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”Too Close For Comfort "レイテ沖海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン航空博物館プレゼンツ「空母の戦争」特集、最終回です。
このコーナーによると、太平洋において空母を使った戦闘が行われたのは10、
しかし、そのうち「どちらもの陣営に空母を置いて戦われたもの」となると、

珊瑚海海戦(1942年5月8日)

ミッドウェイ海戦(1942年6月〜7日)

南太平洋海戦(1942年10月26日)

第二次ソロモン海戦(1942年8月23〜24日)

マリアナ沖海戦 (1944年6月19〜20日)

レイテ沖海戦(1944年10月20〜25日)

ということになります。
スミソニアンの「空母の戦争」コーナーでは、あくまでも
「どちらかが空母を使った」という縛りで紹介がされています。

■ レイテ湾の戦い

「日本艦隊の終焉」とサブタイトルが付けられています。
この端的なタイトルがレイテ沖海戦の全てを表しています。

前回のクェゼリンからトラック島までの飛び石作戦のあと、
日米両軍の間にマリアナ沖海戦が起こり、この結果、日本海軍は
空母三隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、艦載機多数と搭乗員を失う敗北に終わりました。

アメリカ軍のフィリピン奪回を日本が少ない兵力で阻止せんとしたのが、
この6日間の戦闘で、その中には4回の海戦が含まれます。

その四つの海戦とは、図の位置で行われ、時系列で並べると、

1、シブヤン海海戦(24日10時27分開始)

2、サマール沖海戦(25日6時57分開始)

3、エンガノ岬沖海戦(25日8時15分開始)

4、スリガオ海峡海戦(25日22時36分開始)

となります。

豊田副武

■ 日本の計画

10月17日の午前8時20分ごろ、アメリカ陸軍のレンジャー部隊が
レイテ湾の河口にある島々に上陸を始めました。

日本軍は三つの海軍兵力のコンビネーションでこれを迎え撃つことになりました。

北艦隊(旗艦空母)〜ハルゼー提督率いる高速空母機動隊を侵攻目的地から引き離す

中央艦隊(戦艦・巡洋艦)〜サンベルナディノ海峡を出て侵攻軍を撃破

南艦隊(戦艦・巡洋艦)〜スリガオ海峡を抜け海岸線より侵攻する敵を撃つ

計画の成功に不可欠なのは聯合艦隊の重機関銃と陸上航空機の投入でした。

ここで日本の豊田副武中将の紹介があります。
ADM. SOEMII TOYODAとなっているのはご愛嬌ってことで。

「聯合艦隊1Sの最高司令官である豊田副武は、アメリカの艦隊が
崩壊しつつある大日本帝国の外側に最初に上陸し、
レイテ湾に侵攻せんとする1944年の5月に就任しました。

豊田はのちにこのように回想しています。

『もし万事うまくいけば予想外に良い結果を得るかもしれないが、
最悪の場合、聯合艦隊そのものを失うという可能性はあった。
フィリピンの損失を犠牲にしてまで艦隊を救う意味はない』」

負けた指揮官が色々言われるのはこれはどうしようもないとしても、
この人、「大和特攻」を決めた時もこんなこと言ってましたですね。

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

成功率50%以下の作戦に投入する「大和」とその乗員の生命について
なにか思うところはなかったのか、と聞いてみたい気がしますが・・・。

 

■ レイテ上陸作戦

ウィリアム・F・ハルゼーJr. 提督 
ADM. William F. Halsey Jr.

上の海戦図をご覧いただけばわかりますが、ハルゼー艦隊は
小沢艦隊の陽動作戦にはまって担当海域を離れてしまいました。

護衛空母部隊が栗田健男中将が指揮する第一遊撃部隊との戦闘で
ハルゼー艦隊に救援を求めることになり、ニミッツがこのとき打った有名な電文は

”TURKEY TROTS TO WATER GG FROM CINCPAC ACTION COM THIRD FLEET INFO COMINCH CTF SEVENTY-SEVEN X WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS”

「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR
RR THE WORLD WONDERS」

(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。
全世界は知らんと欲す)

最後の「全世界はそれを知らんと欲す」は、
電文の意味をわかりにくくするために付けた意味のない一文だったのですが、
それがアメリカ人なら誰でも知っているテニスンの詩の一節で、
しかも前文と違和感なく意味がつながってしまったため、
ハルゼーはこれを皮肉をいわれたと思い込んで激怒しました。

ハルゼーは救援を無視し、名前の通りの
「Bull's Run(猛牛の突進)」で小澤艦隊を追撃し、
4隻の日本の空母を撃沈しました。

ハルゼーが罠にはまっておびき寄せられたこと自体は彼の失態であった、
とする歴史家もいますが、アメリカ軍にとって日本の空母壊滅の目的を達し、
結果的に海戦の勝利ということになり、文字通りの「勝てば官軍」として、
ハルゼーはゴールドスター勲章を授与されています。

陸軍部隊のタクロバン上陸

1944年10月20日、
グラマン・アベンジャーが舟艇で上陸する陸軍の掩護をしています。
これらの航空機は、トーマス・C・キンケイド副提督が指揮する
 18隻の護衛空母のグループを含第7艦隊侵攻艦隊の護衛空母から発艦したものです。

■ マッカーサーの戦争

海軍がクェゼリンにはじまってマーシャル諸島をトラックまで
飛び石のように侵攻していたとき、マッカーサーは南西太平洋軍として
連合軍の協力のもと、ニューギニアを制しておりました。

マッカーサーが誇大に勝利を発表して自分の成果にしたため、
同盟国であるオーストラリア軍の働きはほぼなかったことにされるなど、
色々後世には言われているようですね。

マッカーサーの太平洋戦争

 

"People of the philippines!  I have returuned."

