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スェーデン、ハンガリー、ソ連のジェットエンジン開発事情〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空化学宇宙博物館の展示から、
ジェットエンジンの発明とその開発についてお話ししています。

今日はまずこの飛行機から参ります。

🇸🇪 スウェーデン 

サーブ・トゥンナン SAAB-29 Tunnan 1948

サーブというと自動車のイメージが強いですが、航空機から出発した会社です。
SAABという名前も、スウェーデン語で「スウェーデン航空会社」を意味する

Svenska Aeroplan AB=Saab

というくらいで、1937年に創立したのは、軍用機の生産のためでした。

「トゥンナン」というのはスウェーデン語で「樽」を意味し、
この機体の樽っぽい感じをそのまま表しているネーミングです。

王立スウェーデン空軍によってデザインされたSAAB-29は
ヨーロッパで最初の後退翼を持った戦闘機となりました。

基本性能が良く、戦闘、攻撃、偵察のマルチロール機として
サイズの小さなスウェーデン空軍とオーストリア空軍で
1951年から20年間にわたって運用されていました。

翼に三つの王冠を描いた国章があしらわれていますが、
「トゥレー・クローノー」(三つの王冠)
でスウェーデンそのものを指すこともあります。

昔スウェーデンを統治しにドイツからやってきた王様が、
スウェーデン、フィンランド、メクレンブルグを治めるという意味で
三つの王冠を国章にしたという話です。

スウェーデンでライセンス生産されたゴースト、RM 2

動力はイギリスのデハビランド社が製作した遠心圧縮機ターボジェット、

デハビランド ゴースト De Havilland Ghost

を搭載し、安定した排気が供給されていました。
最初の名称はフランク・ハルフォードが設計したH-1に合わせて
H-2となっていましたが、ハルフォードの会社はデハビランドに買収され、
同時に、

H-1→ゴブリン H-2→ゴースト

小鬼と幽霊となったというわけです。

🇭🇺 ハンガリー

György Jendrassik ジェルジ・イェンドラシック(1898−1954)

英語だとジョージ、ドイツ語はゲオルグ、フランスがジョルジュ、
ロシアだとグレゴリーが、ハンガリーではジェルジとなるわけですか。
 

イェンドラシックはブタペスト生まれのハンガリーの物理学者であり
機械工学者で、ベルリン大学ではアインシュタインの物理の講義を聞いています。
卒業後ディーゼルエンジンの開発を経てその道のエキスパートになりますが、
1937年に小さなガスタービンエンジンの研究開発に着手し成功しました。

その後、ガンツ社で軸流式ターボプロップエンジン、
CS-1のプロトタイプを完成させています。

なお研究は第二次世界大戦中でしたが、彼の仕事は
ある意味戦争の影響をほとんど受けませんでした。

イェンドラシシック CS1

1941年に完成したCS-1は1000馬力のパワーを持ち、
航空機用に作られた世界最初のターボプロップエンジンです。

タービンが毎分1万3500回転し、毎分1600回転で
減速装置を介してプロペラを回転させるという仕組みです。

第二次世界大戦が始まって、ヨーロッパでいろんな作業が
中断を余儀なくされたとき、CS-1はちょうどベンチテストに入っており、
試験飛行用に二基のユニットを取り付け、ツインエンジンにする計画中でした。

テスト飛行が1940年に行われ、世界初のターボプロップエンジンになったのですが、
肝心のハンガリー空軍が銃戦闘機としてメッサーシュミットMe210 を選んだので、
CS-1の開発はそこでいったん中止され、工場はしかたなく
Me210に載せるダイムラー・ベンツ DB 605を作っていました。

ここではたと気づいたのですが、第二次世界大戦時代、ハンガリーは
ドイツと防衛協定を結んでおり、一応枢軸国側だったんですね。

その少し前はながらくオーストリア=ハンガリー帝国だったわけですから、
ドイツと併合したオーストリアの右へ倣えするのは当然の成り行きです。

というわけで、ハンガリーにはドイツからの技術協力があったどころか、
いわばミニナチスみたいな、

「矢十字党」
Nyilaskeresztes Párt-Hungarista Mozgalom、NYKP

という極右政党があって、ハンガリー主義なる(ハングリー精神じゃないよ)
民族主義を謳い、ナチスの支援を得て1944年暮れから3ヶ月間だけとはいえ、
ハンガリーを統治したこともあり、しかもその短い間にナチスに倣い、
8万人ものユダヤ人を収容所に送ったりしているのです。

Flag of the Arrow Cross Party 1937 to 1942.svg矢十字

みなさんご存知でした?こんな旗の存在を。

ふっ切ってます

ドイツからはおそらくパシリ扱いされていたハンガリーなので、
ナチスがうちの戦闘機使え、うちのエンジン作れ、と言ってくれば
断るわけにいかなかったのかなという気がしますね。


その後、イェンドラシックはCS-1エンジンを搭載するために

 RMI-1 ヴァルガ Varga

ラズロ・ヴァルガに航空機を設計させました。

Boxart Varga RMI-1 X/H 4 IRMA

写真右がイェンドラシック、左がラスロ・ヴァルガ博士です。
Laszro Vargaという名前はハンガリーによくある名前らしく、
検索したらチェリスト始めたくさん出てきたのですが、
この設計者だけはどこを探しても出てきませんでした(´・ω・`)

Varga.svg

機体の下部にエンジンを抱くような形がユニークです。
個人的には頭にちょんまげ載っけているよりはいいかなと(笑)

