ピッツバーグのハインツ歴史センターの特別展、
「ベトナム戦争」の展示をご紹介しています。
前回で、アメリカが世界の共産主義化を阻止するために
インドシナ戦争のスポンサーになり、朝鮮戦争に介入し、
さらにはアイゼンハワーが同じ理由でベトナムを分割し、
共産主義と対峙する姿勢を明らかにしたところまで説明しました。
今日は、ベトナム戦争時代の指導者についてです。
戦争が始まる 1954ー1965
今更ながらにこの年代を見て驚くのは、べトナム戦争は11年も続いていたということです。
最後の頃は「泥沼」などと言われていたようですが、どうしてこんなに長引いたのでしょうか。
なぜ米国はベトナムに軍事介入したのか
どのような出来事や決定が戦略爆撃機や兵員輸送船を送り込ませたのか
とあります。
兵員輸送船は「troopships」をこのように訳しました。
さらに、一番最初のコーナーにもかかわらず、このような一文が。
1965年までの戦争の現実
184,000人の参戦に対し米軍の死者は2,300名
そして164万ガロンの除草剤が散布された
米国国民の24%はベトナムへの軍隊の派遣は間違いだったと考えている
いきなり最初で結論を急いでしまっております。
■ ホーチミンの道
このような自転車は、北ベトナムから南ベトナムに続く
「ホーチミン・トレイル」を、食糧や軍需品を運ぶのに使われました。
若い北ベトナム人はこの自転車を押して、ラオスとカンボジアのジャングルや
危険な峠を何百マイルも横断しました。
歩兵もこの「ホーチミンの道」を行軍したといいます。
その旅はただただ悲惨なものであり、病気、飢餓、そして
米軍の爆撃という危険に満ちていました。
ホーチミントレイルの敷設は、ハノイの指導者たちが
南部での革命戦争を支援するということを決定した1959年に始まりました。
すでにフランスとの戦いのときには存在していたチュオンソン山脈を通る小道は
これ以降改善されていくことになり、未舗装の道路に陸軍のバラック、病院、
補給用の掩体壕、保管倉庫、そして指揮と制御のセンターなど、
複雑なシステムに進化していきました。
1962年までにトラックもこの道を運行することができるようになっていきます。
ホーチミントレイルを運行していたトラックの運転手だそうです。
若い女性がそういう任務に就いていたということなんですね。
ここに飾られている私物はジョージ・クニス(Kniss)という
空軍の写真隊のカメラマンだった人物のものです。
ブッシュハット
1964年、Kniss はベトナムでこの「非政府問題」の帽子をベトナムで購入しました。
エンブレムには「エイブルマーブル」偵察隊のマークがあります。
タイを拠点とする低空飛行で、彼はラオス、カンボジア、ベトナムの標的と、
その破壊を撮影することに成功しました。
Knissと彼の同僚はこれらのミッションで撮った映像を映画化しました。
ニコレックス F カメラ 1963
ベトナムに上陸した直後、クニスはサイゴンのダウンタウンにあるPXで
この35mmカメラを購入しました。
軍のカメラマンにカメラが割り振られることはなかったのですが、
個別に購入したものに対して支払われることになっていました。
ほとんどはジャーナリストが使用するより機敏な35ミリではなく、
重くて大きなフォーマットの4x5だったということです。
ジョージ・クニスは1963年10月、ベトナムに到着しました。
これは米軍の「アドバイザリー」活動の一環です。
空軍カメラマンとして、彼はベトナムを訪れたVIPを撮影したり、
偵察と爆撃に同行して撮影を行いました。
この写真はベトナムではなく、1965年カリフォルニアに帰国したときのもので、
彼が持っているのは政府が貸与したくだんの重たい35ミリのカメラです。
クニスの1963年から1964年までの1年間の日記です。
クニスの日記には、南ベトナムのディエム大統領を追放したクーデター、
ケネディ大統領の暗殺、トンキン湾事件など、任務中に起きた
歴史的な世界の出来事について記されています。
また、日記にはケネディ大統領とベトナム戦争の原因について、
また政府と軍事行動についての自身の意見が記録されています。
しかしそのわりに、開いているページはそのような重要なものではなく、
彼がピッツバーグ空港から出立した日の日記であり、しかもその内容は
エレンは空港に見送りに来てくれなかった。
理由はわからないが、彼女のボーイフレンドのジムのせいだと思う。
理解できないのは、僕が二度と戻らないかもしれないのに見送らず、
彼を優先して満足させるという彼女の価値観だ!
