スミソニアン博物館の第二次世界大戦の航空シリーズ、まずは展示機のひとつ、
スピットファイアと彼らが活躍したバトル・オブ・ブリテンについて取り上げました。
今日はまず、バトル・オブ・ブリテン時代のRAF(ロイヤルエアフォース)機を、
スミソニアンの展示写真から紹介します。
■ バトル・オブ・ブリテン時代のRAF航空機
アブロ ランカスター Abro Lancaster
イギリス空軍でも最も成功した重爆撃機、アブロランカスター。
4基のマーリンエンジンを搭載していました。
「ショートスターリング」「ハンドレイ・ページ・ハリファックス」とともに
対ドイツ夜間爆撃の主力となり文字通りの一翼を担いました。
1942年から1945年にかけてドイツの主要都市はことごとく破壊され、
爆撃によって数十万人もの市民が犠牲になることになりましたが、
防衛のため撃ち落とされた何千機もの搭乗員の命もまた失われることになりました。
ボールトンポール・ディフィアント Boulton Paul Defiant
ボールトンポール。
今までどこにも見たことがなかった軍用機の会社名です。
複座戦闘機で4門の後方砲塔を備えており、前方武器がありません。
前方を攻撃できない戦闘機などというものが存在していたのも初めて知りました。
いったいどんな効果を期待してこんな仕組みにしたのかと思いきや、
この奇妙なコンセプトは初戦闘となったダンケルクでのみ効果を発揮することになります。
ドイツ軍戦闘機はこのシェイプからこの機体を
ハリケーンと間違えて
ディフィアントの後方から近づき、後方銃にやられることになりました。
もちろん情報はすぐさま共有されますから、効果があったのはこのときだけで、
その後はルフトバッフェ戦闘機の敵ではありませんでした。
そのため、日中の作戦からは引退し、夜間戦闘機にジョブチェンジ。
この後方銃も、夜間の対爆撃機戦には当初のみ効果的だったとされます。
しかしながら、元々夜間用として開発されたのではないため、
本格的な夜間戦闘機が新しく投入されるようになると、引導を渡されて
標的曳機や救出用などの雑用に格下げされてしまいます。
difiantというのは、反語好きのイギリス空軍の趣味を反映して、
スピットファイア(癇癪持ちの女)を彷彿とさせる、
「反抗的な人」「従わない人」「喧嘩腰の人」
とろくでもないやつの意味なのですが、こちらはスピットファイアと違って
性能がアレで皮肉屋のRAFパイロットたちに嫌われてしまったため、
difiantから取った、
Daffy (馬鹿・うすのろ)
という愛称(愛はあまりなさそうだけど)で呼ばれていたそうです。
ん・・・?ダッフィ?
ダッフィって・・・どこかにいましたよね。
ほら、極東の某テーマパーク発祥の熊のぬいぐるみ、
あれ、確かスペルもドンピシャでDaffyだったような気が・・・。
今調べてみたら、英語のウィキもしれっと”Daffy”で記述があります。
「ダッフルバッグに入っていたからダッフィー」という、日本発祥ならではの
捻りのない名前の起源まで翻訳されているので驚きました。
英語圏の人たちは、この「馬鹿・うすのろグマ」という名前を当初どう受け止めたのか(笑)
さて、熊でないほうのダッフィ、ダンケルクでは確かに何も知らない敵機を落としましたが、
メッサーシュミットには通用せず、逆に落とされまくったため引退を余儀なくされました。
続くバトル・オブ・ブリテンにおける当時のRAF側の飛行機不足は切実で、
もうこの際、飛ぶものならなんでも投入したい、という切羽詰まった状態だったはずですが、
それでも出撃させてもらえなかったといえば、
ダッフィーがどう思われていたかわかるというものです。
デハビランド・モスキート de Havilland Mosquito
機体が木製のデハビランド・モスキートは、