ところで、どこを探してもこのヴァルガのRMI-1の写真がないので、
変だなと思ったら、1944年になってCS-1のエンジンではなく
ダイムラーベンツのエンジンを乗せて、試験走行を行い、
さあこれから試験飛行というときに、

連合国軍の爆撃に遭い、
破壊されてしまったのでした(-人-)RIP

まるで日本の橘花の開発経緯とその終焉を見るようです。
敗戦国の技術者というのは本当に気の毒な立場だと思いますね。

 

ソビエト連邦

今日最後はソビエト連邦です。

ボリス・セルゲイビッチ・ステキン Boris S. Stechkin 1891ー1969

は1929年にターボジェットについての論文を書き、
アーキップ・リュルカ(Arkhip M. Lyul'ka1908-1984)もまた、
結果は失敗ながら第二次世界大戦中にジェットエンジン研究を行っています。

しかしながら、初期のソ連が製作したジェットエンジンは、
所詮はドイツのコピーであり、イギリスの動力を使用したものでした。

 

ソ連の科学技術というのは、冷戦以降のアメリカとの宇宙戦争を知っていると
世界でも特に発展していたかのようなイメージがありますが、
ジェットエンジンの研究にも見られるように、第二次世界大戦中は、
(そして戦後も)後進国といってもいい遅れをとっていました。

たとえば、戦争が終わったとき、アメリカが「ペーパークリップ作戦」で
ドイツの技術者や技術、そして航空機や兵器を漁りまくったのを見て、
ソ連はあわててアメリカの真似をし、ドイツのめぼしいものを
手当たり次第集めてきたのですが、大変残念なことに
敗戦直前に作られたドイツの製品は、品質的に劣悪なものばかりでした。

ただしそれらは理論的技術的にあまりにも高度で、ソ連の当時の基礎技術では
それを取り入れ自国のものにするということができなかったということです。

 

冷戦が本格化したのは1946年からですが、その直前、
ソ連に寛容だった当時のイギリス労働党政権が、

ロールルロイスのニーンエンジン(Rolls-Royce RB.41 Nene)

を40基ほど売ってくれたので、ソ連はそれを叩き台にして
RD-45というエンジンを製作することに成功しています。

Rolls Royce Nene.jpg ロールスロイスNene

ちなみに、このとき、金属の組成を調べるために、ソ連技術陣は
「特別製の靴」を履いてロールスロイスの工場見学を行い、
靴の裏で集めた金属粉を分析するということまでやっています。

特別製の靴・・・・磁石でも仕込んでたのかな。

ロールスの人も、ソ連の見学者が、金属屑の散らかったところばかり
選んで進むのになんだか変だなとか思わなかったのでしょうか。

 

このときにコピーしたエンジンは1950年、ウラジーミル・クリーモフ
V. Klimov(1892-1962)によって「わずかに再設計」され(´・ω・`)
クリーモフVK-1としてMiG−15に搭載されることになります。

VK-1エンジン

これを搭載したMiG15は、当ブログでも最近ご紹介しましたね。

繰り返しますが、戦後、イギリスが政権をとっていたのは労働党政権でした。

あの「ゆりかごから墓場まで」で有名な左派政党です。
キャッチフレーズはともかく、共産社会主義が陥りがちな
優遇された労組の度重なるストライキで社会は疲弊し、
このあと政権をとった保守政党は「英国病」ともいわれる
経済制作の失敗による後遺症に苦しみました。

この時のイギリスも、どこかの国の民主党政権がそうだったように、
仮想敵でもあるはずの共産国家に友好的なところを見せようと、
航空エンジンなどという基幹産業の根幹でもある技術を
ホイホイと売り渡してしまったということになります。

皮肉なことにその結果生まれたMiG15は連合国に深刻な脅威を与え、
朝鮮戦争でMiGシリーズは連合国を散々苦しめることになるのです。

ミコヤン・アンド・グレヴィッチ MiG−17

エンパイアステート航空博物館の「MiG三兄弟」で
この17もご紹介しましたね。

Mig 17

MiG−17もクリーモフVK-1ターボジェットエンジンを搭載しています。
MiG15よりさらに翼が薄く、素晴らしい後退翼を持っていました。

ツポレフ Tuporev Tu-104

1955年に初飛行を行なった民間ジェット機です。
二基のミクリンAM-3ターボジェットユニットを持ち、
115名の乗客を搭載することができました。

NATOは「キャメル」というコードネーム で呼んでいたそうです。
ジェットエンジンを使った旅客機をアメリカより早く誕生させ、
フルシチョフがイギリス訪問の際使用し、西側諸国の知るところとなります。

案の定このツポレフ中距離爆撃機のTu-16を作り替えたもので、
旅客機としては居住性が極端に悪く燃費も悪かったうえ、
そもそもエンジンの取り付け方法からそて世界初のジェット旅客機、
イギリスの「コメット」の模倣というものでした。

しかし当時は「コメット」が構造欠陥のために運航停止しており、
まだボーイングもダグラスもジェット旅客機は開発段階であったため、
ソ連が世界で最初にジェット機を就航させていたことに
西側は一様にショックを受けたといわれています。


こうしてみると、ソ連というのは、模倣から入るものの、
その技術を昇華させ応用して追随できないものを作る能力が
特にMiGに関しては大変高かったという気がします。

その点、我が日本の技術発展の傾向と似ているかもしれない、
とわたしはふと思ったのですが、みなさんはどうお感じになりますか。

 

続く。

 


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