スミソニアン博物館プレゼンツ、海軍航空のパイオニアたちシリーズ、
今日はパイオニアのなかでも一水兵から提督にまで出世した
二人の軍人をご紹介しようと思います。
能力がずば抜けていれば、一兵卒から大将になることは不可能ではありません。
有名なところでは、アーサー・パーシバル。
シンガポール陥落で山下奉文に投降したことで有名になった中将は、
一兵卒からの叩き上げです。
「モンテ・クリスト伯」を書いたデュマの父親である
トマ=アレクサンドル・デュマも陸軍中将まで出世しましたが、
残念ながらこの人はナポレオンとの折り合いが悪く、軍追放されています。
我が日本陸軍には、一兵卒からのスタートではないものの、
歩兵二等軍曹で優秀だったため中途で陸士を卒業し、陸軍大将になった
武藤 信義(むとう のぶよし1868-1933)という人もいます。
しかし、日本海軍では水兵から将官になった例は寡聞にして知りません。
能力があれば出世ができるという点ではリヴェラルなアメリカ海軍でも
さすがに水兵から提督という例はそうたくさんないのではないかと思われます。
それを可能にしたのは、おそらく当時超特殊であった航空機操縦という技術であり、
航空黎明期の発展と開発にとって彼ら特殊技術者の存在が不可欠であったからでしょう。
洋の東西を問わず、近代の軍隊ではこのような「大出世」は、組織的にも、
状況的にもまず不可能になってきているのではないでしょうか。
アルフレッド・M・プライド
Arfred Melville Pride 1897–1988
セイラー・エアマン・アドミラル
アメリカ海軍史上水兵から提督に昇進した最初の人物
1922年 戦艦から飛行機を発艦させた最初のパイロットに
1921-1924年 空母の着艦装置アレスティングギアの開発を行う
1931年 海軍の回転翼機のパイオニアになる
プライド大将がパイオニアとしてその名前を挙げられるのは、
前述の通り「初めて」の快挙を数多く上げたからですが、
それらの業績ゆえに、海軍兵学校出でも予備士官でもない一水兵から
海軍大将にまで昇進した初めての人物であり、この「初めて」が、
なによりいかに彼が優れた海軍軍人であったかを物語っています。
【水兵からのキャリア】
マサチューセッツにある名門タフツ大学で機械工学を学んだ彼は、
第一次世界大戦が起こったので海軍に入隊し、予備軍の
マシニスト・メイト(機械工)、つまりシーマンからキャリアを始めました。
しかし工学科出身であることを見込まれてすぐに飛行訓練を受けることになり、
それによって彼は海軍の正規部隊に入隊し、一時フランスで戦争を体験します。
当時、前述のホワイティングらが中心となって進められていた
空母推進計画に、彼は航空士としての立場で参加することになり、
「ラングレー」に乗り組みそこで実験的な飛行を行った後は
空母「サラトガ」「レキシントン」の開発にも加わることになります。
そこで適材適所を勘案した(らしい)海軍によって、彼は
軍人の身分のままマサチューセッツ工科大学(MIT)で航空工学を学び、
その後は本格的に海軍航空と空母運用に関わっていくことになりました。
艦船での航空運用に熱意を燃やしていた当時のアメリカ海軍は、
その頃オートジャイロというヘリコプターの前身である
回転翼機を試験的に取り入れようとしていましたが、
これを操縦して空母に着陸させたのがプライドです。
1923年に成功した初のオートジャイロですが、こんなもので
空母に着艦するというのはなかなかのスリルだったのではないでしょうか。
また、彼が開発を行ったという着艦装置アレスティングギアですが、
1920年代に行われていた実験というと、カール・ノルデンと
T・H・バースが開発した横索式のものでした。
カール・ノルデンって、ノルデン照準器のあの人ですよね。
大金をかけた割に大した精度にならなかったノルデン照準器ですが、
アレスティングギアはうまくいったようで何よりです。
最初のアレスティングギアは、ここでもお話ししたことがある
飛行家ユージーン・イリーが「ペンシルバニア」に着艦した時のもので、
彼は結局実験のときに装置が引っかからず海に落ちそうになった機体から
