前回はガダルカナルの戦いにおける航空隊に焦点を当て、一項を割きましたが、
今日はスミソニアンの展示「空母の戦争」のテーマに立ち返りたいと思います。
さて、8月7日に米海兵隊部隊がツラギに侵攻し、ルンガ飛行場を奪ったあと、
これを奪還せんと艦隊をすぐさま派遣した日本軍と米軍の間に激しい戦いが始まりました。
ソロモン海海戦です。

ここスミソニアンのテーマはあくまでも「空母の戦争」でありますので、
空母が運用されなかったこの夜戦については、勝敗にすら言及されておりません。
スミソニアン航空博物館いうところの「空母の戦争」が行われるのは
第二次ソロモン海戦からということになります。 というわけで写真は8月24日、第二次ソロモン海戦における
USS「エンタープライズ」の戦闘準備の様子です。 日本軍は、3隻の空母を含む聯合艦隊のサポートによって、ガダルカナル島に
1500人から軍勢を送り込み、兵力を強化する作戦を立てました。
それに対し、フレッチャー提督は「サラトガ」「エンタープライズ」
そして「ワスプ」を率いて立ちはだかりました。 日本海軍の戦略は、軽空母「龍驤」を主力艦隊の前方に送り、
ヘンダーソン基地を迂回攻撃してフレッチャー提督を戦争に誘い込むことでした。
その目的は、残る重量級の戦力を全て投じてアメリカ空母を潰すこと。
「エンタープライズ」と「サラトガ」はガダルカナル島の東に向かって急行し、
敵機動部隊の位置についての連絡を待っていました。 一方「ワスプ」は南方で燃料の補給をしていました。 「エンタープライズ」偵察機は午後に敵空母を発見して攻撃を試みましたが
ほとんどこれに成功せず、「サラトガ」のアヴェンジャーとドーントレス隊は
「龍驤」に激しい攻撃を続けました。 日本軍の狙い通り、「龍驤」はいわば囮としての目的を果たしていたのです。
その頃、すでに日本空母打撃群の航空機は東に向かっていました。
空母「エンタープライズ」と「サラトガ」をターゲットとして。

「エンタープライズ」はその日の午後遅くに行われた激しい日本軍の航空攻撃で、
三発も爆弾を見舞われることになりました。 午後4時47分、日本軍の攻撃は終わりました。 「エンタープライズ」の乗組員は、攻撃と同時に消火活動と修復を行い、
そして、驚くことに1時間後、彼女は航行可能になっていました。 この写真は、「エンタープライズ」の飛行甲板で爆弾が炸裂する瞬間で、
撮影した乗員のロバート・E・リードはこれを最後に命を落としたという説もあります。 8月26日朝、B-17とヘンダーソンの爆撃隊によって日本の輸送艦と駆逐艦が沈没し、
ガダルカナル島への日本軍の上陸は阻止されました。

左が「龍驤」で、沈没位置が示されています。
対して下の太いラインが「エンタープライズ」「サラトガ」含む米艦隊で、
細い矢印は「ワスプ」のコースを表しています。 なお、赤のガダルカナルへの攻撃マークは、日本機動部隊航空隊が地上攻撃をしたということです。
そして、アメリカ側の青い線は、そのガダルカナルから発進した航空部隊で、
「龍驤」を攻撃しました。
日本はこの海戦で空母「龍驤」を失いました。 赤い星印の場所で損傷した「エンタープライズ」は沈まず、真珠湾に戻りました。

修理のために真珠湾に戻りました。 ちょうど2週間後、ガダルカナルへの援軍の輸送を護衛していた「ワスプ」は、
潜水艦から3本の魚雷を見舞われ、炎上します。 弾薬、爆弾、燃料が誘爆し続け、艦長はついに総員退艦を命じました。
そして5隻の駆逐艦の魚雷によって沈没処分になりました。 これによって乗員193名、航空機40機が失われました。 この時点で、「ホーネット」は南太平洋で唯一残された運用可能な空母となりました。
■ 南太平洋海戦(サンタクルーズ海戦)1942年10月26日

空母「翔鶴」と「瑞鳳」が大破・中破という損害を受けたものの、
米空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」を中破させ、
戦術的勝利を収めています。
しかし、日本の攻撃の主目的である飛行場奪回には失敗しました。
そして第三次ソロモン海戦によって連合軍は勝利し、日本軍は
ガダルカナル島への兵力増援を断念せざるをえなくなります。 第三次ソロモン海戦についての説明はこれだけです。
というのも、この海戦では空母はアメリカ側に「エンタープライズ」がいたのみで、
日本軍の航空機は空母を介して戦っていないので、
こちらも当展示の説明対象ではないからです。

しかしせっかく第三次ソロモン海戦が出たので、「空母の戦い」とは関係ありませんが、
最後に、いつ見てもすごいと思わずにはいられない、第三次ソロモン海戦における
一式陸攻の「変態飛行」
の写真をあげておきます。
29機の一式陸攻は二手に分かれて8〜16mの超低空を航行し、攻撃を仕掛けました。 彼らは戦闘機の迎撃と防空巡洋艦の対空砲火により撃退されましたが、
1機の一式陸攻が「サンフランシスコ」に体当たりし、火災を発生させています。 この頃には辛うじて日本には
操縦技術の高い搭乗員が残っていた、
という一つの証拠といえるでしょう。
そして一連の激戦でその多くが失われたその後、日本軍は
航空戦での絶対的優位を二度と獲得できなくなっていきます。 続く。