スミソニアンではこの写真にこの言葉を添えていました。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサーはレイテに上陸し、
フィリピン人に向けてこの一文で始まる麗々しい文章を記念に残しました。

フィリピンの民よ!私は戻ってきました。

全能の神の恵みによって、私たちの軍隊は再びフィリピンの土の、
つまり我々の血の上に奉献された土壌の上に立っています。

私たちは、あなたの日常生活から敵の支配の痕跡をすべて消し、
破壊できない力の基盤の上に人々の自由を回復するという任務を成し遂げました。

私の側には、偉大な愛国者マニュエル・ケソンの後継者である
セルヒオ・オスメナ大統領とその内閣のメンバーがいます。
あなた方の政府はフィリピンの土壌にしっかりと再建されました。

(中略)

バターンとコレヒドールを忘れない、不屈の精神です。
我々の戦線が前進し、戦いの場にあなた方を連れていくので、
そのときは立ち上がって攻撃してください!
あなたの息子と娘の将来の世代のために、戦うのだ!
祖国の神聖な死者の名において、戦うのだ!
心を強く保ちすべての腕を鋼で固めましょう。
神の導きが道を示しています。

義にかなった勝利の聖杯に神の名を讃えよ!

 

■ エンガノ沖海戦

「比島決戦」というタイトルの当時のニュース映画が見つかりました。
フィリピンでの海戦であり、空母が登場するからには、
これがエンガノ沖の小澤艦隊か?というタイトルは正しいものです。

搭乗員が出撃前に水杯を上げているシーンが映っています。
彼らは司令から

「母艦には帰ってくるな」

と言われていたといいます。

帰ろうにも、エンガノ沖海戦で投入され旗艦「瑞鶴」はじめ
「 瑞鳳」「 千歳」「 千代田」4隻の空母は、
ブル・ハルゼーの怒りに任せた執念の攻撃により全部撃沈されるわけですが。

「千歳」 艦長岸良大佐以下468名戦死

「瑞鶴」 艦長貝塚少将以下843名戦死

「千代田」 艦長城大佐以下全員戦死

攻撃を受ける「千代田」

「瑞鳳」だけは駆逐艦「桑」に艦長以下847名が救助されました。
このフィルムは、「瑞鳳」に乗り込んでいた竹内広一カメラマンが撮影したもので、
乗員が救出されたため、レイテ沖海戦の貴重な映像を持ち帰ることに成功したのでした。

攻撃を受ける「瑞鳳」

フィルム冒頭には竹内氏始め報道班員の名前が6名記載されています。
実は小澤艦隊の各艦には、彼らが特派員として乗り込んでいたわけですが、
あの有名な「瑞鶴」総員退艦前に行われた国旗降納の万歳シーン、↓

これを撮ったのは軍人ではなく、報道班員だったことがはっきりしました。
この人はこの後駆逐艦に移乗し、無事に帰国できたということになります。
「瑞鶴」から「初月」に移乗した人たちは、「初月」が撃沈されて死亡しています。


全員戦死したという「千代田」に乗っていた報道班員も殉職したのでしょうか。

「瑞鳳」に乗っていたカメラマンの撮影した映画を見ていただくと、
敵の航空機を撃沈したこと、着水した航空機の乗員を救助しに行くシーンなどがありますが、
その後の(肝心の)経緯については全くないので、これを見た人は
まさかこのあとカメラマンの乗った空母が沈没したなど夢にも思わないでしょう。

ましてや、冒頭の人々のうち何人かは確実に亡くなっていることも。

 

さて、ハルゼーは実のところオトリ作戦に引っかかったわけですが、
彼にとっては幸運なことに、囮作戦に成功したと判断した小沢長官の

「敵機動部隊を誘致」

という電報は何故か栗田艦隊には届かなかったため、栗田長官は
米機動部隊の在り処を判断する術なく、レイテ湾突入を目前にして
あの「運命の反転」を選択してしまうことになります。

そして日本軍は最後の空母のみならず、組織的なレイテ湾突入の機会を永久に失います。


冒頭に挙げた絵画ですが、ウォー・アーティスト、Tom W. Freeman作の

TOO CLOSE FOR COMFORT

というタイトルの水彩画です。

同名のジャズのスタンダードソングの歌詞だと、この意味は

「あなたとの距離が近すぎて怖い(ドキドキ)」

なのですが、この場合の『あなた』とは艦首に菊をつけた戦艦であり、
ドキドキというよりスレスレでヒヤヒヤ、となります。

1944年レイテ湾の戦いにおいて、米軍のドナルド・D・エンゲン中尉は
空母「瑞鶴」に急降下爆撃を命中させました。
この絵に描かれたのは、エンゲン中尉が、その爆撃の後に行われた対空砲を躱すために
帝国海軍の戦艦「日向」の艦首の下方を飛んでいる瞬間です。

この成功によりエンゲンは戦後海軍で中将にまで昇進しました。
どうしてさほど有名でない?海軍中尉の攻撃の絵がここにあるのかというと、
彼は海軍を退役後、1996年にスミソニアンのディレクターになったからです。

その3年後、おそらく現職のまま、彼は操縦していたグライダーが墜落して
75歳の生涯を閉じてしまいました。

 

さて、というわけで、全ての空母(といっても艦載機は4隻全部足しても
『エンタープライズ』の艦載機の数にも満たなかったといいますが)
を失い、その前に載せるべき飛行機も失い、日本はこのあと
最悪の道を選択するしかないところまで追い込まれていきます。

 

続く。

 

 

 


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