ハインツ歴史センター特別展「ベトナム戦争」について
何回か語ってきましたが、この戦争展(つまりスミソニアン)が
ベトナム戦争をアメリカ発、アメリカ製のアメリカの戦争であったと位置づけているのが
この段階ではっきりとわかる内容になっていました。
さらにはこのコーナーで、武力戦争を仕掛けるために陰謀
(つまりトンキン湾事件)が行われたということも明言しています。
さて、そのベトナム戦争から手を引こうとしたケネディ大統領が暗殺され、
後を引き継いだのはケネディ政権の副大統領だったリンドン・ジョンソンでした。
前回最後で言ったように、ジョンソンは、保守派の共和党候補に対し、
いかにも民主党候補らしく「和平」を売りにして選挙戦を戦い、圧勝しました。
昨今アメリカのドラマなどを見ていると、戦争を引き起こすのは共和党である、
という決めつけのもとに、ひどい時には「共和党の豚」などという言葉を使って、
自称リベラルの登場人物が共和党支持者を罵るというシーンが出てきます。
なかには「グッドファイト」のように、トランプに投票した人物を異常扱いするなど、
どこからか指示されたのが露骨にわかってしまうものもあったりするわけですが、
これらは常に民主党側に立つエンターテイメント業界の意図的な印象操作です。
歴史を顧みても、第二次世界大戦以降戦争しなかった民主党大統領はカーターだけなのに、
メディア無理筋な印象操作をしているわけがわたしには全くわかりません。
ベトナム戦争から撤退しようとして暗殺されたという噂もあるケネディですが、
彼とて、戦争の経過が芳しくないのでそういう方向転換を模索したに過ぎません。
そもそもベトナムへの具体的な介入を決定し「グリーンベレーを送った」のはケネディです。
さて、今日はそのケネディの後任となったリンドン・ジョンソン大統領(LBJ)について、
ハインツ歴史センターの展示を中心にお話ししていきます。
■ トンキン湾事件 1964年8月「すべての必要な手順を実行するには・・・」
1964年8月2日、USS「マドックス」はトンキン湾において
北ベトナム軍の哨戒艇から魚雷を発射されたと報告しました。
写真は国防長官のロバートS.マクナマラで、国防総省での深夜の記者会見で
トンキン湾での北ベトナム哨戒艇による攻撃を説明しています。
マクナマラは、このとき、攻撃を「挑発的で意図的なもの」と呼びました。
USS「マドックス」
国民には知られていませんでしたが、「アレン・サムナー」型駆逐艦「マドックス」は、
南ベトナム軍と共同のコマンド部隊による北ベトナム襲撃任務と
並行して、盗聴任務をおこなっていました。
二日後、「マドックス」とUSS「ターナー・ジョイ」はさらなる攻撃を報告しました。
「マドックス」艦長は、大雑把なレーダーとソナーの読み取りだったとして
注意するようにと付け加えましたが、ジョンソン大統領と彼の最高顧問は
これを受けて即座に行動を起こしました。
彼らは議会に対し、二回の「意図的で挑発的な」攻撃があったと述べたのです。
(写真はその説明を行うマクナマラ長官)
ジョンソン大統領は、北ベトナムの海軍施設に対する空爆、北爆を命じました。
そしてまた、トンキン湾決議の可決を議会に諮りました。
それは彼に東南アジアにおける
「軍隊の使用を含む全ての必要な措置を講ずるための権限」
を与えることになりました。
法案は下院では全会一致(416対0)で可決されましたが、上院ではこれを
「歴史的過ち」(Historic mistake)と呼んだオレゴン州の
ウェイン・モース、アラスカ州のアーネスト・グリューニングの二人の上院議員だけが、
正式な戦争宣言を承認しませんでした。(88対2)
モース
ちなみにこのモースも共和党議員です。
■「ベトナムの状況は悪化している・・・」
ビエンホアやブンタウのような場所でのベトコンの勝利を宣伝するため、
ハノイはこの地図を作成しました。
1965年2月、ベトコンがプレイクにあるアメリカ空軍基地を攻撃した時、
ジョンソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官であるマクジョージ・バンディは
ベトナムにおり、大統領に次のように書きました。
「ベトナムの状態は悪化しています。
アメリカは新たな行動をとらないと、敗北は避けられないでしょう。
時間は稼げますが、それも好転には至らないと思われます」
その軍事報告は「悲惨」でした。
ベトコンは日中南ベトナムの田園地帯の50%を、夜は75%の部分を閉鎖していました。
ジョンソン大統領と顧問たちはベトコンとハノイへの圧力を強めることを決議しました。
彼らはアメリカへの信頼が危機に瀕していることに気づき始めました。
そして、また、和平への道を模索する国際的な試みが中立主義へと傾き、
南ベトナムにおける戦争遂行の決意が弱体化していくことを恐れたのです。
■ 「ベトコンの攻撃はエスカレートしていった」
64年10月〜65年2月
このB-57爆撃機は1964年10月、ベトコンの迫撃砲によって撃墜されたものです。
ビエンホアのアメリカ軍航空基地へのこの攻撃よって、アメリカ人5名、
そして2名の南ベトナム人が死亡し、多くの人々が負傷しました。
1964年までに、2万3千人ものアメリカ陸軍軍事顧問がベトナムに行きました。
この「軍事顧問」(ミリタリーアドバイザー)について説明しておくと、
外国に派遣され、派遣先の軍隊の組織編成や訓練などに協力する軍事専門家のことで、
現役の軍人や元軍人がそれにあたります。(のちに戦闘員となる)
どうして赤字のような言い方をするのかというと、ベトナム戦争において