とかいうものです。(謎)
エレンと彼の関係はわかりませんが、まあ要するにアキラメロンってことだ。
ここからの三枚の写真は、彼の撮ったものとなります。
南ベトナム空軍の若き司令官、グゥエン・カオ・キ(Nguyen Cao Ky)阮高奇、
当時34歳です。
フランスで操縦訓練を受け、空軍将校として少将に昇進、
その後1965年のクーデターで副大統領に就任しました。
アメリカの支援を受けて北ベトナムや南ベトナム解放民族戦戦と戦いましたが、
政府との関係が悪くなり、サイゴン陥落前にアメリカに亡命しました。
ちなみに亡命に使ったのは揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」だったそうです。
ポール・ホーキンス将軍、ヘンリー・キャボット・ロッジ大使、
ベトナム軍カーン将軍、マックスウェル・テイラー将軍、
そして一番右がロバート・ストレンジ・マクナマラです。
マクナマラはケネディ政権、ジョンソン政権で国防長官を務めました。
■ ベトナム軍グッズ
南ベトナム共和国暫定革命政府の旗
1969年、北ベトナムと国家解放戦線(ベトコン)は、
ベトナム共和国とグエン・ヴァン・チュー大統領に対抗して
南ベトナムに陰の政府を設立しました。
この政府は、北による南部の侵略を支援し、1976年に北が
ベトナム社会主義共和国を設立するまで、共産主義国のために
南部の公認政府として機能しました。
アメリカ軍のジョン・エルムとその戦友たちが、鹵獲した
南ベトナム共産主義の旗を提示しています。
おそらくここに展示されているのと同じものだと思われます。
Pith(ピス)ヘルメット
北ベトナム軍が製作したヘルメットは、フランス植民地時代のスタイルを踏襲しています。
金属製ではないので、熱帯気候から兵士を保護することはできましたが、
兵器に対してはほとんど効果がありませんでした。
ヘルメットの星のマークは北ベトナム軍の旗を表しています。
これらの展示物は、ソルジャーズアンドセーラーズメモリアルホールからの貸与だそうです。
Non la 葦の編み笠帽子
伝統的な円錐形の編み笠は、村人とベトコンの兵士がどちらも着用しました。
ベトコンサンダル タイヤをリサイクルして作ったもの
ベトコンは反乱キャンペーンのために彼らは再利用可能なあらゆるものを作りました。
中国共産党の短筒型手榴弾
北ベトナム軍の兵器の一つ。
北ベトナム軍兵士のチェストポーチ
チェストポーチなどというとなんだかおしゃれな感じですが、
つまり胸にかける物入れのことです。
このポケットには彼らがソ連から貸与されたAKー47の弾薬を収納していました。
北ベトナム軍は高度な訓練を受けたプロの兵士の集団でした。
北ベトナム軍着用の靴
上部は緑色の帆布、ゴム底でできています。
熱帯での戦争のため、このような仕様になりました。
■ 北ベトナムと南ベトナム
さて、それでは冒頭写真で説明されている北と南ベトナムについて、
これを翻訳しておきます。
北ベトナム
北ベトナム軍司令官であるヴォー・グエン・ジャップ将軍とホー・チ・ミンは、
第一次インドシナ戦争でフランスに対して使用された戦略を、
ベトナム戦争でアメリカに対して用いました。
そして、南部のベトコン同盟に対して、大変洗練された道路、トンネル、
水路を通じて、人員輸送などを供与し続けました。
何百万人ものゲリラと正規軍兵士を自由に動かせる状態で、
北ベトナムはゲリラ、反乱、そしてテロ主導の戦闘を実施しました。
アメリカ兵によって持ち帰られたこれらの「戦利品」は、
熱帯の地域のあらゆる面で戦われた内戦の特別な様相を示しています。
南ベトナム
このバナーはベトナム共和国軍特殊部隊のもので、
記されているベトナム語の意味は
「ベトナム共和国特殊部隊は死するまで戦う」
というものです。
ベトナム共和国陸軍(ARVN)は、アメリカ、オーストラリア、韓国、
そして「山岳派」のアドバイスを受けて戦争に参加し、それゆえ
同盟国から多大なる技術支援を受けることになりました。
アメリカは南部の戦争遂行を支援するために洗練された装備と軍需品、
そして金銭と人員をふんだんに送りました。
しかし、南ベトナム政府は腐敗しており、混乱と国民の信頼を失うことになります。
アメリカやその同盟国によって戦争に多くが投入されたにも関わらず、
彼らは流れを変えることができませんでした。
クロスボウ
ベトナム戦争中、米軍特殊部隊と一緒に戦った中央高地の先住民、
「モンタニヤール」はこの狩猟用の伝統的な武器をベトコンに対し使用しました。
1966年1月18日発行 サイゴンポスト紙
サイゴンの主要な英字新聞の一つであるサイゴンポスト紙。
この日の見出しでは、サイゴンのトゥドゥック予備役軍学校および、
市内が標的になったベトコンからの攻撃を報じています。
この2年後の1968年は、北ベトナムと南ベトナム解放戦線が
南ベトナムに大攻勢をかける「テト攻勢」が行われます。
これによってベトナム戦争は流れが変わることになるのですが、
これはその2年前のテト休戦中であることに注意してください。
ちなみに「テト攻勢」の「テト」とは、ベトナム語で「節」のことで、
この場合は旧正月を意味するのだそうです。
テト攻勢はごぞんじのように、この一連の報道で路上の死刑がテレビで放映され、
リアルタイムの戦争の様子が世界中に衝撃を与え、戦争に疑問を唱える声が一気に高まり、
それを受けて反戦運動が激化して、以後、アメリカが脱ベトナム政策の
「名誉ある撤退」という方便を模索するようになったきっかけとされます。
続く。