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「太平洋の翼」 第二次世界大戦航空史〜スミソニアン博物館

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スミソニアン博物館プレゼンツ、「第二次世界大戦における航空史」
二日目です。

太平洋の空の戦争

1942年の終わり、アメリカ軍は反撃に出ました。
海軍と海兵隊の兵力をガダルカナル島とソロモン諸島に上陸をさせ、
日本軍を防戦一方に追い込む作戦です。

1943年には、アメリカ軍の対日本オペレーションは
総稼働状態といってもよく、ダグラス・マッカーサー率いる米陸軍は
オーストラリアの同盟軍とともに日本軍が占領していた
ニューギニアの北海岸を占領し、後にフィリピンを開放した。

一方、チェスター・ニミッツ提督は、それと並行して、ギルバート、マーシャル、
マリアナ、キャロライン諸島を経由し、太平洋中央部への進出を推し進めた。

いわゆるHoppingーisland(飛び石)作戦ですねわかります。

航空戦における圧倒的な勝利は、1944年の夏、マリアナ海沖海戦での

「マリアナ海の七面鳥撃ち」

で、これ以降アメリカ軍は制空権を得ることになりました。

1944年以降、マリアナ諸島のテニアン島から出撃した
B-29スーパーフォートレスによる戦略爆撃は、
1945年8月の広島と長崎への原子爆弾投下をもってその頂点に達した。

 

太平洋戦線(パシフィックシアター)に出撃した、陸海空海兵隊の
代表的な航空機が紹介されています。

まず、ノースアメリカン、B-25ミッチェル。

水煙が立っていますが、下に見える駆逐艦は日本軍のものでしょうか。

ヴォート F4Uー1Dコルセア。

スミソニアン所蔵のコルセアはまるで空を飛んでいるようです。

グラマンF6F−3ヘルキャット。

ヘルキャットもここでは空を飛んでいます。

ロッキードP-38ライトニング。

わたしはスミソニアンでライトニングの実物を始めて見ました。

広島に原子爆弾を落としたB-29「エノラ・ゲイ」の下に、
まるで寄り添うように置かれていたのがP-38です。

太平洋戦線ではめざましい活躍をみせたP-38の、いわゆる
「大金星」は、1943年4月18日、

「真珠湾攻撃を計画した山本五十六元帥の乗った三菱G4M
『ベティ』(一式陸攻)を撃墜した」

ことでした。

アメリカ側は山本長官の乗った機の飛行予定を暗号解読していましたが、
ブーゲンビルを飛び立った山本長官機を捉えるためには
秒単位のタイミングが必要でした。

この攻撃を可能にしたのは、何事も時間通りに計画を遂行する
日本軍の「慣習」であり、アメリカがそれを信頼していたことです。

 

P-38は日本軍の搭乗員に「ペロハチ」とあだ名をつけられていました。

「P」を「ぺ」、「3」を「ろ」とあえて読んだこの名前は、
日本軍の搭乗員がベテラン揃いだった最初こそ

「ぺろっと食える(撃墜できる)」

という意味だったのですが、激しい空中戦で徐々にベテランが倒されるうち
主客逆転し、「ぺろっと食われる」側となってしまいました。

したたかなP-38は太平洋で他のどの戦闘機よりも多く日本機を撃墜し、
リチャード・ボングらのエースを輩出しています。

スミソニアン別館のP-3Cの近くには、やはり同じ双胴の

ノースロップP-61 ブラックウィドウ

も展示されています。

ロンドンへの夜間爆撃を受けて対抗するために開発された夜間戦闘機、
ブラックウィドウは、終戦間際に日本への攻撃を行ったことがあります。

現存する機体は3機であり、これはそのうちのひとつです。

コンソリデーテッド PBYカタリナ。

飛行艇PBYは、雷撃や救難艇として太平洋で活躍しました。

PBYはスミソニアンにはありませんが、同時代の水上艇、
ヴォート-シコルスキー OS2U-3キングフィッシャー
なら見ることができます。

キングフィッシャーはアメリカ海軍の初期の艦搭載型水上艇で、
第二次世界大戦中は偵察機として運用されていました。

太平洋では多くの搭乗員を海から救出しましたが、その中の一人に
第一次世界大戦時のアメリカのエース、

RickenbackerUSAF.jpg

エディー・リッケンバッカー(1890〜1973)

と彼が乗っていたB-17の搭乗員がいます。
リッケンバッカーは機が撃墜されて海を漂流しているところを
23日目にキングフィッシャーに救出されました。

リッケンバッカーはのちにイースタン航空の社長になっています。

ここにヘリコプターの写真が出てきてちょっとびっくりです。
第二次世界大戦中はヘリコプターの運用はなかったと思っていたので。

シコルスキーR-6A ホーバーフライ

は、1944年に陸軍に納入され、砲兵部隊の着弾観測任務、
そして連絡用に使用されていたということです。

 

ヨーロッパにおける空の戦争

 

ドイツ空軍、ルフトバッフェはヒトラーのヨーロッパ、北アフリカ、
ロシア征服の野望のために重要な役割を演じた。

しかしそのルフトバッフェは、1940年夏と秋のドラマティックな
「バトル・オブ・ブリテン」で最初の大きな逆転に苦しめられることになる。

ロイヤル・エアフォースの戦闘機は、ヒトラーのイギリス侵略のための
いかなる計画をも阻止し、ドイツ軍を駆逐した。

ホーカー・ハリケーンとスーパーマリン・スピットファイアーは、
イギリス製の最新兵器早期警戒レーダーの助けを借りることで、
1940年のバトル・オブ・ブリテンにおいて
ドイツの爆撃機に対抗することが可能になったのでした。

 

