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第643予備航空部隊と朝鮮戦争〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

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ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の展示ですが、
一応時系列にそって並べられているものの、どうしても
ペンシルバニア州近郊のヴェテランの寄付した品に偏りがちです。

かろうじて左上の端っこが五大湖のひとつエリー湖と面しているだけで、
広大なくせに海なし州であるペンシルバニア州のピッツバーグは、残念ながら
海軍のゆかり深いフィラデルフィア(これも海ではなく川に面しているだけ)
からあまりに遠いのです。

海なし州から海軍軍人になる人も普通にいるとは思いますが、やはり
海軍のお膝元である地域と比べると当博物館の展示に圧倒的に
海軍関係のものが少ないのはこのせいなのかもしれません。

空軍基地はすぐ隣のオハイオにライトパターソン基地という「大物」があるせいか
ペンシルバニアにはひとつもありません。

さて、そんなピッツバーグの軍事博物館の陸軍航空隊についての展示です。

いまさらですが、アメリカ陸軍航空隊(United States Army Air Corps, USAAC)は
第二次世界大戦中に「航空軍」US Army Air Forcesとなり、さらに戦後、
1947年にはそれは空軍になったので、もう存在していません。

ここには朝鮮戦争以降の海軍航空隊、陸軍航空隊の関係資料が並んでいます。

■ 朝鮮戦争の勃発

まず、USN、アメリカ海軍の白いマフラーをあしらった
ボマージャケットが展示されていますが、その前には
朝鮮戦争がどのように始まったかの今更な説明がありました。

先日、習近平が朝鮮戦争について中国がアメリカ軍を撃退したとしたうえで、

「如何なる覇権主義もいずれも行き詰まる。
安全保障、主権、領土及び発展利益が脅かされた時、我々は真っ向から反撃する」

と声明を出したとき、世界中から

「は?朝鮮戦争は中共とアメリカの戦争じゃねーし」

と一斉に突っ込まれたということがありましたよね。

どうも歴史についてあまり明るくないらしい習主席のために、
ここに書いてあることを翻訳しておきます。

「1950年6月25日、北朝鮮共産主義者がソビエト連邦とともに
南朝鮮に武力をもって侵攻を行った。

二日後、国連軍の安全委員会はソ連代表の欠席のまま、
南朝鮮を支援することを決定した。

同日、アメリカ大統領トルーマンはアメリカ軍を南朝鮮の援助のために
出動させるという決定に基づき命令を下す。

トルーマンがこのとき称した「ポリス・アクション」によると、
国連軍の5分の4はアメリカ軍で占められていた。

この行動により、北朝鮮軍は三十八度線を突破。

その時点で中国は強大な兵力の「志願軍」をもって参戦し、
ロシアは武器を調達するなどして援助を行った」

この事実からどうして覇権主義がアメリカにあったと言い張れるのか、
どうにも不思議でしょうがないのですが、そう思い込んでいるのか、
それとも特定アジア独特の

「嘘も100回言えば本当になる」

というあれなのでしょうか。
とにかく、アメリカにとっての朝鮮戦争とは、

「第二次世界大戦での戦いの多くと同じくらい野蛮で、
さらには費用のかかる戦争であることを確かにした3年間」

ということになっております。

まあつまり、朝鮮戦争はあくまでも朝鮮半島の主権を巡る紛争で、戦ったのは
アメリカ主体であったとはいえ、西側自由主義陣営諸国を代表する国連軍と、
東側会主義陣営の支援を受ける中共人民志願軍の交戦であったわけです。

紛争が開戦から3年後の1953年7月27日に終了するまで、
500万人のアメリカ軍関係者が任務にあたり、戦死者は5万2千246名、
負傷者10万3千284名、MIAつまり任務中の行方不明者8177名でした。

