ボストンの第二次世界大戦は博物館について調べたとき、
ナチス占領下のフランスにおけるレジスタンス活動について、
連合国が組織的にレジスタンスグループと連携して
活動を幇助し内側から切り崩しを図っていたということ、
そしてそのために使われていた無線機などの道具を紹介しました。
その流れで、当時イギリス政府には、
特殊部隊作戦執行部 Social Operative Executive=SOE
という枢軸国下で諜報、偵察および不正規戦の展開、
現地レジスタンス運動の支援を行う組織があったことを知り、
その女性エージェントについて書いてみることにしました。
SOEは1940年結成当時はごく一握りの関係者しか知ることのない存在で、
「ベイカー街遊撃隊」(The Baker Street Irregulars)
「チャーチル秘密軍」(Churchill's Secret Army)
「非紳士的戦争省」(Ministry of Ungentlemanly Warfare)
と内輪では呼ばれ、また、保安上の理由から、SOEの各部局は
「合同技術委員会」(Joint Technical Board)
「相互勤務調査局」(Inter-Service Research Bureau)
といった曖昧な秘匿名称が与えられていました。
直接雇用されていた職員は13,000名、そのうち女性は3,200名です。
Éliane Sophie Plewman
わたしがこのSOEのエージェントについて知ったのは、
占領下フランスに忍び込ませていたこのイギリス人女性エージェント、
エリアーヌ・ソフィー・プルマン(1917−1944)が、
ゲシュタポに逮捕され、銃殺刑になったという話を目にしたのがきっかけです。
旧ダッハウ強制収容所の火葬場のひとつの焼却炉の横に、
彼女、プルマン少尉を含む、イギリスのSOEエージェント、
いずれも女性である4名を称える額が飾られています。
その碑文には、
1944年9月12日、ここダッハウで特殊作戦に所属する
4人の若いイギリス軍女性将校は残酷にも殺害され、
その遺体はここで火葬された
彼女らはフランスでレジスタンス活動に従事し、
自由のために戦って勇敢に死んだ
と書かれています。
プルーマンは1943年に特別作戦執行部に加わり、戦闘や武器の扱い、
生存技術や無線通信、爆破装置の使用法について習得した後、
ハリファックス爆撃機から空挺降下によってフランスに潜入、
宅配便業者を装ってレジスタンスが使用する無線機器の輸送を手伝いました。
ゲシュタポに捕らえられた後は拷問を受け、
他の三人の女性SOEエージェントとともに(英国人2、仏人2)
ダッハウまで輸送されて銃殺刑に処せられています.
イギリスのSOEエージェントは連合国から見れば英雄でしたが、
ドイツ人にとって「テロリスト」であり、フランスのレジスタンスの
破壊活動などを助けるために不法に活動した犯罪者という扱いでした。
Special Operations Executive(SOE)は、
フランスがドイツと休戦協定を結んだ直後の1940年7月、
チャーチルとヒュー・ダルトンによって設立された秘密組織です。
その目的は、第二次世界大戦中にドイツに占領されていた
フランスおよび他の征服された国のパルチザンと連携し
レジスタンス活動を支援することでした。
SOEの最大のスパイグループは、フランスで活動する通称
「Fセクション」でした。
ダッハウで殺害されたとされる4人のエージェントを含む
女性エージェントの大半はフランス担当に属していました。
もともと1942年4月まで女性エージェントはSOEに採用されませんでした。
イギリス陸軍、海軍、およびイギリス空軍の法律によって
女性は武力戦闘から除外されており、ゲリラ戦を含むエージェントの任務に
従事できる法的根拠がなかったからです。
しかも、武装勢力として活動するSOEエージェントは、
国際法に基づく捕虜と同じ保護を受けておらず、捕まった場合、
合法的にスパイとして処刑される可能性がありました。
1929年のジュネーブ条約と1907年のハーグ陸戦条約では、
女性は戦闘員として想定されておらずなんの安全保障もない存在です。
これらのルールを回避するために、女性エージェントは、活動している間、
