このツァーの前半のクライマックスとでもいうべき見学は、この
ドライドックでした。
ドライドックとは、船舶の建造、修繕、船底清掃等のため、
フネを引き入れて排水し、フナ底を露出させることの出来る施設です。
驚くべきはこの施設が慶応3年(1867)に着工し、4年後に竣工していたことです。
プロジェクトは慶応元年から始まりました。
慶応年間というのはたった3年で明治に変わったとはいえ、
日本人がまだちょんまげ結って着物を着ていた江戸時代ですからね。
大政奉還により江戸幕府は倒れ、明治新政府へと変わったわけですが、
慶応元年に横須賀製鉄所として立ち上がった施設の建造を新政府は受け継ぎ、
日本の近代化に向けてこの計画を一層強く推し進めました。
さらに驚くのは、ここには全部でドライドックが6基あるのですが、
この江戸末期から作られ始めたドライドックは、
現在も米海軍と海上自衛隊の艦艇修理に現役で使用されているということです。
このドライドックの建設は、即ち日本が近代化への一歩を踏み出した
最初の一大国家プロジェクトであったわけで、当時の世界的規模から見ても
列強に勝るとも劣らない規模のものでした。
日本は世界にデビューするなり海国としてトップを目指したのです。
そして、そういう道筋を作った人物の一人が、ここに製鉄所を作ることを
計画した小栗上野介忠順(オグリン)でした。
当時幕府は、外国から購入した故障の多い船に要する修理に頭を悩ませていました。
小栗は国内で修理をするため、早急なドライドック建設の必要性を説きましたが、
幕府は当初財政難を理由に決定を渋りました。
小栗はそれを押し切る形で了承を取り付けます。
江戸幕府の命を受けてこの事業に取りかかった小栗ですが、
その後、彼は統幕後の江戸城開城のときに徹底抗戦を唱えたため、
維新政府によって斬首されてしまいました。
つまり彼は「明治」の夜明けを見ぬまま、というかそれに反逆して死んだことになりますが、
彼が中心となった製鉄業の勃興は、他でもないその明治新政府が遺志を受け継ぎ、
日本をその後、重工業国と成していったというわけです。
なんともこれは、歴史の皮肉という他ありませんね。
ドライドックが現役であるので、当然こういった建物も、
毎日ではないでしょうが現役で使用されているのでしょう。
うーん、中が見たい。
建物のA-7、というのはAドックの7番の建物、という意味でしょうか。
まさにドライドックが現在進行形で使われていることを証明する、
この甲板。
「横須賀造修補給所ドックハウス」。
造船・修理のことを造修と称しているのですね。
自転車立てがあり得ない角度で屹立していますが、
この不便そうな自転車立てにちゃんと駐輪してあります。
場所が場所なので、放置してはいけないことに決まっているのでしょうか。
見よこれが日本で最初にできたドライドックだ。
設計は小栗が招聘したフランス人技師ヴェルニーによって行われました。
このときなぜフランス人にこの依頼がいったかというと、なんと、
小栗が江戸幕府の勘定奉行に就任したときの目付というのが、
フランス帰りでフランス語ペラペラの栗本 鋤雲だったから、ということです。
勿論、江戸時代にフランス語がしゃべれる人がいても不思議ではないのですが、
この修行僧みたいなおじさんが「コマンタレブー?」「トレビア〜ン」
なんて言っていたことを想像するのは少し難しい気がします。
ん?
なにやら英語と日本語を使った標語が、妙な取り付け方をされた看板に。
STOP/立ち止まる
LOOK/見直す
ACT/行動する
LISTEN/聞く
REPORT/報告する
これらを「スター計画」(STAR PLAN)と称するようです。
なんと言うかごもっともすぎて何の突っ込みようもないのですが、
当たり前のことをあらたまって標語にするのが、日本の職場というものです。
ここは米軍接収後も、進駐して来た米軍にそれに相応する組織がなかったため、
戦中に従事していた従業員がそのまま米軍のために仕事を続けました。
つまり、一度も米軍に取って代わられたことがない職場なのです。
このような「標語体質」が見えるのも、一度もその本体が
「アメリカ型」にならなかったからではないでしょうか。
この全く同じ大きさに切り出された石は、
新小松石といって、真鶴から熱海にかけて産出されたものだと推定されます。
当時の工事ですから、これらの石を運んだのはおそらく牛車であったでしょう。
140年まえに造られたドックの向こうに見える現代のショッピングセンター。
この一号ドックは昭和10年〜11年に渠頭部分を延長しています。
この写真の右側手前の部分をご覧下さい。
他の部分が石積みなのに対し、コンクリート部分が見えますね?
