ピッツバーグのソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム、
第二次世界大戦の「パシフィック・シアター」展示です。
前回、特攻機が4機、同時に突入したという情報について書いたところの
駆逐艦「コールドウェル」の模型の周りに展示されている
寄贈品、遺品を見ていきます。
■ 妻子の写真をしのばせた軍帽
士官用の軍帽はパールハーバーの「T.H」=テリトリーオブハワイ、
海軍駐留地内にある売店で購入されたものです。
当時はマジックインキというような名前を書くものがないので、
内側のポケットの中に持ち主がわかる紙を入れて置くポケットがありました。
この士官は、そこに妻と1歳くらいの子供の写真を入れていたようです。
右側にある黒くペイントされた航空機模型は、
機種を見分ける訓練のために作られたもので、
あえて色をつけずにシルエットで判断できるようにしています。
■60年後に発見されたドーリトル隊の航空機破片
「TOKYO RAIDERS」
というと、ドーリットル空襲に参加したということなんでしょうか。
「Wiskey Pete」というのを検索すると、ネバダのカジノしかでてこないんですが、
「Doolottle」を付け加えると、やはりドーリットル隊の3番機であることがわかりました。
この9月に公開された中国資本による映画「ミッドウェイ」で、
ドーリットル空襲のあと中国に逃れ、現地の中国人に助けられたシーンは、
この3番機「ウィスキーピート」の乗員のエピソードを下にしています。
3機目の機長ロバート・M・グレイ中尉は、雨の夜で海岸線を把握できず
着陸は不可能として乗組員に午後10時頃ベイルアウトするよう命じました。
機長はその後燃料がなくなったので浙江省の水昌郡近くの丘の中腹に着陸。
ジョーンズは、地元の農民によって発見され、翌朝衢州に案内されます。
副操縦士のジェイコブ・E・マンチ中尉も丘の中腹に着陸し、
暗闇の中パラシュートにくるまって眠り、翌朝、村に降りました。
ナビゲーター兼銃撃手のチャールズ・J・オズク中尉は、パラシュートを木にひっかけ、
20歳のエンジニア兼銃撃手レオナルド・ファクター は、崖から落ち死亡しました。
この記念の盾みたいなのが何かというと、どうやら
右上に貼り付けられた金属片がドーリットル空襲から60年近く経って、
(つまり2002年ごろ?)「ウィスキーピート」不時着地から見つかったとか
そういうことなのかと思われます。
そして当時の5人のクルーに対し贈呈されたようですが、
このうち2000年ごろまだ生きていたのはオズク大尉(最終)だけでした。
■「レキシントン」爆撃機銃撃手の遺品
「レキシントン」乗組の航空隊銃撃手だったフランク・ケイカ(Caka)二等兵曹の
着用していたセーラー服が展示されています。
彼の所属した第19航空群第50部隊は、8隻の敵艦を撃沈し、14機の航空機を撃墜しました。
しかし、1944年10月25日、敵艦隊爆撃にルソンから出撃した彼の飛行機は、
空母に再び着艦することはありませんでした。
この同じ日、我が海軍の関行男大佐が初めて組織され、
命令された特攻を行っているわけですが、両者の戦闘行動とその結果に
なんらかの接点ないしは因果関係があったかどうかはわかりません。
ケイカ二等兵曹の戦死後、遺品が家族のもとに戻されました。
母親と一緒に写した写真、そしてところどころイラストが書き込まれた
携帯手帳です。
手帳の左側には彼が覚書として記した「戦果」が記されています。
右下の星四つは「ジャップフリート」として、
「星はUSS『バターン』の時に獲得した」
と説明があります。
そして、
USS「バターン」
USS「パナイ」
USS「スチーマー・ベイ」
USS「レキシントン」
と彼なりに「出世」してきたと思しき経歴が書き込まれています。
「スチーマー・ベイ」というのは聞いたことがない名前だなと思ったのですが、
「カサブランカ」型護衛空母であり、硫黄島、沖縄戦、そして