応急処置看護Yeomanry(FANY)と呼ばれる民間組織に所属していました。
つまり国内でも医療従事者を表向き名乗っていたのです。
こういう回避策を設けてまで女性のSOE配置を密かに承認したのが
他ならぬ首相のウィンストン ・チャーチルでした。
軍は女性をスパイ活動に投入することを決して歓迎していませんでしたが、
SOE上層部は、疑いを持たれずに自由に動き回ることができる女性は
理想的であると考えたのです。
万が一ゲリラに女性を投入していることが漏洩した時にはどうするか、
そこまではあまり詰めて考えていなかったようですが、
事柄の性質がそもそも「スパイ」なのでなんでもありだったのでしょう。
Yolande Elsa Maria Beekma
ヨランダ・ビークマンの任務は、無線オペレーターでした。
彼女は1943年9月18日にRAFのライサンダー(連絡機)でフランスに潜入、
4ヶ月活動後、逮捕されました。
コードネーム 「マリエッテ」である彼女の活動は、
ロンドンに重要な情報を無線で送信することであり、なかでも
連合国の飛行機から投下された物資の配布を担当し、
その仕事ぶりは高く評価されていたと言います。
ある日打ち合わせのために立ち寄ったカフェで、彼女は
ゲシュタポに踏み込まれ、逮捕されました。
パリ郊外の刑務所に移送された彼女は尋問と拷問を受け、そして突然、
他のエージェント、前述のプルマンとマドレーヌ・ダマーメント、
ヌーア・イナヤット・カーンと共にダッハウ強制収容所に移送され、
翌朝の夜明け9月13日、処刑されたのでした。
処刑の朝、4人の囚人は、夜を過ごしたキャンプの兵舎から連れ出され、
銃殺が行われる庭で死刑判決を受けました。
立ち会ったのは収容所司令と2人のSS隊員だけです。
目撃者(隊員?)の証言によると、彼女らは蒼白な顔色をして泣いており、
彼女らのうち一人が、ドイツ語で判決に抗議できるかどうか尋ねると、
司令はそれを却下し、続いて司祭を呼んで欲しいとう要請も、
収容所に司祭がいないことを理由に拒否しました。
4人の囚人は頭を小さな土の山に向けてひざまずかされ、
2名のSSに首の後ろを撃たれて絶命しました。
発砲の直前、イギリス人女性二人が互いの手を握り、
フランス人女性二人も同様に手を取り合って、そのまま撃たれました。
3人は最初の発砲で死に至りましたが、司令に交渉を行った女性は
最初の発砲後も絶命せず、再び発砲を行わなければなりませんでした。
処刑終了後、収容所司令はSSの2人の男性に、彼女らがつけていた
宝飾品に興味を示し、外して彼の執務室に持ってくるように命じたそうです。
Noor-un-Nissa Inayat Khan
ヌーア・ニッサ・イヤナット・カーン
彼女はインド人の父親とアメリカ人の母親を持つイギリス人です。
1958年、ダッハウの元囚人が、ダッハウで彼女、
ヌーア・イナヤット・カーンの処刑を目撃したと主張しました。
彼の話によると、SS将校が彼女の服を脱がせ、
その後、彼女が「血まみれの物体」になるまで彼女を殴打し、
頭彼女を撃った、というのです。
SSは彼女の服を脱がせ、体全体に暴行を加えました。
彼女は泣きませんでしたし、一言も発しませんでした。
ルパートが殴るのに疲れて止めたとき、彼女はが血まみれでした。
彼は彼女に撃つと言いました。
ルパートが後ろから彼女の後頭部を撃つ前に彼女が言った
唯一の言葉は「リベルテ(自由)」でした。
彼女は30歳でした。
ダッハウの処刑場所は野営地の外にあり、木々や茂みに隠れた場所で、
この囚人は、死ぬ直前彼女が「自由を!」と叫ぶのが聞こえるまで
十分に近づくことができた、というのですが、これだと
先ほどの記録とは全く状況が違ってきてしまうのが不思議です。
これは、彼女らの処刑について正式な記録が残されていないためです。
もし残されていたとしても、SSは退却時に収容所の文書を
全て破棄していった可能性があります。
イヤナット・カーンもまた無線オペレーターでした。
彼女は1943年6月16日の夜にフランス入りし、
1943年10月1日、またはその頃に捕らえられました。
ダッハウで処刑されたとされる4人の英国SOEエージェントの中で、
彼女が最も有名になり、抵抗のヒロインとして歴史にその名を残しています。
彼女はフランスに派遣された最初の女性でした。