1944年初頭まで、驚くべきことにRAF最速を誇る機体でした。
モスキートは爆撃機、戦闘爆撃機、写真偵察機として運用され、
その日中細密爆撃の能力には正確さにおいて定評があったということです。
空中迎撃レーダーを搭載しており、夜間飛来する敵爆撃機に対しては
夜間戦闘機としてパスファインダー=開拓者のような役割を果たしました。
(ダッフィーが用無しになったのはこのせいだと思われます)
高速性能は、ドイツのV-1「バズ・ボム」飛行爆弾の撃墜に対し効果を上げました。
元祖巡航ミサイル?V-1
■ 同時代のルフトバッフェ航空機
メッサーシュミットMesserschmitt Bf. 110C
ドイツ軍機の72分の1模型が展示されています。
メッサーシュミットなのでMeを付けて表記することもありますが、
スミソニアンではバイエルン航空機製造を意味するBfを冠しています。
「駆逐機」Zerstörer(ツェアシュテーラー)
とも呼ばれた重戦闘機で、適宜投入すれば実績をあげることができたのですが、
バトル・オブ・ブリテンでは所詮双発機であったこともあり、
スピットファイアにめちゃくちゃにやられてしまいました。
このとき、ドイツ空軍は237機のBf110を投入し、223機を失っています。
(逆にこの4機がなぜ生き残ったのか、わたしはそれが知りたい)
バトル・オブ・ブリテンでは重爆撃機の護衛どころか、敵が来ると
Bf.109に援護してもらわなければならなかったそうです。
「ルフトバッフェのダッフィー」的立場だったんですね。
ユンカース・シュトゥーカJunkers JU 87B
逆ガル翼の急降下爆撃機、シュトゥーカ。
急降下するときにサイレンのような音を出したことから、
「悪魔のサイレン」と敵に恐れられたので調子こいて
実際にサイレンをつけてみた機体もあったようです。
このサイレンのことを、ドイツ兵は「ジェリコのラッパ」
(ジェリコが吹いたラッパの音で城壁が落ちたという聖書の逸話)
と呼んでいたとか。
ブリッツではともかく、バトル・オブ・ブリテンでは、防弾性能の低さが裏目に出て
スピットファイアやハリケーンに多数が撃墜されてしまいました。
ユンカースJunkers JU 88A
ユンカース社が開発した軽爆撃機。
バトル・オブ・ブリテン以降も終戦まで主力爆撃機として運用されました。
ところで、我が大日本帝国海軍では、双発急降下爆撃の研究のために、
1940年末、このJu 88 A-4を輸入しています。
しかし、海軍工廠がおこなった試験飛行の際、木更津飛行場を離陸したっきり、
行方不明になってしまいました(-人-)
沈んだ機体は東京湾の海底の泥に埋まってしまったか、あるいは今でも
機体の一部は魚の住処になっているかもしれません。
■ メッサーシュミット109
ヴィリー・メッサーシュミットの有名な単座戦闘機Bf109シリーズは、
史上最も大量に生産された戦闘機のひとつです。
もう一度説明しておくと、試作機を製造したのがBfと略される
Bayerische Flugzeugwerke AG
で、1938年メッサーシュミット社に社名変更しましたが、
ドイツの公式出版物では「Bf109」と表記され続けていたものです。
何かとナチスの政治的な宣伝が目立った1936年のベルリンオリンピックですが、
なんと、この新型戦闘機の最初の公開デモンストレーションまでやらかしています。
デビュー後、Bf109の最初のモデルは1936年から39年のスペイン内戦の後期に参加しました。
その後、ポーランドとヨーロッパ西部におけるブリッツ、「電撃戦」キャンペーン、
そしてバトル・オブ・ブリテンでその名声を獲得しました。
その成功は、優れた機動性と正確で安定した操作性に尽きました。
つまり操縦が容易でしかも性能が発揮しやすいということです。