1943年、イギリスとアメリカはドイツの産業および
都市の中心地に対する複合爆撃攻撃を開始した。

写真は、1943年8月、B-24爆撃機がロマーニャの
ポロースキーにある油田を攻撃しているところです。
大変費用のかかったといわれるこの攻撃は、ドイツの戦時工業から
主要な製油所の一つを奪うことを目的に戦略的に行われました。

 

ボーイングB-17フライングフォートレスとコンソリデーテッド
B−24リベレーターは、ヨーロッパにおける日中高高度からの
爆撃作戦に最も多く運用された航空機です。

そのうち航続距離の長い戦闘機が爆撃機をエスコートすることで
攻撃の効果が高まり、さらには搭乗員の生還率も大きく上がりました。

ドイツ上空で爆撃を行うB-17。

爆撃機は常に対空砲の脅威にさらされていました。
何百機ものB-17、B-24、そして何万人もの航空機乗員が、
ヨーロッパにおける戦略爆撃の任務中に失われています。

 

第二次世界大戦中の戦略的航空力

このように、戦略的爆撃は敵の軍事的、戦時的、および経済的基盤に
強力な打撃を与えることができました。

加えて空軍は、戦略的に敵の軍事通信線に対し、
直接(近接支援)および間接(妨害)となる攻撃を実行しました。

「ポスト・ノルマンディ」としてヨーロッパを超えて
その掃討がドイツに及んだとき、アメリカの戦術航空機、
とくにリパブリックP-47サンダーボルトは、アメリカ軍の
空中優位性を獲得する上で重要な役割を果たし、
同盟国の勝利への道を開きました。

中型爆撃機マーチンB-26マローダーは、同盟国陸軍の進攻を
近接支援するのに非常に集中的に投入されました。

最強の連合軍司令官と言われた
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(左から二番目)が
ノルマンディを視察しているところ。

左からハップ・アーノルド将軍、ジョージ・マーシャル将軍、
オマー・ブラッドリー将軍、そしてアーネスト・キング提督です。

カール・”トゥーイ”・スパーツ将軍(左)は
ヘンリー・アーノルド将軍からもっとも信頼された指揮官でした。

ノルマンジー進攻、Dデイでは航空攻撃の指揮を取り、
アイゼンハワーからの直接の信頼を受けた知将です。

ちなみに彼は戦後創設されたアメリカ空軍の初代参謀総長に指名されました。

ちょっと手抜き?ハーケンクロイツの写真。

1945年の4月30日、ヒトラーは自殺前に、
カール・デーニッツを首相に指名しましたが、
5月7日に、彼はドイツの全面降伏をアイゼンハワーに宣言します。

翌日、5月8日が「V-Eデイ」対ヨーロッパ勝利の日とされました。

最後の日々(THE FIINAL BLOWS)

1944年後期、日本に対する戦略爆撃は、降伏を早めるための
非常に効率的なツールとされた。

ヨーロッパでの高高度日中攻撃の象徴となったB-29スーパーフォートレスが
日本の主要ターゲットを爆撃するのに投入されるようになるのである。

しかしながら、強力なジェット気流は、彼らのノルデン照準器の効果に
妥協を生むことになり、1945年3月、カーティス・ルメイ将軍は
夜間の低空からによる無差別爆撃を行うことを決定した。

何百機ものB-29が日本本土の上空を覆い尽くした。

おお、そうだったんですか!
東京空襲などの大々的な民間人殺害は、B-29のジェット機流のせいで
爆撃の照準器がうまく作動しなかったから仕方なく行われたと。

そうですか。それは知りませんでした。(棒)

鬼畜ルメイ

 

そして1945年8月6日朝9時、第509航空群の
特別仕様のB-29が、この戦争における最後の戦略爆撃を行った。

広島に一発、ついで長崎に一発の原子爆弾が投下され、
その数日後日本は降伏することになる。

これが広島に落とされた「リトルボーイ」(使用前)です。

「リトルボーイ」のアーミング・プラグ実物は、ここスミソニアンに
展示されています。

原子爆弾を搭載した直後、帰投してきたばかりの「エノラ・ゲイ」の乗員たち。

クルーはパイロットで隊長のポール・チベッツ以下、
士官4名(副操縦士、爆撃、ナビゲーター)、そして
銃撃手、フライトエンジニア、アシスタントエンジニア、
レーダーマン、通信士の合計9名でした。

全員激しい緊張の後といった様子が隠せません。

カミカゼ

日米戦におけるアメリカの優位が動かしようもなくなり、
自暴自棄となった日本はその最後の日、
カミカゼと呼ばれる自殺攻撃ユニットを投入した。
カミカゼ攻撃は1945年4月に集中して行われ、
そのころのアメリカの艦隊に深刻な打撃を与えることになる。

沈没した艦船は21、ダメージを受けた数は217を上回った。

また、当博物館にも展示されているジェット推進の「バカ」は、
カミカゼのミッションを航空機で行うために設計されたものだった。

「桜花」を「バカ」とだけ呼ばわるセンス、何でもかんでも
「カミカゼ」でくくってしまう大雑把さはさすがアメリカです。(投げやり)

第二次世界大戦の終了

日本は1945年9月2日に東京湾に浮かんだ戦艦「ミズーリ」艦上で降伏した。

ダグラス・マッカーサー将軍は式典で指揮をとり、
チェスター・ニミッツ提督がアメリカ合衆国を代表して
降伏調書に署名したのであった。

 

さて、というところでシリーズ終わりです。
あえて私自身の感想は最低限に抑えましたが、みなさんは
スミソニアン史観による第二次世界大戦の航空史を
どのようにご覧になったでしょうか。

 

次回からはまたボストンの第二次世界大戦博物館の展示に戻ります。

 

 


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