SOE訓練の評価によると、エージェントとしては多感にすぎ、
模擬尋問もうまく切り抜けられる方ではなく、
体も小さく恐怖に打ち勝つこともままならない様子で、
総合評価は「脳に過度の負担をかけられないタイプ」。
決して優秀なスパイの資質を持っていたわけではなかったようです。
さらに、エキゾチックな美貌が目を引くのも諜報員として問題でした。
その美貌が災いして間接的に彼女は命を失ったともいえます。
フランス潜入後、彼女は現地のまとめ役のもとで仕事をしていましたが、
まとめ役の妹が好きだった別の男性SOEエージェントが、
ヌーアに興味を持っていたか好きだったかで、嫉妬に狂った妹は
彼女の居場所をゲシュタポに密告してしまったのです。
しかし女の嫉妬って怖いですね。
彼女はフランス占領下の敵に潜入した最初の女性エージェントでした。
そのころパリで大量のレジスタンスが逮捕されましたが、
彼女は警告とイギリスに戻る機会が与えられたにもかかわらず、
フランスで主要かつ最も危険な職を放棄することを拒否し、
その後も止まって任務を続けました。
ゲシュタポは彼女の情報をつかんではいましたが、
コード名「マドレーヌ」ということしかわかっていませんでした。
密告されたとき、当局は彼女を捕まえるために捜査中だったのです。
ゲシュタポは命と引き換えに情報を売ることを要請しますが、
彼女は拒否し、それどころか投獄中脱出を試み、2回失敗しています。
彼女については1944年9月12日に他の3人と一緒にダッハウに連行され、
到着すると、彼女は火葬場に連行されすぐさま射殺された、つまり
一晩も収監されなかった、とか、3か月間収監され、その間
ゲシュタポが彼女の無線を使用してロンドンのSOEと通信し、
武器と身代金を要求していた、という噂もあるようです。
あるジャーナリストによれば、捕らえられたエージェントは、
男性も女性も、自分が同国人に裏切られていたと知らされると、
あっさり自白して情報を漏らす傾向にあったと戦後明らかになったそうですが、
イヤナット・カーンはそうではありませんでした。
任務そのものについてが極秘だったため、ヌーアの家族は
ダッハウでの彼女の死を知らされていませんでした。
1948年になって書かれたものを読んで初めて、彼らは
娘の運命を知ったのです。
フランスに派遣された女性SOEエージェントは39名、
そのうち13名は二度と戻ってきませんでした。
13名の女性SOEエージェントのうち、4名はナッツヴァイラーで、
4名はダッハウで、4名は女性収容所である
レーベンスブルックで処刑されたとされています。
レーベンスブルックに送られた8人の女性SOEエージェントのうち
4人がそこで処刑されました。
彼女らの名前はデニス・ブロック、リリアン・ロルフェ、
セシリー・ルフォート、そしてヴィオレット・サボーです。
Violette Szabo
全体として、フランスには470人のエージェントがおり、
そのうち39人は女性、全体の8%でした。
女性の3分の1は監禁中または処刑中に死亡しました。
処刑されたの男性エージェントは81人、全体の18%です。
12人の女性SOEエージェントが密かに処刑され、戦後
これらの処刑の記録は結局見つかりませんでした。
彼女らの死についてのすべての情報は、目撃証言または加害者の自白によるものです。
イヤナット・カーンについては、一説によると、SOEは、
彼女をヒロインにするために、物語を作り上げた部分もあるそうです。
彼女が民間人に与えられるジョージメダルを受賞したとき、
「フランスで撃墜された30人の連合軍航空兵の脱出」
が彼女のおかげで可能になったとされましたが、
そのような脱出劇は戦史のどこにも実在していないそうです。
Madeleine Zoe Damermen
マドレーヌ・ゾー・ダマーマンは輸送の任務を負って
1944年2月28日の夜フランスにパラシュート降下しましたが、
着陸した瞬間にゲシュタポによって逮捕されました。
この写真に見られる地面の石碑は、ダッハウの焼却棟の裏で、
4人の英国SOEエージェントの処刑場所を示しています。
彼女らが後ろから首を撃たれた後、血が流れたことを表すために
設計された「血の溝」(Blood Dich)があります。