マジックカーペット作戦にも参加していたことがわかりました。
彼が「レキシントン」に転勤してきたのは9月10日のことであり、
この手帳のページに新たな名前を加えて書き込んでから1ヶ月ほどで
彼は戦死したということになります。
■陸軍技術士官の制服
そしてこちらは陸軍の軍服と鉄帽ですね。
ジョセフ・デライドティが1942年に632D戦車大隊に加わったのは
彼が23歳になったときでした。
ニューギニアにおいては第32歩兵師団「レッドアロー」とともに
最初に日本軍と交戦し、654日間の戦闘ののちこれを壊滅させました。
まず、左肩の階級章の下に『T』の文字があることから、
彼が技術士官であったことがわかります。
また、ユニフォームの左袖には3年半の勤務に対し
7本の「サービスストライプ」(勤務章)が付いています。
また、左胸の「リボンバー」には五つのキャンペーンスターが見られます。
■戦時ポスター
リメンバーパールハーバーの別バージョン、
「アベンジ・ディッセンバー・セブン」ポスター。
「さあ今ご一緒に」
というのは硫黄島の海兵隊旗立てシーンです。
1945年2月23日、海兵隊のマイケル・ストランクは、
6人の一人となって摺鉢山に星条旗を立てました。
ストランクは少年時代にチェコスロバキアからやってきた移民で、
父親はペンシルバニアのジョンズタウンにあった炭鉱で働いていました。
AP通信の写真家ローゼンタールの撮ったこの写真で、
ストランクは左から3番目にいて、ほとんど人の影になって見えません。
しかし、この象徴的な写真は20世紀における最も有名な
歴史の一シーンとなったのです。
ちなみにストランク軍曹はこのわずか1週間後、
味方の砲撃によって命を落としました。
■硫黄島からの勲章
マーティン・マイヤーズ海兵隊伍長は太平洋戦線において2度負傷しました。
この電報は、サイパン島からマイヤーズの両親に、彼が狙撃手に撃たれて負傷した、
ということを伝えています。
パープルハート勲章は2度目の硫黄島における負傷によって授与されたものです。
■アメリカ兵の『戦地からの記念品』
さて、それでは次に、摺鉢山の写真の後ろにある日本刀に注目してください。
ここには「戦地から故郷への贈り物」としてこう書かれています。
「トロフィーという言葉の歴史的な原点は、もともと
自分が倒した敵から何かを奪い取ること、というのはあまり知られていません。
しかし、古くからの言い伝えなどにはその手の話が散見されます。
多くの文化は、戦死たちが彼の敵から出会った記念に何かを奪い取ることによって
その強さをも獲得すると信じる傾向にあります。
太平洋の戦いにおいてもその傾向に全く例外はありませんでした。
ほとんどのアメリカ人がそもそもアメリカ大陸から出るのが初めてで、
初めて知るエキゾチックな文化の露出に心奪われると同時に
激しい戦闘を体験し、心的外傷を受けることになったのです。
戦争の記憶を保存することであれ、軍事占領であれ、あるいは単に
功利主義的な物を家に送ることであれ、いずれにしても
アメリカ人はさまざまな種類のお土産を集めました」
それで思い出したことがあります。
アメリカ兵が戦利品を集めるために、戦地で日本兵の死体から
めぼしいものを漁るということを知っていた日本側が、
死体に爆発物を仕込んでおいて見事に引っ掛かり犠牲者が出た、
ということがあったため、アメリカ軍上層部は下士官兵たちに
「死体のお土産漁り禁止」
という命令を出さなければならないことがあったとか。
このお土産好きが昂じて、またその根底にあった人種差別から
一部のアメリカ人は死体の首を加工して骸骨にし、
それを本土に記念品として送ったりしました。
皆さんも、もらった日本兵の骸骨を前に
お礼の手紙を書いている女性の写真を見たことがあるかもしれません。
なんとその件については、wikiにもまとめられているくらいです。
さて、それでいうと、アメリカ兵にとって太平洋戦線における
最も「価値の高い」お土産は、「サムライ・スウォード」つまり日本刀でした。
