Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

海兵隊航空の誕生〜フライング・レザーネック航空博物館

$
0
0

疫病が流行る前、サンディエゴで軍事博物館巡りをしました。
その中の一つが、今回紹介する
Flying Leatherneck Aviation Museum
(フライング・レザーネック・アビエーション・ミュージアム)です。

一人でサンディエゴ入りしたわたしは、毎日のように
車を駆ってサンディエゴ近辺にある博物艦を訪ね、
写真を撮りまくりましたが、基本的にどの博物館も、
特に平日はほとんど人影もなく、ボランティアが運営していて
おそらく資金は募金に頼っているのだろうという寂れ具合が目につきました。
今回久しぶりにHPを見ると、COVID-19の流行が打撃となったのか、
博物館は一時的に公開を中止しているということでした。
「近日中に、航空機と展示品を新しい場所に移す計画について、
エキサイティングな発表がある予定です。
それまでの間、Flying Leatherneck Historiclal Foundationは、
学校のプログラムや訪問、海兵隊員の配偶者の表彰、
従軍した人々の経験の記録などを通じて、
USMC航空の遺産を保存し、共有する活動を続けています」
とあるわけですが、
「エキサイティングな発表」がいつなのかとても心配です。なぜなら、その直後、ごく最近のリリースによると、

2021年、米海兵隊はMCASミラマーの現在の場所にある
フライング・レザーネック航空博物館を永久に閉鎖すると発表しました。 
とか。

ただし、同博物館の支援者たちは、同博物館の永久閉鎖と
遺物・航空機の散逸を防ぐため、新しい場所への移転に取り組んでいる、
とも書かれています。

Flying Leatherneck Aviation Museumは、
米国海兵隊(USMC)の航空を専門とする世界で唯一の博物館であり、
米国海兵隊のパイロットが操縦した歴史的な航空機のコレクションとしては、
世界最大かつ最も充実したものです。

この博物館では、米国海兵隊の航空の歴史と、
アメリカを守るために果たした役割を紹介するため、
1989年にカリフォルニア州オレンジ郡のMCASエルトロに設立されました。
1999年に基地再編によりエルトロが閉鎖されると、
ボブ・ブッチャー少将とフランク・ラング少将が率いる
サンディエゴの退役海兵隊員のグループが中心となって、
航空機と遺物をMCASミラマーに移転させました。
そして、2021年3月には、MCASミラマーからの移転が発表されたのです。
新しい場所での博物館の再開に向けた最終的な計画は未定でありますが、
従業員やボランティアによるビンテージ航空機の維持・修復は
今も続いてはいるようです。


いずれにしても、こんなことになる前に精力的に訪問し、
写真を撮っておいてよかったと今は思っています。


まずナビ通りに到着したと思ったら、そこは民間空港に続くエントランスでした。
「セスナ」の看板がまず目につきます。
セスナが経営している飛行士養成学校があるようですね。
自家用飛行機の販売とメンテナンス、それから預かりもやっています。
まるで自動車学校並みに気軽に操縦が学べそうです。
ただ、アメリカだと、ライセンスを取るだけで最低でも三百万かかりますし、
機体の値段はそれこそピンキリですが、維持費が馬鹿にならないようです。
まあ、車みたいに家に置いておくわけにもいきませんしね。



海兵隊空軍基地の周りに、民間空港があるというのも、
いかに土地がふんだんに余っているかということですね。
空港のエプロンには、その年の10月に行われた
歴史的軍用機などのラモーナ航空ショーのポスターが貼ってありました。ラモーナはミラマーから少し内陸に入った街です。


フライング・レザーネック航空博物館は、カリフォルニア州サンディエゴの
ミラマー海兵隊航空基地の近くにある、アメリカ海兵隊の航空博物館です。
ミラマーという地名をわたしはいつのまにかよく知っている気がするのですが、
この訪問のとき、そこがミラマー基地の一角であるとはいえ、
あまりに広大でまったく空軍基地らしい気配がなかったので
不思議に思ったものです。
この博物館には、米国海兵隊の航空の歴史と遺産に関する展示品があります。
屋外展示では、31機の歴史的な航空機、軍用車両や装備品が展示されており、
屋内展示では、航空黎明期から現在に至るまでの写真、工芸品、
そしてアートワークが展示されています。
駐車場に車を停めると、金網の向こうはもう展示機です。

