ニューヨークのハドソン川流域に係留されている展示艦、
USS「スレーター」の見学記も最終回になりました。
甲板の爆雷投射機の説明を受けてから、わたしたちは
ツァーのコースの最後のパート、
ファースト・プラットフォーム・デッキ
をもう一度別の部分からのアプローチで見学することになりました。
この階のさらに下にあるのは
セカンド・プラットフォームデッキ
です。
ここは見学者の立ち入り禁止になっており、公開されていません。
この階は三つのパートに分かれており、エンジンとモーターの機関部以外は
艦首側、艦尾側には倉庫になっています。
この倉庫の中には果物や野菜などの生鮮品倉庫や、冷凍室もありますが、
多くの面積を占めるのが40ミリ砲の弾薬倉庫です。
駆逐艦の場合は、最下層階を
Hold 4Foot Waterline
と呼び、キールの上に当たります。
一般的に「ビルジ」と呼ばれているところでもあり、
ここもまた「倉庫」「機関部」「倉庫」の三つに分けられます。
ここには水中音響室、ロッドメーター室、ヘッジホッグ収納マガジン、
その他の武器貯蔵用マガジンなどの倉庫の他には
水のタンク、そして爆雷の弾薬倉庫があります。
というようなことを説明している解説のボランティアのおじさん。
まず最初に目に入ったのがダメコン用の素材です。
艦壁が戦闘などで破損し水が侵入してきたときを仮定して
海軍では日頃からダメージコントロールの訓練を行います。
どんな艦船も設計にあたっては一定の安全率が考慮されているので、
浸水があってもある程度の時間は沈むことはありません。
特に軍艦の場合は、船体構造を強固にしたうえで、各種被害を
最小限に防ぐための区画配置が計算されています。
水線下に損傷を受けると、損傷区画位置によっては艦体が傾斜を起こすので、
対側の区画にあえて注水して復元させるということもあります。
正確な記憶ではないのですが、確か戦艦「大和」の最後の戦闘で
片舷側が破孔したので、わざと反対側に魚雷を受けて、
この方法で復元させようとしたところ、意に反してびくともしなかった
(のでこの後に及んで中の人びっくり)という話があった気がします。
もし艦体に破孔やクラックが生じた場合、遮防作業が必要となります。
その際、破孔に毛布・マットや箱パッチを当てて、その上から当て板を当てます。
さらに縦方向の支柱を立てて、当て板との間に突っ張りをし、水圧に対抗します。
ここにあるダメコン素材はそのときにこそ必要なものです。
艦内に備えられてある木製の角材を必要な長さに切り出して用います。
特殊な判断として、損傷が小さなクラックであった場合は、
傷の両端にあえてドリルで穴を開けることもあります。
これは艦体が航行によってねじれても割れが拡大しないという効果があります。
つまり、どうすれば1秒でも長く艦を保たせることができるか、
それがダメコンの奥義だと思うのですが、それには
まさに現場で正しい判断ができるヴェテランが必要となってきます。
そして、そういう技術を体得し現場で采配を振るうのが
CPOという実力者たちでした。
「スレーター」のタメージコントロールの説明には
「The Invisible Advnattage」(目に見えないアドバンテージ)
として、以下のようにあります。
「スレーター」の乗員は三つのダメコンチームに分けられていました。
自分の艦について知り尽くした名も無きヒーローたちは
それが危機に見舞われたときにはなにをすべきかを知っていました。
ジェネラルクォーターが発動すれば、人々は器具、ポンプ、ジャック、
そしてメンテナンスと補修作業に必要なものを持って動き出します。
彼らは砲弾による破口をふさぎ、裂け目を溶接し、消火活動をし、
そして水を汲み出すのです。
彼らは自らの命も危うい状況であっても、そう、
たとえ水が腰まで来ていたとしても果敢に作業に当たりました。
watertight compartmentation (水密区画)はダメコンにとって
最も重要な要素です。
ジェネラルクォーターによって、全てのハッチは閉鎖され、
一連の水密区画はそれによって密閉されます。
もし戦闘や衝突などの衝撃でそのうち一つや二つの区画が破損しても、