サムライの象徴である刀は侍出身である日本軍の士官は
その家に代々伝わる(Heirloom)百年前の刀を軍刀にしていることが多く、
アメリカ人たちの羨望の的でしたが、その刀をたった一つでも
鹵獲するのは簡単なことではありませんでした。
この刀を持ち帰ったのはシルバースターを受けた陸軍大尉ですが、
それくらいの階級でないとこういう「スペシャルな」お土産は
手に入れることはできなかったということでもあります。
この刀は2003年、SSMMに本人によって寄贈されました。
画面左の銃剣は、硫黄島の戦いに参加した海兵隊のレイモンド・アルコーンが
持って帰ってきたものです。
彼は、この銃剣を持って前進してきた敵兵と対面の格闘になり、
負傷したもののなんとか相手を打ち負かすことができました。
というわけで、彼はその銃剣を記念に持って帰り、
2歳の息子へのお土産にしたということです。
「お父さんはこれを持って襲ってきたジャップと戦って殺したんだぞ!」
「ダディソークール!」
みたいな会話があったんでしょうかね(棒)
そういえば、戦争から帰ってきた市民が社会に戻って経験する出来事を描いた
ウィリアム・ワイラー監督作品、
我等の人生の最良の年(The Best Years of Our Lives)
では、銀行マンだった主人公の一人が、高校生の息子に
意気揚々と「ジャップスォード」を帰宅するなりお土産に渡したところ、
微妙な顔つきであまりよろこばないどころか、
「日本人は家族との結びつきを大切にする人たちだって聞いたよ」
と暗に仕事人間だった父を非難してくるというエピソードがあったのを思い出しました。
故郷で寄せ書きされた日章旗や旭日旗を土産として持ち帰ったアメリカ兵が
歳をとって持て余し、それらを近場の博物館に寄付した例を、わたしはこれまで
アメリカの各地で見てきました。
軍刀ほどではないにせよ、寄せ書きの旗も記念品としては
大変人気があったようですが、ここにあるルロイ・オプファーマン二等兵のお土産は
ちょっとそれとは違うようです。
素人の手作り国旗らしく、比率もおかしいし、日の丸の色はにじんでいますが、
旗にはオプファーマン本人の手書きで
「ガダルカナル島で日本人捕虜が僕にくれた」
と書いてあるではないですか。
そのほかにも、日本兵の足袋靴、貝殻で作ったネックレス、
この左には「レターオープナー」などがあり、それらは
皆オプファーマン君が収集した「戦地土産」なのですが、
ちょっとここで面白いことがわかりました。
貝殻のネックレスの後ろにあるのは、彼が土産を送る際、
品名を申告するために制作した書類です。
品名「軍人による個人的戦利品」
名前、アメリカの郵送先住所に続き、
「ジャップシガレット」「ジャップハット」「ジャップシューズ」
「貝の首飾り」
日本兵の骸骨なんかもこうやって書類にして送ったんでしょうか。
それとも、お土産フィーバーが加熱しすぎたので、
こうやって自制心というか歯止めをかける意味の書類申告だったのでしょうか。
とにかく彼は、ガダルカナルの捕虜収容所でMPをしており、帰国にあたって、
日本人捕虜に何かお土産になるようなものをくれないかとねだったようです。
写真で彼が嬉しそうに持っている寄せ書きの日の丸は、撮られたときは
真新しい感じですが、博物館にあるものは色がすっかりにじんでしまっています。
これは、染めたものとかではなく、現地(つまり収容所)で何か赤い
インクのようなものを使って手作りしたからだと思われます。
しかもペンで書かれた寄せ書きには
「於 ソロモン群島ガダルカナル島」
以上を総合すると、捕虜の田鍋さんという人は、わざわざ彼の求めに応じて
寄せ書き風日の丸を即席に作ってあげたのではないかと思われるのです。
しかも、敵の兵士にわたす日の丸というのに、
「武運長久」
という文字までおそらく万年筆で書き込んで・・・。
田鍋さんとオプファーマンくんの間には、捕虜と看守の域を超えた
何らかの微笑ましい交流があったんじゃないかと思うのはわたしだけかな。
続く。