その境目アップ。
このコンクリートで造られているのが、後に延長された部分です。
手すりのある階段の部分も、そのときに作られたように見えますね。
手すりがぐにゃりと曲がっていますが、ドック入りしていた船に潰されたのでしょうか。
つまり、
この石は、建造当時のままのものなのです。(感動)
関東大震災でもこのドックはびくともせず、液状化現象も起きませんでした。
この理由はヴェルニーのドック候補地選定や石などの素材を見る目の確かさ、そして
技術の高さに加え、利権を求めて群がる有象無象には見向きもせず、
自分の目で確かめて機械や技術者を選定する真摯な態度などにあったといわれます。
知れば知るほど、このヴェルニーという人は、すごいんですよ。
横須賀市観光局は、もっとヴェルニーの功績を讃え、
ゆる(くなくてもいいけど)キャラ化でも何でもして、郷土の、のみならず
日本の近代化の恩人として、その名前を国民に知らしめるべきだとわたしは思います。
向こう岸の様子は様変わりしていると思いますが、
おそらくこちら側は何も変わっていないはず。
ちょっと雰囲気を出してモノクロームで加工してみました。
冒頭の写真と同じものですが、これは第2ドック。
三つの中で最も大きなドライドックです。
1884年に竣工しました。
第一号が出来てから9年後、ヴェルニーは退任し帰国していたので、
やはりフランス人技師のジュウエットが、途中まで指導し、
あとの施行はここで研鑽を積んだ日本人が手がけました。
つまり初めての「日本人製」のドライドックということになります。
第2号ドックを海側から見たところ。
船が入るときはこのBと書かれた部分が上がり、海水が湛えられたのち、
修理をする船舶が入ってきます。
その後、ポンプで海水を排出し「ドライドック」にするのです。
ふと向こう岸に目をやると、今朝朝ご飯を食べたスターバックスと、
以前参加したことのある「軍港巡り」の船が見えます。
ちょうど今から客が乗り込むところですね。
ガイドさんによると、この軍港巡りができるのは日本でここだけだそうで、
非常に人気があり、週末はなかなか乗ることができないそうです。
でも、このクルーズ、とても楽しかったですよ。
前もって予約してでも、是非一度経験されることをお勧めします。
参加したこのわたしが、価値があったと太鼓判を押します。
これ、なんて言うのでしょう。
ウィンドラス?
船の係留をするものには間違いないと思うんですが。
ツァー参加者と、特別参加の米海軍軍人さん二人。
友好ムードを盛り上げるために米軍からお借りして来たボランティアです。
男性よりこの女性の方が階級が上なんだろうなあ、と思っていたのですが、
ツァーの道すがら二人が世間話をしているのに耳をそばだてると、
女性の方は本国で弁護士事務所で働いていたことのあるロイヤー。
水兵さんの方は、サンフランシスコ生まれで、カリフォルニアの
海軍基地から赴任して来たと言っていました。
軍人がたくさんいる上、彼らは階級が全く違うので、
どうもこの日が初対面であったらしく、
「どこの生まれ?」とか
「ここに来る前なにしてたの?」
「アメリカでわたしこんな仕事してたんだけど」
みたいな初対面同士の会話をしていました。
左の青いジャージは通訳ですが、ツァーの皆さんはシャイで、
軍人さんたちに写真を一緒に撮ることは要求しても、
話しかけたりすることがなかったので、二人は思いっきり
「時間つぶし」という感じで同行していました。
おそらく昔から変わらない石畳。
小さく書かれた数字は何を意味するのでしょうか。
確か2番ドックのブリッジを通過するときに、下に降りるためのはしごを見つけました。
どうしてこんな囲いをはしごにつけなくてはいけなかったんでしょう。
万が一ドックに船がいるときに上り下りしていて地震が起こったとき、
船体に身体を挟まれないため・・・・?かなあ。
ところで、このドック見学の間、ここにトイレ小屋?があり、
トイレ休憩となったのですが、この仕様がアメリカ式。
つまり、個室のドアが下部30センチくらい開いている、あれだったんですよ。
このときに利用していた女性陣が、
「ドアの下が開いている!」
と結構盛り上がっておられました。
アメリカでは公衆のトイレは全てこれなので、わたしは何とも思わず、
皆がそう言っているのを聞いて「ああそうだっけ」と思いだしたくらいでしたが。
お?
海自専用の建物あり。
すわ、とばかりに一応写真を撮ってみましたが、
"BY Y-RSF"の意味が分かりません。
もしかして・・By yourself?
三つ並ぶここのドライドックで一番小さな第3号ドック。
実は、こちらの方が第2号より10年も先、1874年に出来ています。
第1号から左に並んでいる順番に番号をつけたため、これが第3号と名付けられたんですね。
まだこのときはヴェルニーがおり、彼が設計を手がけました。
この一番小さなドックでも、当時海水を排水するのに4時間を要したそうです。
現在のポンプは、この第3号ドックで1時間半で排水を完了してしまうそうですが、
現在の技術でどんなに急いでもそれだけかかるのなら、
130年前の4時間って案外凄くありませんか?
Wikipediaから拝借した航空写真。
一番下に見える第1号ドックはドライのまま。
第2号ドックには船舶が入れられ、ドライ、つまり現在修理中です。
一番左にあるのが小さな第3号ドックでここにも小さな船が入っていますが、
今からドライにするのか、それとも出て行くのか、海水が満たされた状態です。
これを見て初めて気づいたことがあります。
この見学ツァーはこのドックを見るのが大きなイベントなのですが、
少なくともここにフネがドック入りしている時には、
船舶の国籍日米問わず、一般人が至近距離でそれを見ることは出来ないはず。
ツァーが定期的に行われないのも、この第1〜3号ドック入りのスケジュールを
考慮して日程を設定しないといけないからだったんですね。
現にこの日も、一つのドックには艦艇が修理中だったため、
そこだけは見学できないということになりました。
というわけで、ひょんなことからこのツァーの企画における
関係者各位の御苦労のようなものが垣間見えた気がします。
これだけの価値あるツァーを、ボランティアだけで無料で運営してくれるなんて、
横須賀市観光協会と米海軍にあらためて、多謝。