2隻ずつ、二箇所で並行して建造されていたことにありました。
なぜそんなことをしていたかというと、当時両国は「同等」の立場だったため、
特に国家事業については平等に利益分配しなければならなかったのです。
生産ラインが一元化していないと、たとえば設計の技術的な問題が表面化しても
修正が簡単にいかないため、結局工期は大幅に遅れる結果になります。
公試試験の事故も、二つの造船所同士のすり合わせがうまくいかず
根本的な問題の解決に至らなかったのが原因だったと言われています。
講師試験中のU-20にぶつかったという、
SMS「アドミラル・シュパウン」。
ちなみにこの「アドミラル・シュパウン」も、第一次世界大戦敗戦後、
イギリスに賠償艦として接収され、1年後には廃棄されています。
この時の衝突で、潜望鏡、司令塔に損傷を受けたU-201番艦は、
ドックに戻って7ヶ月間かけ、修理を行いました。
そして就役を行なったわけですが・・・・。
ちょっと待ってください。
この状況を鑑みるに、U-20、その後沈没していたようですね。
ってそれは見ればわかる。
近づいていくと、塗装の全く剥落し錆びた状態の艦体と、
長らく海中にあったらしい牡蠣がらの跡が生々しく残っているのが見えます。
敢えて塗装や修復を行わず、引き揚げられた時のありのままの姿で
ここに展示されているらしいことがわかりました。
それでは、U-20はどういう経緯で沈んだのでしょうか。
1918年7月4日、つまり2月に就役してから5ヶ月後のことです。
U-20の指揮をとっていたのはルードヴィッヒ・ミュラー大尉。
この人のおかげでオーストリア海軍の階級がわかったので得意になって書いておくと、
Linienschiffsleutnant(リニエンシッフス ロイテナント)
が大尉に相当するランキングとなります。
ただし、これはオーストリア=ハンガリー海軍だけの階級です。
同じUボートに乗っていてもドイツ海軍とは全く違いますので念のため。
ちょっと面白いので寄り道して説明しておくと、KuK海軍では、階級の前に
少「コルベット」中「フリゲート」大「ライン」
と、乗る船のクラスが付き、リニエンシッフスとは、「ラインの船」という意味です。
この意味がよくわからないのですが、おそらく巡洋艦以上のクラスのことでしょう。
「ロイテナント」は尉官です。
これらを「カピタン」、つまり佐官で説明すると、
Korvettenkapitän OF -3(少佐)コルベッテンカピタン
Fregattenkapitän OF -4(中佐)フレガッテンカピタン
Linienschiffskapitän OF-5 (大佐 )リニエンシッフスカピタン
というわけですね。
尉官クラスは中尉と大尉のみこの法則で呼ばれ、
少尉だけ「コルベッテン」は付けられません。
閑話休題。
それではU-20撃沈までの経緯を説明します。
このミュラー・リニエンシッフスロイテナントが艦長を務めるU-20は、
1918年7月4日、アドリア海を航行中、
潜行していたイタリア海軍の潜水艦F-12に発見されました。
U-20は海面を航行しており、これを海中から発見したF-12は
潜行したまま、相手に見つかるまで近づいていきました。
この航跡図からは読み取れませんが、F-12は最初は潜行して、
そして途中からは浮上してU-20を追跡し続けました。
F-12の浮上の理由は、U-20が浮上していたためです。
魚雷を撃ち込むには、こちらも最後の瞬間に海面に出る必要があります。
図でいうと、おそらく、2105のポイントから魚雷発射しようと近づいていき、
発射するために浮上したところU-20が転舵したのではないでしょうか。
(海戦の知識がないので単なる想像です)
魚雷を発射するには艦首を相手に向けなくてはいけないので、
F-12は相手に艦首を向けるためになんどもターンを行っています。
そして2243、ついにチャンスを捉えて攻撃しました。
射程距離は590m、撃ち込んだ魚雷はことごとく命中し、
U-20は乗員の脱出を全く許さないまま、瞬時に海中に没しました。
海面には残骸はなく、ただ油膜だけが浮いていたそうです。
沈没したU-20の艦体がアドリア海で発見されたのは、1962年のことです。
イタリアはこれを引き揚げることにしました。
おそらくその当時は我が国の伊33潜水艦の時に行ったような
ロープを艦体に回して吊り上げる方法(提灯式)で引き揚げられたのでしょう。
作業を行う前か行った後かわかりませんが、(おそらく事後)
潜水具の脱着をやってもらっているところです。
ロープで牽引したU-20(おそらく艦尾部分)がクレーンで吊り上げられ、
44年ぶりに海面に姿を現した瞬間です。
イタリアがなぜこの引き上げを行うことになったのか、その理由は
どこにも書かれていませんが、沈没の状態からいって
まだ中には乗員全員の遺体が残っていると判断したからではないでしょうか。
オーストリア政府と連絡をとって、費用を出させた可能性もあります。
引き揚げは前部と後部に分けて二日がかりで行われ、
内部に残っていた乗員の遺体は、オーストリアに運ばれて
現在唯一の士官学校であるテレジア陸軍士官学校の敷地に埋葬されました。
コニングタワーと艦体中部はウィーンに運ばれ、ここに展示されています。
艦内から見つかった遺品もすべてここに展示されています。
分厚い書物は、40年以上海水に浸かっていたのに、まだ字を読むことができます。
そして、士官が持っていたのでしょうか、いくつもの懐中時計。
第一次世界大戦では時間を合わせて行動を行うために腕時計が普及しましたが、
それは陸戦を行う部隊だけの事で、海軍では懐中時計が主流だったことがわかります。
1918年の海軍年鑑は驚くほど原型をとどめています。
まだ中身は読めるのではないでしょうか。
本の上に置かれた左のバッジは帝国海軍のインシグニアです。
靴。フォークにスプーン。
錨の絵の書かれた本は「ビーコン」(LEUCHTFEUER)というタイトル。
40年の時を経て、乗員の亡骸は祖国に戻ることができ、
彼らの魂はせめて少しでも安らかに眠っていると信じたいですね。
コニングタワーの周囲には見学用のデッキが設置されていました。
こういう風に真横から見学できる階層と・・。
艦体を真下に見下ろすことのできる高い階層も。
ハッチの部分は内部が見えるように透明のガラスに変えてあり、
内部にはおそらく当時と同じ場所に電灯が灯っているのが確認できます。
写真にはうまく写すことができませんでしたが、肉眼では内部の様子はわかります。
ここをかつて潜水艦の乗組員たちが行き来していたのだな、
と思うと、いつまでもその内部を見ていたいような気持ちになりました。
オーストリア=ハンガリー海軍士官用コート。
金色のサッシュは暗殺されたフェルディナンド皇太子の遺品にもありました。
下に写真がありますが、だれか有名な軍人が着用していたのでしょうか。
艦砲ですが、残念ながらスペックを表す説明がありません。
前回ご紹介した模型のうちどれかのものであることは間違いないところです。
帝国海軍水兵の冬・夏用軍服と私物など。
今度行くことがあれば、この部分も詳細に写真を撮ってきます><
潜水作業用のスーツで作業をする人。
というわけでオーストリア=ハンガリー帝国海軍について
この展示を通して新たに知ることになりました。
また行く機会があれば、その時にはここから見学することをお約束します。
続く。