密閉された水密区画が艦体に浮力を与えるので沈むことはありません。
かつて護衛駆逐艦の乗員を構成した男たちは、
現在全てが祖父の年齢となりました。
彼らのほとんどブートキャンプを経て、そしてその前は
あるものは高校から、あるものは農村から、工場からやってきて
職場では入門レベルの仕事をしていた10代後半の若者たちでした。
そのうち10パーセント弱は生まれてから海を見たこともありません。
そんな彼らを海の男にするために、真の意味の「オンザジョブ」
(現任訓練、実務をさせることで行う職業訓練)が行われ、
200名の男たちが短期間でチームとして鍛え上げられました。
まあ、ただでさえ命がかかった「仕事」で、おまけに
戦時中とあらば、真剣さが違って当然かもしれません。
「スレーター」博物館が発行した非常時のやることリストが貼ってありました。
今現在のダメコンがここに書かれているというわけです。
1)艦尾側のアラームを切る(赤灯が点灯しアラームが鳴る)
2)すぐに淡水を確実にバルブで船に送る
3)ポンプをアクティベートし、スタートボタンを押して浄化槽から水を送る
4)もし警報ベルが鳴ることでタンクからの組み上げがダウンした場合は、
淡水バルブを再度開いて出荷し、通常の操作を再開する
5)もしアラームがならなかったら、ポンプも壊れていると過程されます
洗面所に独立した送水が行われるまで水を確保し続けてください
6)使っていいのは岸壁側のトイレだけ
7)ティムの家に電話してください(電話番号)
ティムというのが責任者のようですが、常勤ではないようです。
クルーヘッド(乗員用トイレ)はこのような有様です。
「你好トイレ」というものが中国には存在しますが、プライバシーの点では
これも似たようなものかもしれません。
少なくとも、神経質な人には耐えられそうにないこのオープンな作りです。
しかし、150名の水兵が皆で一箇所のトイレを使うわけですから、
優先順位はおのずと効率性が先にくるのは致し方ないことでしょう。
しかしご安心ください。
よくしたもので「スレーター」のヘッドは、幸いというかなんというか、
トラフ(桶?)の一方の端から反対の端に、
海水が連続して流れる「自然水洗トイレ」仕組みになっていました。
もちろんこれは当時のアメリカ海軍の駆逐艦の兵隊用で、
ギリシア海軍時代にはもう少し別の仕組みが採用されており、
博物館に改装した際に復元したものと思われます。
しかし、アメリカ軍も兵隊さんはなかなか大変な生活をしていたようで。
ここに再現されているのは「スレーター」の装備そのものではありませんが、
だいたいが2〜3人が並んで腰掛けるトイレが両舷に並んでおり、
それとは別に4つの小便器、そしてたった4つのシャワー(!)、
洗面台が7つ、これが全てでした
アメリカ海軍では起床ラッパのことを
Reveille(レヴェイユ)
といいますが、このレヴェイユが鳴り響くと、一斉に
30〜40名の水兵たちがいちどきに洗面、髭剃り、歯磨きのために
洗面台の前にラインを作ります。
後ろにそれだけ並んでいるのですからゆっくりやっている時間はありません。
シャワーも貴重な真水を使うので、一人3分と決まっていました。
水不足が懸念されるときにはそれも叶わず、体を洗うのは冷たい海水で行い、
最後にバケツいっぱいでリンスすることしか許されませんでした。
南洋に展開しているときは雨が降れば皆大喜び。
甲板に各自が石鹸を持ち出し、思う存分天然のシャワーを浴びました。
シャワー室とトイレはスペースとしても広いものではありません。
ここを水兵たちが全員で使っていたと聞いて、思わず目を見張る見学者たち。
洗面台の鏡の上には
ストレッチャーが掛けられていました。
ここに「エンジニアリング・デパートメント・ログルーム・オフィス」があります。
艦体中央の右舷通路にあるのが普通でした。
ディーゼルエレクトリック推進システム操作法に関する全ての記録が保存されており、
機関部のヨーマン(書記)がログブックとマニュアルを管理しています。
今ではそれら全てがコンピュータ一台で済んでしまうので、部屋は必要ないかもしれません。
ここはまた、海軍工廠や各設備製造会社から送られてきたマニュアルの