こういう博物館にありがちな佇まい。航空機などの展示が外にある場合、大抵その他の展示は
ちょっと大きめの家くらいのスペースに並んでいるものです。

案の定、入っていくと、ボランティアらしい男性がひとりだけ、
カウンターにいて入場料をそこで払いました。
【レザーネックとは】

まず入ったところに有名な(たぶん)海兵隊航空隊募集ポスターがあります。


海兵隊航空隊の黎明期にパイロットを募集するために制作したもので、
「航空 アメリカ海兵隊と一緒に飛翔しよう」
という文字、そして当時の海兵隊員が(ボーイスカウトみたい)
ワシの背中に乗っている意匠となっています。
複葉機の尾翼にはフランス国旗のような三色ペイントがあります。
これは当時海兵隊が装備していたアメリカの初期の複葉機、
チャンス・ヴォート のVE-7「ブルーバード」だと思われます。

その模型も展示されています。
ヴォートVE-7は1917年に初飛行を行った後、陸軍では練習機、
海軍では最初の戦闘機として採用されました。


正式に海兵隊に航空部隊が組織されたのは1917年です。
フライング・レザーネック航空博物館は、アメリカ海兵隊の飛行士が操縦した
歴史的な航空機の世界最大のコレクションを有し、
屋内には第一次世界大戦から今日までのアート、写真、軍服、
その他歴史的資料などが展示されています。
博物館には27,000平方フィートの修復用格納庫があります。





「フライング・レザーネック」はつまり「飛ぶ海兵隊員」です。
それでは、なぜ海兵隊員をレザーネックというか、
当ブログでは何度も説明してきましたが、ここに書いてあるのを
そのまま翻訳しておきます。
「ご存知でしたか?
レザーネックは海兵隊のニックネームです。
1798年から1872年まで、海兵隊員は皮で作られたネックをもつ
ユニフォームを着用していました。
3.5インチの硬い革は「ストック」と名付けられ、二つの役割を持ちました。
1)首、急所となる静脈の保護
2)行進の際、海兵隊員の首を真っ直ぐ立て、顎を高く保持させる

戦闘でこのストックの使用は、海賊のカットラス(長刀)から首を保護しました。
ジェファーソン大統領任期中起こった第一次バーバリー戦争では、
このアメリカの新しい戦闘部隊が
身代金のために貿易船を拿捕するイスラムの海賊たちと交戦しました」


「海兵隊航空の祖 カニンガム」


さあ、それでは展示品を順番に見ていきましょう。
イギリス軍の形のヘルメットにラウンデルがペイントされていますね。
これは第一次世界大戦時の海兵隊の装備です。

この錨とラウンデル、ワシを組み合わせた意匠が
第一次世界大戦時に海兵隊が使用した徽章でした。


海兵隊はご存知の通り海軍の軍艦に乗り込み警備を行うのが本来の任務ですが、
航空隊の発祥には一人の海兵隊員の存在がありました。
アルフレッド・オーステル・カニンガム中佐(最終)
(Alfred Austell Cunningham1882-1939)です。

カニンガム中尉(当時)
ヘルメットの横の説明です。


海兵隊航空団の黎明期
1912年、アルフレッド・A・カニンガム中尉が最初に飛行した海兵隊員になり、
1940年までに、少数精鋭の海兵隊員が軍用航空団の進歩に寄与しました。

海兵隊は、特に水陸両用任務を支援することに焦点を置いています。
1912年、数名の勇気ある男性と、ほんの少しの原始的な航空機から
出発した海兵隊航空団は、第二次世界大戦の頃には
戦闘任務を行える軍隊に成長したのです。
カニンガム中尉は、少尉時代、ポケットマネーで
民間の飛行士につき25ドル払って飛行機を借り、
自己流で飛行機を飛ばそうとしたほど空に憧れていました。

その熱心さが海兵隊内部で認められ、特別にアナポリス海軍兵学校の
航空訓練課程に出向を命じられるまでになったのです。
そして彼が海軍の航空課程で初めて単独飛行を行ったのが1912年5月22日。