朝鮮戦争は開戦から3年後に休戦しましたが、平和条約が調印されなかったので
いまだ終戦にはなっていません。
わたしたちはあまり詳しいことを知る機会がない三十八度線ですが、
アメリカ軍は現在も南北国境に駐留して停戦を維持しています。

■ 第653海軍予備隊の戦い

ピッツバーグのVF-653、第653海軍予備隊は61名の士官と西部アメリカの
部隊からやってきた下士官兵で構成されていました。

1951年10月から1952年2月まで、彼らは

空母「ヴァリー・フォージ」USS Valley Forge

に配属されることになりこのことは彼らを
戦争中最も「デコレーテッド」つまりその功績を評価され受勲された
戦闘機隊のひとつに押し上げることになりました。


飛行隊パイロットは1952年7月にバレーフォージでポーズをとる

空母「ヴァリー・フォージ」甲板上のVF-653のメンバー。

1952年7月に撮られた集合写真は、18人のフライトジャケット姿の乗組員です。
彼らの足元には、水玉模様と笑顔のピエロが描かれた13の飛行ヘルメットが並んでおり、
これは、彼らの行方不明の仲間を表しています。

2人が重傷を負い、11人が死亡または行方不明。

この写真は、海軍のカメラマンが写真を撮りにきたとき、メンバーの一人が
自分のカメラを渡してこのショットを撮ってくれと頼んだものでした。

彼らのほとんどが微笑みを浮かべているのがむしろ壮絶に思われます。

クラウン(ピエロ)の顔が描かれた赤地に白の水玉。
これが第653海軍予備飛行隊のトレードマークです。

太平洋戦線において空母「ワスプ」「レキシントン」の甲板から
ダグラスのドーントレスSBD 急降下爆撃機を飛ばした、海軍航空隊の
クック・クリーランドという隊長のもとに部隊は結成されました。

www.cityofpensacola.com/ImageRepository/Documen...Cook Cleland(1916-2007)

クリーランドは第二次世界大戦時の戦闘機エースでした。

また、3,000馬力のプラットアンドホイットニーR-4360を搭載したコルセアで
1947年のトンプソントロフィーレースでの勝利を収めた飛行家です。

クレランドのリーダーシップの下、緊密で意欲的なチーム、VF-653が誕生しました。

ヘルメットの部隊マークについては、航空隊の一人のパイロットが、
ある日自宅から送られてきたキャンディーの袋からヒントを得て、
飛行ヘルメットを白い水玉模様で赤く塗ってみたことがきっかけで生まれました。

イラストレーターだった彼はさらにピエロを加えたテンプレートを創作し、
このファンキーなイラストは各パイロットのヘルメットの側面に手描きで施されました。

テンプレートになったピエロはニヤリと笑っているものでしたが、この写真の
レイ・エディンガーのヘルメットのピエロは皆のものと違い、眉を潜めた顔に描かれています。

これは、エディンガーが副長(XO)であり、飛行隊の規律を担当していた、
ということともちろんのこと関係があったはずです。

朝鮮戦争の始まりとともにVF-653を含む14個の海軍予備役軍団が現役になりました。

 

訓練に入ってすぐにVF-653は事故で二人のパイロットを失いました。
戦術訓練中2機が空中衝突を起こし、脱出するまもなく海面に激突したのです。

配備中、彼らは三日勤務をこなすたびに1日の休暇を与えられました。
その休暇時間を彼らは日本で過ごしました。

 

戦闘にはダグラスA-1「スカイレイダー」と高速で足の短いジェットエンジンの
グラマンF9F「パンサー」も参加しましたが、コルセアは、1,000回以上出撃を行い、
その中で10人が戦死あるいは行方不明になります。

ヴォートのF4Uコルセアについては何度もここでお話ししてきました。

1943年から最初に海兵隊に採用されましたが、そのときも
空母に着艦するのには問題があるとされていましたが、
海兵隊の成功のあと、いくつかの問題が解決された1944年からは
海軍の空母においても運用されるようになってきます。