■ ライバル、スピットファイア
スピットファイアは、ドイツ空軍の戦闘機に本格的に挑戦した最初の航空機です。
スピットファイアの方がわずかに速く、操縦性も優れていましたが、
高所での性能はメッサーシュミットが勝りました。
つまり機体の性能は一長一短あってほぼ互角だったことになります。
そうなるとものをいうのはパイロットの技量ですが、この点においても
英独空軍の搭乗員には操縦技術の差はほとんどないとされていました。
しかし、1940年のバトル・オブ・ブリテンでは、地元で戦ったRAFが有利でした。
しかも、Bf109の燃料容量では、英国上空での戦闘時間は20分が限度であったため、
多くの109型パイロットが燃料を使い果たし、英仏海峡の氷の海に墜落しました。
Bf109は、1943年以降、ドイツ本土に襲来するアメリカ陸軍航空隊の
重爆撃機による昼間の空襲の迎撃に投入されましたが、
ことごとく激しい防御の十字砲火を受けることになりました。
インテイクの下の注意書きには、
注意して開閉してください
空冷はフードに内蔵されています
と書いてあります。
Bf109は戦争期間を通じて使用され続け、絶えずアップグレードされました。
このGー6モデルは、1942年に最初に戦闘機ユニットに納入され、
東部戦線で広範な任務に携わってきたものです。
このマーキングは、東地中海空域で活動した
7 staffel II./JG 27 第7飛行隊第3航空群第27戦闘航空団
の機体を再現しています。
連合国軍側にとってしばらくこの戦闘機は幻の存在でしたが、
1944年、フランスのアルザス地方のパイロット、ルネ・ダルボアが
109G-6に乗ってイタリアのアメリカ陸軍に亡命を求めたため、
初めて鹵獲することができたという経緯があります。
その後、陸軍航空隊(AAF)は評価のためにこの戦闘機をアメリカに輸送しました。
輸送の際には部隊のマーキングと迷彩をすべて剥がし、航空技術情報司令部は
この戦闘機にFE-496という在庫・追跡番号を付与しました。
戦後、空軍はメッサーシュミットをスミソニアン国立航空宇宙博物館に移管し、
その後展示のために修復が行われ、現在の姿になりました。
上階から見ると、109はまるでエンジンを抱えているように見えます。
Bf109の試作機の飛行は1935年、そのときには
ロールスロイス社ケストレル695馬力エンジンを搭載していましたが、
最終的にダイムラー・ベンツのDB600シリーズ倒立V型水冷エンジンに決定しました。
スミソニアンによる修復終了後のコクピット。
ルフトバッフェの7.スタッフェルIII./JG27。
当博物館がマーキングを再現した部隊です。
バトル・オブ・ブリテンの間、占領下のフランスに置かれた
ルフトバッフェの航空基地に並ぶI./JG3(第1航空群第3戦闘航空団)のBf109。
■ 東部戦線における空中戦
重武装で飛ぶソビエト空軍の
イリューシンII 2 シュトゥルモヴィーク(攻撃機)
ドイツとソ連の間の空中戦は西部戦線とは異なっていました。
アメリカとイギリスはドイツの高高度爆撃に焦点を合わせましたが、
東部の広大な地における陸上戦闘では、空中戦と言っても低高度で行われ、
軍の作戦を支援しました。
1941年6月、ドイツ空軍によるソビエト飛行場への壊滅的な襲撃が行われましたが、
赤軍空軍はゆっくりと回復し、結果的にソ連は1945年までに
世界最大の戦術空軍を建設することになるのです。
東部戦線では国土の広大なため、戦闘の集中する部分以外は
防空も大変手薄で、その結果ルフトバッフェのシュトゥーカなどは
西部よりこちらで長らく使用されていました。
しかし、ソ連はこの間にいくつかの一流の戦闘機や攻撃機を開発し、
ルフトバッフェは東に最高のユニットを配備することを余儀なくされました。
続く。