ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の次のブースには、
「中身のない袖」(The Empty Sleeve)と題された、
父親に抱かれて中身のない袖をけげんそうに持ち上げる幼子と
宙を物思わしげに見つめる父親を描いた絵があります。
■ 中身のない袖
南北戦争の後、戦闘で負傷した帰還兵は、しばしば
「中身のない袖」に表される姿で絵画の題材になりました。
戦闘で手足を失うことは、現代に限らず、
およそ軍事が記録に残されるようになった太古の昔から、
本人にとっても彼の家族にとってもこれほどの悲劇はないでしょう。
手足の欠損によって永遠に失われた機能あるいは感覚に取って代わるものはないのですから。
「中身のない袖」別バージョン。
我々の社会史を通じて、一般に不意の事故によって四肢を喪失することは、
それだけで幅広い感情を伴って語られ認識されてきたものですが、とくに
南北戦争の初期にいつのまにか世間に伝播したこのフォルクローレ、
イメージとしての「中身のない袖」は、当時
「悲劇と引き換えに得た名誉のしるし」と見なされました。
冒頭の若い父親はまだ自分の両手の不在に慣れておらず、
呆然としているように見えますが、この年老いた元大佐が
袖の中身のないことに不思議がる孫娘に対しそれを語って聞かせる様子は
むしろ誇らしげにすら見えます。
しかし、四肢の欠損が外観を損なうものであることはもちろん、それが
「ハンディキャップ」であることは名誉を持って償えるものではありません。
いつの頃からか義手、義肢は、失われた腕や脚の外観を補うのみならず、
失われたいくつかの機能を取り戻すために開発され発達してきました。
今回はは南北戦争以降のころから、こんにちのコンピュータデザイン、
そしてファイバー素材を使った義肢義足に至るまでのお話です。
そして現代では、不幸にして四肢を失ったとしても、それはハンディキャップではなく、
その人の機能を通常の状態に戻し、可能な限り充実した生活を送ることを目的とした
ひとつの挑戦(退役軍人にとっても、医学会にとっても)にしていこう、
と特に現場ではポジティブに考えられているということです。
さて、それではこのケースの中のものを見ていきましょう。
■ ハンガー義肢株式会社
ジェームズ・エドワード・ハンガー
James Edward Hanger 1843−1919
まず、南北戦争時代のこの人物から。
彼は1861年、18歳でバージニアの南軍に入隊しました。
彼が入隊しオハイオに出征した翌朝、戦闘が始まり、その最初の銃弾が
運悪く彼のいた厩舎に飛び込んで彼の手足を直撃します。
負傷してから約4時間、ハンガーは厩舎で耐えていましたが、脚はほとんど粉々だったため、
手術によって腰の骨の約7インチ下は切断され、手も切り落とされました。
ちなみに手術を行なったのはオハイオ州のボランティア医師でした。
つまり北軍(敵)側の医療によってハンガーは命存えたことになります。
その後、南北戦争では50,000回以上負傷者の手足の切断手術が行われることになりますが、
ハンガーのこの時の手術はその一番最初の例となったのでした。
その後、彼は捕虜交換規定によりバージニア州の実家に戻されました。
ここまでならハンガーは単に南北戦争の「中身のない袖」のひとりに過ぎないのですが、
彼の凄かったのは、自分の義肢を魔改造して商品化してしまったことです。
義足義肢生活になったハンガーは、膝上義肢のフィット感と機能、
両方に不満を持ち、快適にしようと、まず、新しいプロテーゼ(装着部分)を設計しました。
彼のデザインの画期的だった点は、腱にゴム製のバンパーを使用し、
膝と足首の両方にヒンジを取り付けて動きやすくしたことです。
彼は1871年にそれで特許を取得し、その他の改良のために発明した装置は
いつの間にか国際的にも評価されるようになりました。
バージニア州政府が正式に彼に膝プロテーゼの製造を委託したのをきっかけに、
彼は「JE Hanger Inc.」という会社を起こし、それはスタントンとリッチモンド、
最終的にワシントンDCに拠点を置く企業となりました。
彼の発明は義手義足の機構だけでなく、段階調節できるリクライニングチェア、
水車、ブラインド、そして自分の子供のために作った玩具「馬なし馬車」がありました。
ちなみに彼は30歳で結婚し、息子六人、娘二人に恵まれています。
息子たちは全員、家業に従事していました。
おりしも優秀な義肢装具の必要性は第一次大戦中のヨーロッパで高まっており、
ハンガーの会社はイギリスとフランスで契約を締結することに成功し、
1919年にハンガーが亡くなったとき、同社はアトランタ、セントルイス、
フィラデルフィア、ピッツバーグ、ロンドン、パリに支店を持つ大企業に成長していました。
ハンガーの子供と孫は、義理の親、いとこ、その他の仲間とともに、
会社の運営と拡大を続けました。
もちろん同社は現在も存続しています。
■南北戦争時代の『外科手術』の恐ろしさ
ハンガーが手脚を切り落としたときにはまだなかったと思われますが、
手前にある金属製でカーブのついた専用の「手脚切断用手術台」が考案されました。
南北戦争で被弾した大尉の身体から取り出された銃弾。
どうしてこれが額に入っているのかはわかりません。
その弾丸を取り出したのはきっとこのような道具に違いありません。
これらの骨を切断するための鋸と弾丸ヘラ(体内の弾丸を取り出す)は
南北戦争で外科医が携帯している手術キットの典型的なものでした。