ライブラリーとしても機能しており、艦に関することであればどんな小さい部品についても
ここにくればわかるようになっていました。
武器に関するメインテナンス法も、このログルームで管理しています。
かつて乗員にお知らせを貼る掲示板には、戦時中のポスターや、
ネジの種類を図解にしたインデックス(当時のもの)などが貼ってあります。
下の写真は改装前の「スレーター」の姿だろうと思われます。
残念ながらファーストプラットフォームデッキの見学はこれで終わりでした。
ここにはそのほかにもランドリー、
カーペンターショップ、サプライオフィスなどがありますし、
医務室=シックベイ、
エンジンルーム、
メインエンジン、
ステアリング・ギア・ルーム
など、見るところがほかにいっぱいあるはずなのですが、今回の見学では
そこまで案内はされず、残念です。
これらの部分も公開されているはずなので、いつか実際に見に行きたいものです。
上に上がってくると、売店がありました。
シャンプー、石鹸、剃刀、ヘアトニック、歯磨きなどの日用品、
べルトや靴紐なども売っています。
アメリカ人大好きチューインガムはミントとフルーツの三種類。
タバコは「キャメル」か「ラッキーズ」(ラッキーストライクのこと)
紙巻きの他にパイプ用、噛みタバコなどもあり。
手紙のセット、靴墨、シャンブレーのシャツやダンガリーズボンも
新しく買う人がいるようです。
メインデッキに上がってきて、ツァー一行は乗艦した左舷側に帰ってきました。
かつて「ジェネラルクォーターズ」を告げたこのスピーカーも、
今はまったく沈黙しています。
ここで最後に「スレーター」と日本との「戦い」について触れておきます。
大西洋における船団護衛の任務が終わると「スレーター」は
神風特攻の脅威が米国と連合軍の船に多大な被害を与えていた
太平洋戦線での新しい敵との戦いに備えて、その兵器に変更を加えました。
ブルックリンでのオーバーホールの後、
日本侵攻に備えて対空兵装の増強を受け、
ニューヨークを出港後はパナマ運河を通過し、サンディエゴに到着。
そしてその3日後、真珠湾に向けて出航しました。
ところが「スレーター」が太平洋に到着したとき、
ちょうど日本に原子爆弾が投下されました
(投下したのはもちろんアメリカですが)
そこで「スレーター」はフィリピンに送られることになりました。
日本が降伏した8月15日、「スレーター」は神風特攻の攻撃を受け、
これを間一髪で避けることができた、といわれています。
ただ、日本側に残る正式な特攻隊員の名簿には
フィリピン方面でその時期特攻隊は出されていないはずなので、
この情報はどこかが間違っていると思われます。
その後「スレーター」は日本とキャロリン諸島への護送団護衛任務を行い、
その仕事を最後にアメリカ海軍を退役することになり、
ノーフォークで不活性化後、予備役となりました。
ギリシア海軍に譲渡されたのはそれからさらに後のことです。
まあ要するに日本とは「戦わずに済んだ」駆逐艦なんですね。
日本人のわたしとしてはこれはなんとなくほっとする事実でした。
ちなみにHPには「シップ・ログ」がありますので、
ご興味のある方は覗いてみてください。
マニラなどにおける写真はありますが、日本での写真は
滞在がわずか1泊だったせいか一枚もないのが残念です。
最後にガイドの方は、かつての駆逐艦の姿をこれだけ完璧な姿で
現在に残すために、関係者各位がいかに努力をしたか熱く語りました。
そこで見学者が退艦となったのですが、わたしたちが降りる前に
寄付を投入するボックスに20ドルを投入すると、ガイドさんは
「おお、ありがとうございます。寄付は大歓迎ですよ!」
と残りのみんなに聞こえるような大きな声で言ったので、
わたしたちの後の人たちはあわててお札を出しはじめました(笑)
見学したときにはそれほどとは思っていなかったですが、
こうやって調べれば調べるほど、博物館として「スレーター」を維持するのに
絶え間ない資金投入が不可欠であることがよくわかりました。
また機会があったら訪れて、彼らの維持の努力に対し少しでも助力したいと思います。
USS「スレーター」シリーズ 終わり