1944年7月6日には同様の4人の女性SOEエージェントが処刑されました。
ヴェラ・レイ(Vera Leigh)ディアナ・ローデン(Diana Rowden)
アンドレ・ボレ(AndréeBorrel)ソニア・オルスチャンスキー(Sonia Olschanezky)
の4名は致死注射で殺害され、焼却炉で焼かれました。
ボレルは刑執行の際抵抗し、死刑執行人の顔に生涯残る傷を負わせたため、
その報復として生きたまま焼かれたという噂も残されています。
Maria Krystyna Janina Skarbek
別名:Christine Granville
抵抗運動が盛んだったポーランドに送り込まれたポーランド人エージェント、
クリスティン・グランヴィル、本名マリア・クリスティナ・スカーベク。
フレミングの「007シリーズ」、「カジノロワイヤル」における
ヴェスパー・リンド、「ロシアから愛を込めて」のタチアナ・ロマノワの
モデルになったといわれる伝説の女性エージェントです。
彼女は大戦中ゲシュタポに捕まることはありませんでしたが、
その奔放な男性関係と自由を愛する激しさ、エキセントリックさが
あだになったとでもいうのか、1952年、求婚者に刺殺され生涯を終えました。
Nancy Wake
ニュージーランド生まれのSOEエージェント、ナンシー・ウェイクは
ある意味、最も「実力のあったスパイ」だったかもしれません。
フランスレジスタンス組織のリーダー的な人物で、
連合国から最も勲章を授与された婦人軍人の1人でもありました。
レジスタンスの「運び屋」としても優秀で、1943年まで、
ドイツ秘密国家警察ゲシュタポの最重要指名手配者となっており、
その首には5百万フランの賞金がかけられていたといいます。
2003年に98歳で亡くなった後、彼女の遺灰は遺言により
エージェント時代に滞在していた場所に撒かれました。
SOEの女性の名前は、大戦後まで公に知られていませんでした。
1948年、ダッハウで処刑になった四人のうち、イヤナット・カーンを除く
3名の名前だけがセントポール教会の戦死した52人の女性の碑に書かれ、
そのとき初めて明らかにされることになります。
イナヤット・カーンの名前は、1949年に
ジョージクロス勲章を受賞するまで公には知られていませんでした。
英国は何年もの間、SOEの存在そのものを秘密にしてきました。
1946年までに、SOEは閉鎖され、すべてのファイルは封印されました。
しかも、同年に起きた不思議な火災により、書類の多くが消失し、
生き残ったエージェントも、彼らの戦時中の経験について
決して話さないように指示されていたのです。
SOEの文書は、1998年まで、一般に公開されませんでした。
書類が公開されるようになったのは2003〜2006年の間です。
ダッハウでの4人の女性エージェントの処刑に関する事実は
2003年にようやく一般に公開され、それ以来、イギリス政府は
これらのエージェント、特にヌーア・イナヤット・カーンを
第二次大戦中の最大の英雄にするために広報を行っています。
それにしても不思議なのは、ダッハウには男性のSOEエージェントもいたのに、
処刑にならなかったどころか、彼らは工場や農場で働く必要もなく、
代わりにキャンプ内で簡単な仕事を与えられていたことです。
たとえば戦後ヴォーグ誌のイラストレーターになった
エージェント出身のブライアン・ストーンハウスは、
当初こそ拷問をうけたものの、その後4年半もの間絵を描きながら
穏やかな収監生活を送っていました。
収監中の自画像
彼は前述のヴェラ・リーら4名を収容所で目撃しており、
戦後の裁判で証言を行っています。
女性の処刑については、ヒトラーから直接カルテンブルンナー、
あるいはヒムラーへと直下で実行命令が下されていたという説があります。
そういう事情からか、囚人の死刑が公にされていたダッハウでも
戦争捕虜、秘密諜報員、レジスタンスのメンバー、
著名な囚人の死刑はすべて厳格に秘匿されていました。
そのうえ、ダッハウの4名は非ユダヤ人女性だったこともあって、
執行者たちはその事実を(特にドイツの敗戦が確定した後は)
隠し、証拠も残さないようにしたのでしょう。
イギリス本国側だけでなく、ドイツ側にも彼女らに関する資料が
残されていないのはそのためです。
終わり