スチール製で持ち手のハンドル部分は黒檀が用いられています。
しかしこれらが手術の合間に清拭されることはほとんどなかったといわれます。
したがって道具そのものに細菌が繁殖し、それが次の患者に対して使用されることで
しばしば感染症を引き起こして患者を死に追いやるということが起こりました。
しかし、当時の人々は患者の死が不潔な手術道具のせいだとは思っていなかったのです。
不思議なことのようですが、この時代は世界的にも公衆衛生という概念が
やっと認知されたかどうかという頃で、南北戦争のころというのはまだ
マラリア、腸チフス、結核、コレラ、破傷風ですら、病原菌が原因であるということが
ようやくわかってきたという時期でしたから、感染症の予防などという概念がありませんでした。
抗生剤の誕生も1900年代になってからですから、この頃までは手脚を負傷すれば
切断するのが唯一の「助かる道」とされていました。
したがって戦場の医師は負傷した手脚を切り落とすのが主な仕事だったのです。
立てかけてあるのは南北戦争時代に使用されていた松葉杖です。
原始的ですがこれほど効果的なものはありません。
松葉杖そのものの形は生まれてから今日まで
ほとんど変化していないこともそれを実証しています。
■ 第一次世界大戦の四肢切断手術
第一次世界大戦のとき、ルイス・ビブ博士の携帯していた
フィールド用の手足切断キットです。
大きな箱に入っている最も大型の機材は骨鋸、そのほか、
ナイフ各種、プローベ(探り針)、結索針、注射器などなど。
これら手術道具は最高級のスティール製で、洗浄しやすいように
その上からクロームのコーティングがされていました。
滅多に洗うことがなかったという南北戦争時代とは
衛生と感染症についての概念がまるっきり変わっていた、
ということがこれらの仕様からもうかがえます。
これらの機材は、すべて野戦病院において医師が、患者の手足を
切断するために必要な道具ばかりです。
ビブ博士は左端の人物です。
彼が手足を切り落とした?野戦病院はテント張りで、
中央に木の枝を組み合わせた「HOSPITAL」というサインがあります。
第一次世界大戦といえば、どうしても「西部戦線異常なし」を思い出します。
脚を失った級友の見舞いに行くと、
「脚の先が痛い」
と幻肢を訴えるのに怯える者がいるかと思えば、
もう必要がなくなったからとそのブーツを欲しがる者がいたり・・。
もっともそのブーツを手に入れた者も、すぐに永遠にブーツを必要としなくなるのですが、
最初に読んだときに、このころはどうしてこういとも簡単に
四肢を切り落としてしまうのだろうと不思議だったのですが、
全ては抗生物質の誕生以前だったということだったのです。
手前の写真の主、リントン・ヘーゼルバッカーは第一次世界大戦時
フランスに出征して信号隊で任務を行なっていました。
戦闘の間、ヘーゼルバッカーはいわゆる「シェルショック」に苦しめられられ、
加えて毒ガスの爆発に遭って肺にもダメージを受けています。
この写真はヘーゼルバッカーがリハビリを受けたサナトリウムの様子で、
何をしているかというと、皆でバスケット(画面右下にある)
を作っているのだそうです。
セラピーの一環としてバスケットを編むということをしていたんですね。
彼の写真と水筒がバスケットの上に置かれていますが、
これが彼の作ったものかどうかはわかりませんでした。
World War 1 Shell Shock Victim Recovery (1910s) | War Archives
動画の青年は、最初の状態からリハビリを行なって、
すっかり良くなり、まっすぐ歩けるようになりますが、
起立した時の手にまだ怪しげな動きが残っています。
シェルショックは戦闘ストレス反応の一つに付けられた名称です。
第一次世界大戦でこの症状が兵士に現れたとき、原因は、
爆音を伴う塹壕に対する砲撃であると考えられていたため、
こう名付けられたのですが、後年になって、砲撃とは関係ない戦場でも
同じような反応が見られることがわかってきて、呼称は
戦争神経症 (war neurosis)
と変わることになります。
「シェルショック=第一次世界大戦」
というイメージはこの最初に生まれた呼称が一時的だったことから生まれたのです。
■ コロンビアが彼の息子に爵位を授ける
南北戦争はもちろん、第一次世界大戦においても、戦傷したものは
非常に高い確率で死亡し、戦死した者は国家から家族にこのような
死亡証明書が送られました。
その後ろに見えている版画については前に一度紹介しました。
戦死者の家族に対して贈られる名誉賞です。
Colombia gives to her son the accolade
of the New Chivalry of Humanity.
コロンビアが新たな人類の騎士となった
彼女の息子に”アッコラード”を与える
アメリカを象徴する女神「コロンビア」が、彼女の前に跪く兵士の肩に
剣を置く仕草をしつつ、「騎士」(ナイトフッド)の証明書を授けています。
「アッコラード」という言葉は翻訳しようがなかったのでそのまま書きましたが、
ナイト(爵位)授与式において剣で爵位を受ける者の肩に触れる動作のことを言います。
そして、戦死した者の名前の後に、
「第一次世界大戦で名誉を与えられ、彼の国のために亡くなりました
ウッドロー・ウィルソン」
という当時のアメリカ合衆国大統領の名前で発せられたことばが続くのです。
兵士と水兵の記念博物館に展示してあるこの死亡証明書には、
「ジョン・W・セラウィップ中尉」の名前が記されています。
続く。