ベント・ウィングのコルセアは第二次世界大戦期における
最高の戦闘機の一つであったことは間違いありません。

朝鮮戦争が始まるとまたしてもコルセアの出番となり、その際には
有事にアクティブとなったVF-653のような予備航空隊がこれを使用しました。

歴史的にもこれが最後のプロペラ式戦闘機が活躍した最後の瞬間でした。

 

「ヴァレー・フォージ」は4月2日に日本の横須賀に向けて出発するまでに、
ATG-1のパイロットは1,500をはるかに超える出撃回数を記録し、
その過程で飛行隊まるまる一つ分の人員を失いました。

 

■ フライト・ナース

Medical evacuation Nurseは朝鮮戦争の間
エアフォースで任務を行うことを許可された唯一の女性でした。

この写真は戦災孤児の医療担当をしているフライトナースです。

フライトナースは、ヘリコプターやプロペラまたはジェット機による
航空医療避難チームの一員として任務を行います。

B-26の銃撃手が銃座を操作するときに使用した機器、

「Target Sighting Station」

が右の方に見られます。

 

潜水艦の潜望鏡のように真ん中のスコープを覗きながら
ハンドルを操作したのではないかと想像。

朝鮮戦争当時のパイロット用マスク。
現在のようなハイテックな防寒素材があった時代ではないので、
このマスクもみたところただのフェルトっぽい生地のようです。

内側が起毛した寒冷地用ブーツ。

戦傷による身体不自由になった兵士たちについての展示の中で
朝鮮戦争では凍傷による指の欠損が大変多かった、と書きましたが、
半島における寒冷期の戦線はとにかく寒さが過酷だったようです。

余談ですが、朝鮮半島に唐辛子をもたらしたのは日本人って知ってました?
それは豊臣秀吉の朝鮮出兵のときで、持ち込んだのは加藤清正。

そもそも唐辛子は南米が原産で、日本にはポルトガルの宣教師が伝えました。
ただ、日本人は辛いものを好まなかったのか、食用としてではなく、
観賞用とか、足袋の爪先に入れて霜焼けを防ぐために使っていたのです。

加藤清正が朝鮮戦争で携行したのも、武器(目潰し)、毒薬、そして
凍傷を予防するためだったのです。

当然朝鮮人は食べるだけでなく凍傷予防になることを知っていたはずなので、
なんならアメリカ軍に配布すればよかったものを、しなかったんですね。

朝鮮戦争時の武器などが展示されています。

アメリカ製のシャベルと短刀などもありますが、それより
もしかして右側二振りは・・・日本刀じゃないでしょうか。

アップにして柄の部分を見てみると、右側には桜、
左の刀にもそれらしい模様が刻印されています。

朝鮮戦争では当時は日本軍人だった朝鮮人将校が指揮を執る場面がありましたが、
この日本刀もそういった日本軍出身の士官がもたらしたものだったと思われます。

General Hong Sa-ik.jpg

陸軍士官学校卒の朝鮮人将官といえば

洪 思翊(こう しよく ホン・サイク)

が真っ先に思い浮かびます。
戦後マニラで戦犯指名を受け、処刑されています。

ROKA General Paik Sun Yup July 27th 2011 CE.jpg

今年7月99歳で没した白 善燁(ペク・ソニョプ)は、満洲国軍の士官学校卒で、
朝鮮戦争の英雄でもありました。

 

ところで朝鮮戦争当時、中共の後ろ盾に旧ソ連がいましたが、しかし、
現在のロシアと中共に友好関係は全く存在していません。

朝鮮戦争において覇権主義を食い止めたと豪語した習近平ですが、
まさにお前がいうなであり、その時代遅れの覇権主義において
真に孤立していたの中国であるというのは明らかです。


2021年現在、アメリカの選挙に介入することで、その覇権を搦手で達成しようとした、
(といわれる)中国ですが、はてさて、そううまくいきますでしょうか。

続く。


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