彼の乗った飛行機が地面離れたその日が、
海兵隊航空隊の「誕生日」とされているのです。
余談ですが、それほど熱心だった割には、彼は婚約者から
「(危ないから)飛行機をやめないと結婚してあげない」
と脅かされて?パイロットをあっさり辞めてしまっています。

この婚約者(とカニンガム中尉のあきらめの良さ)には
現代の感覚では色々と意見も出そうですが、
とにかく当時の航空機というのは不安定で危険が多く、いつ事故が起こっても不思議ではなかったのです。
これから結婚しようとする人がこんな危ないものに乗っているなんて
とても承知できない、という婚約者の意見は無理もありませんでした。

カニンガムはその後海軍工廠などに勤務したものの、
結局パイオニアとして航空畑に呼び戻されました。
その後海兵隊航空部の司令官に任命され、
第一次世界大戦では海兵隊航空隊の指揮官として功績を挙げ、
飛行機に乗らずしてネイビークロスを受けました。

またカニンガムは駆逐艦DD-752にその名前を残しています。
【第一次世界大戦の海兵隊航空】
海兵隊の航空部門が初めて大きく発展したのは、
1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦したときです。
航空部隊が設立されてすぐさま戦争が始まったというわけですね。 航空部隊が最初に派遣されたのは1918年1月。
第1航空大隊が対Uボート戦のためにアゾレス諸島に派遣され、
その後第1海兵隊航空隊と正式に名称を与えられフランスに派遣されました。
ラルフ・タルボット少尉
この第一航空隊に所属していたときに、海兵隊飛行士として
史上初めて名誉勲章を受賞したのは、
ラルフ・タルボット(Ralph Talbot)少尉です。
これはつまり、海兵隊飛行士として最初に殉職した、という意味でもあります。
イエール大学在学中、同大学の砲兵訓練隊に参加していたタルボットは
航空に興味を持ち、飛行学校に入学しました。その後二等水兵の階級で海軍に入隊し、
マサチューセッツ工科大学で行われた地上訓練、
(イエールといいMITといい、この頃は一流大で軍事訓練が行われていたんですね)
フロリダでの飛行訓練を経て海軍航空士となります。
当時海兵隊は飛行士の採用に苦慮していたため、いきなり
タルボットを海兵隊予備役の少尉として引き抜きました。

そして第一次世界大戦が始まります。
1918年、ベルギーへの空襲の際、タルボット少尉は
9機の敵偵察隊に襲われ、1機を撃墜。
その6日後、12機と交戦して1機撃墜。
この頃の戦闘機は銃撃手でもある「オブザーバー」を同乗していましたが、
彼のオブザーバーが撃たれたため、単独で戦闘を続け、
もう1機を撃墜した後、フォッカーD.VII戦闘機から逃れるためにダイブし、
ドイツ軍の塹壕を50フィートの高さで横切り、着陸して
オブザーバーを医療関係者に引き渡しました。
このわずか18日後の1918年10月25日、フランスの基地で
テスト中のDH-4が離陸時に墜落し、タルボット少尉は死亡しました。
享年21歳。



彼の名誉勲章はこの一連の戦闘と名誉ある死に対して与えられたものです。
彼が操縦していたエアコ(Airco)DH.4は、前年の1917年に配備され、
アメリカ軍では陸軍航空隊が採用した機体です。
1919年には、これらの部隊から第1師団/第1飛行隊が編成され、
現在もVMA-231として存在しています。


「第二次大戦後の海兵隊航空」
第一次世界大戦が終わると、海兵隊の航空部門は1,020人が割り当てられ、
各地に海兵隊航空基地が設立されました。

クアンティコ、パリス・アイランド、そしてここサンディエゴです。
パリス・アイランド、というとわたしには途端にピンとくる歌があります。
ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」です。
We met as soul mates on Parris Island
俺達はパリス・アイランドでソウルメイトとして出会った

We left as inmates from an asylum
訓練基地から同士としてアメリカを後にした

Billy Joel - Goodnight Saigon (Nationals Park July 26, 2014)
パリス・アイランドはノースカロライナ州にあり、
歌詞2行目の「アサイラム」は保護施設という意味ですが、
海兵隊ブートキャンプのことだと考えられます。もう一つの海兵隊基地があるクアンティコは、ウェストバージニア州です。