飛び降りた際、首を骨折して死亡していますが、このときから
すでに9年経っており、かなりの進歩を遂げていました。
HMS「フューリアス」上の実験
ちなみにアレスティングギアの「決定版」は、1930年代以降、
イギリス海軍の司令官C・C・ミッチェル(という呼び名だった)が
設計した装置であり、この人物はカタパルトの設計も行い、
それらの功績に対してアメリカ政府から自由勲章を授けられています。
【第7艦隊司令】
第二次世界大戦中、プライドは空母USS「べローウッド」(CVL-24)の
最初の指揮官を務めました。
「ベローウッド」にとってもそうですが、水兵から出発し、
空母の艦長になったのも間違いなく彼が初めてだったと思われます。
彼は海軍少将に昇進し、パールハーバーの第14管区の指揮官、
艦隊指揮官を歴任し、1953年から1955年までは第7艦隊司令を務めましたが、
その頃7Fの担当は中東でしたので、おそらく彼は日本には来ていません。
彼が現役中に航空運用のために書いた多くの論文は、現在、
スミソニアン国立宇宙博物館のアーカイブに保管されています。
フランク・シュルト Christian Frank Schilt 1895−1987
エアレーサー、コンバットフライヤー
1919年 海兵隊航空士になる
1921年 地形技術隊写真班員になる
1925年 デトロイト新聞主催トロフィレースで2位
1926年 シュナイダーカップ・レースで2位
1928年 ニカラグア火災で救出作戦に加わり殊勲賞を受賞
フランク・シュルトは海兵隊の最初の飛行士の一人です。
彼もまた第一海兵隊の対潜哨戒水上機部隊に兵士として入隊しました。
これは第一次世界大戦に海外派遣されたアメリカ初の航空ユニットでした。
彼はそのまま海兵隊航空基地で訓練を受け、1919年飛行士になりました。
その後中尉の身分で海兵士官訓練学校に入学しています。
ウェストポイント博物館の展示をご紹介した時、アメリカには当時
陸軍地形部隊なる測量と探検?を行うエリート部隊があったと書きましたが、
彼はその海兵隊版の航空写真係になり、ドミニカ共和国の海岸線を調査し、
地図を作成するという任務を行いました。
写真班の任務についている間、彼はノーフォークで開催された
シュナイダーインターナショナル水上飛行機レースで2位を獲得しました。
ちなみにこのレースの前年度の優勝者は、ジェームズ・ドゥーリトル。
彼は東京空襲で有名になる前は飛行家として数々の実績を残しており、
飛行レースで幾度も優勝しています。
シュルトは海兵隊最初の飛行士としてだけでなく、飛行機で
人命救助を行ったことで有名です。
イラストの右上は、彼が操縦するO2Uコルセア複葉機が、
ニカラグアの大火災で救出作戦を行っているところです。
災害発生時、ニカラグアのマナグアに赴任していたシュルト大尉は、
危険を冒して火災で包囲された地点と安全地域を10往復し、18名の負傷者を救出、
さらに現地に交代の指揮官と医薬品などを運びました。
と書くと簡単ですが、当時の飛行機はブレーキがなかったので、
着地すると翼を引きずって機体を止めていたのです。
加えて現地はアメリカの占領をめぐって敵対していた革命家の
サンディーノ軍に遮断されており、航空機は銃撃を受けるという危険の中、
山岳地帯で不安定な気流、覆いかぶさる雲という悪条件が重なり、
彼が無傷で10往復できたことは、
「ほとんど超人的なスキルと最高位の勇気の生んだ偉業」
であるとされました。
この偉業に対し、ホワイトハウスで叙勲されるシュルト大尉。隣に立っているのはクーリッジ大統領です。
第二次世界大戦で、彼は1945年2月、ペリリュー島の島司令官でした。
ペリリューの戦いが終わって3ヶ月後のことです。
終戦後は沖縄の防衛司令部勤務にいたこともあるそうです。
彼の最終勤務地は海兵隊本部の航空局長で、
1957年に海兵隊を引退すると同時に大将に昇進しました。
海兵隊大将になったということを、英語では「フルジェネラル」と表現しています。
引退と同時に昇進するという話は自衛隊でもあるようですが、
それは名誉的な意味だけでなく、退職後の緒待遇にも関係してくるので
昇進を受ける側にとっては二重に喜ばしいことなのだそうですね。
続く。