当初アメリカは実戦部隊を派遣せず、
アメリカ陸軍特殊部隊群(グリーンベレー)で編成した「軍事顧問団」
を送るという形で、南ベトナム政府を支援していたからです。
(これを決定したのがケネディ大統領だったわけですね)
彼らARVN軍とアメリカの「軍事顧問」たちは決して来ない夜間攻撃を想定していました。
1964年12月下旬のビンジアでの戦いは、ベトナム戦争で最大となったベトコンの攻撃となり、
双方の戦闘による死者は数百人に上り、その中には5名の「軍事顧問」も含まれていました。
トラビス航空基地に到着した棺桶。
これらは1965年2月のプレイク米空軍基地に対して行われた
ベトコンの攻撃で戦死した「軍事顧問」たちのものです。
このとき、死者以外にも126名が負傷し、航空機が10機破壊されました。
■「我々は力を抑制する・・・が、結局それを使うだろう」
1965年3月2日、プレイク基地攻撃の報復をきっかけに、ジョンソン大統領は
本格的な北爆に踏み切ることになります。
ローリングサンダー作戦と名付けられたこの一連の作戦で、
アメリカ軍機は南ベトナムとラオスに向かい、爆弾とナパーム弾を投下し、
枯葉剤を降り注ぎました。
写真は、この作戦で海軍のスカイレイダー爆撃機が
空母「レンジャー」のカタパルトから出発するところです。
ウィリアム・ウェストモアランド将軍(LBJが選んだベトナム軍事支援司令官)は、
海兵隊の二個大隊を投入することで米軍の力を強化しようとしました。
3月8日、海兵隊はダナンに上陸します。
大統領とその側近たちは上陸侵攻こそが「アメリカの戦争」であると思っていました。
それでは次になにをすべきか。
彼らは南ベトナムをより「効果的な」パートナーにすべく激しく議論しました。
彼らは東南アジアにおける「倒れるドミノ」問題だけでなく、
そこで実際に戦争を行うリスクについて憂慮したのです。
そして最終的に彼らは国家と自分たちの行政の信頼性が危機に瀕していると認めました。
アメリカの関与をエスカレートさせなければ、そのどちらも失う
と考えたのです。
■ 反戦運動
何故我々はベトナムの人々を
燃やし
拷問し
殺しているのでしょうか?
フリーエレクションを防ぐために
抗議
この反民主主義戦争に対し
手紙を書こう
リンドン・B・ジョンソン大統領
ワシントンDCホワイトハウス宛
真実について知る
手紙を書こう
学生民主主義同盟
11フィフスアベニュー、ニューヨーク、NY10003
1960年代の後半になると、テレビ報道やニュース映画フィルムにより、
多くの国民が戦闘の場面をその日のうちに視聴することになり、
「戦争当事国」のアメリカ合衆国では、次第に反戦運動が高揚していきました。
学生民主主義同盟の学生は、1965年、このポスターの制作を公演しました。
ポスター文中の「無料の選挙」とは、反共産主義者だったゴ・ジン・ジエムが
同じ意図を持つアメリカのバックアップを受け、
ジュネーブ協定にに基づく南北統一総選挙を拒否したことをさします。
学生たちは、
「アメリカのベトナム政策は非民主的かつ不道徳的である」
として、これが反戦運動の盛り上がりに拍車をかけていきます。
1965年4月にワシントンDCで行われた学生デモにこのポスターが見えます。
ところでポスターの女の子の肩から背中にかけてをもう一度ご覧ください。
彼女にこのケロイドを負わせたのは、武器化されたゼリー状の燃料である
ナパーム弾であり、人々はこの酷い現実に耳目を吸い寄せられました。
戦争に反対した多くの人々にとって、この残虐な武器の使用は
第二次世界大戦とホロコースト以来立ち向かうべき絶対悪の象徴でした。
抗議の行進は、戦争に反対する情報を集め、国民にそれに同意するように促しました。
この行進は、1965年にテキサス大学のオースティンキャンパスで行われたものです。
学生民主化同盟(SDS)は全国のキャンパスで戦争についての議論と
討論を行う教員主催のティーチイングを支援しました。
これは1965年のミシガン大学での様子です。
SDSは参加型民主主義を促進し、社会主義を中心に
組織化するために設立されました。
■「 LBJは戦争にコミットした」
「何故若いアメリカ人たちが・・・しばしばそのような
遠く離れた場所で死ななければならないのでしょうか?」
President Lyndon Johnson Vietnam War, Jul 28 1965
1965年7月28日、ジョンソン大統領はテレビに出演し、国民に
「何故ベトナムなのか」というスピーチの中で、
南ベトナムを保護し、アジアの共産主義と戦うのは
米国の取るべき政策であると強調しました。
彼はこの日、海兵隊の他に陸軍もベトナムに送ると発表し、また
徴兵制を劇的に強化することを発表しています。
「わたしは本日、ベトナム航空機部隊と他の特定の部隊に、
戦闘力を早急に7万5千人から12万5千人に引き上げることを命令しました。
追加の部隊は、必要と要求に応じて派遣されることになります。
これにより、月間の徴兵人数は1万7千人から月3万5千人に引き上げられ、
さらに自主入隊キャンペーンを強化して戦闘力を強化する必要があります。
先週の閣議の結果、予備隊を使うことは当面必須ではないということになりました。
のちにその必要ができた場合には、その問題を慎重に検討し、
採用の前に十分な準備が整った時にのみ適切に通知を行います」
しかしジョンソン政権は、この後、戦場におけるアメリカ兵の士気の低下、国内外の反戦運動、
そしてテレビなどメディアによる戦争反対のキャンペーン報道に苦しむことになります。
続く。