その後海兵隊航空隊員は空と地上の戦術を駆使し、地上の海兵隊員をサポートすることを第一の任務としました。
アルフレッド・カニンガムのような海兵隊の先駆的な飛行士たちは、
「どのような任務においても、航空の唯一の存在価値は、
地上の部隊の任務遂行を支援するのに役立つということである」
と指摘していました。

また、海兵隊といえば、急降下爆撃を発明したことでも有名です。海兵隊が開発し始めたこの戦術は、他国空軍に先駆けて完成し、
海兵隊のパイロットの戦術的ドクトリンの一部となりました。




海兵隊が海軍の航空組織に正式に登場したのは、
1925年、海軍航空局長官ウィリアム・A・モフェット少将が、
3つの戦闘中隊を正式に認可する指令を出してからです。
20年代に入ると、海兵隊は空母に搭乗して訓練を行うようになりました。
このころ、太平洋艦隊の空母に2つの海兵隊偵察中隊が配属されたことが、
海兵隊航空の最大の進歩のひとつとなります。


そして、1933年、艦隊海兵隊が設立されました。
これにより海兵隊のドクトリンは、遠征任務よりも、戦争時に海軍基地を占領し、
水陸両用戦を支援することに重点が置かれるようになったのです。

その結果、1941年12月7日の真珠湾攻撃の日には、
海兵隊の航空部隊は13飛行中隊、230機で構成されていました。
【第二次世界大戦の海兵隊航空】

第二次大戦時の海兵隊航空士の装備です。
Pneumatic (空気入り)のライフベストには1945年3月の製造月日入り。製造したのは「シームレス・ラバー・カンパニー」だそうです。
革製の航空帽には、イヤフォンとマイクが内蔵されており、
パネルと電源のプラグが見えます。
皮の手袋とレイバンのティアドロップ型サングラスは今でも使えそう。
メタルのケースに収められたゴーグルレンズがプラスティック製で、
レンズにカーブがつけられているのでおそらくかなり後期のものでしょう。
ラッキーストライクは戦争中、正式にCレーションに入れられて、
軍隊に配られていました。
戦場における兵士の士気を高めるのにタバコは不可欠だったのです。

第二次世界大戦中、海兵隊の航空部門は急速かつ広範囲に拡大し、
 ピーク時には5つの航空団、31の航空機群、145の飛行中隊を擁しました。
海兵隊航空の決定的なポイントとなったのはガダルカナル作戦です。
海兵隊の任務は水陸両用作戦における遠征用飛行場の迅速な獲得ですが、
太平洋で海兵隊航空は当初、艦隊海兵隊を支援するという
最初の任務を達成することができませんでした。

戦争が始まってから2年間、航空隊はそのほとんどの時間を、
敵による攻撃から艦隊や陸上施設を守ることに費やしていたのです。


タラワの戦いの後、海兵隊航空隊の中には
海軍機による地上部隊への航空支援に不満を持つものがでました。
「直接航空支援の原理を徹底的に学んだ海兵隊の飛行士が仕事をすべきだ」

こういった意見が出てからは、海兵隊航空隊による
海兵隊地上部隊への初めての本格的な近接航空支援が行われ、ブ
ーゲンビル作戦とフィリピン奪還作戦では、
地上で戦う海兵隊と航空支援を調整する航空連絡隊が設立され、
沖縄戦では、上陸部隊航空支援管制ユニットという形で
航空指揮統制が確立されたのです。



戦地で連絡を取る携帯電話(一応そう言いますね)は、
ちょっとやそっとでは破れなさそうなキャンバスのバッグ入り。
受話器が金正恩のヘアスタイルと同じです。


バックパックとヘルメットを備えた「シェルターパック」。
このセットに含まれる「シェルター・ハーフリンクル」は、
一時的にシェルターになり、避難の際偽装できるように設計されたテントです。
二枚のキャンバスとスミラー素材がスナップ、ストラップ、
ボタンによって取り付けられていて、大きな面を形成し、
隠れるのにちょうどいい大きさとなっています。
この装備は、ナバホ族の暗号スペシャリスト、
「ナバホコードトーカー」だった兵士が所有し、使用していました。


続く。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>