横須賀の米海軍基地ツァーシリーズです。
パーキング棟の前にあったやたら立派な植え込み文字。
Ship
Rpair
Facility
アメリカ海軍の船舶補修施設のことです。
ドックを使用するような団体がこの辺りに集中してあるということですね。
「艦隊映画館」。
あまりにも寂れた雰囲気なのでもう営業していないかと思いました。
よく見たら映画のポスターがあるので、おそらく週末だけやっているのだと思われます。
手前の
SECOND HAND ROSE
というのは、
バーブラ・ストライサンド等も歌っているアメリカのポピュラーソングの題名で、
内容は、
家がセカンド・ハンド(中古ショップ)をやっていて、
小さい頃から服は勿論、靴も、パジャマでさえも違うイニシャルが入っているものを
着せられ、あだ名が「セカンドハンド・ローズ」になってしまった女の子。
指輪さえも中古で、結婚した相手はご丁寧にも再婚だった。
たまにめかしこんだつもりでリッツに行けば、「わたしのお古を着ているわ」と
他の女の子に指差して言われてしまう・・・。
という悲惨なものなのですが、この「セカンドハンド・ローズ」
は時々アメリカのリサイクルショップの名前になっています。
ここのも間違いなく、米海軍基地内のリサイクル品を扱っているお店でしょう。
NAVSUPとは
Naval
Supply
Systems
Command
つまり海軍補給部隊。
補給科というのは地味な部署に思われがちですが、
実は補給というのは戦線に取ってまさに命綱であるわけで、
彼らもその使命に誇りを持っています。
その気概がよく表れているかっこいいNAVSUPのHP。
このページのウェルカム・ビデオで彼らのかっこよさを観て下さい。
消防車がサイレンを鳴らして行くのに遭遇しました。
消防車の仕様も日本のとは全く違います。
消防士もアメリカ人なのでしょうか。
車の交通に関しては、混乱を避けるため基地内でも左通行です。
おお、見慣れたアメリカの郵便システム、USPSのポストが!
オリエンタル、つまり日本やもしかしたら中国の製品のバザールがありますよと。
キモノや和風の家具などを日本在住中に買い求め、
本国にもって帰るアメリカ人のための催し?
このバナーにUSOとありますが、
United
Service
Organizations
つまり、アメリカ軍軍内部向けサービス機関のことです。
一時、息子がDJ風に
「ユー・エス・オー、USO!」
とか
「エム・アイ・エス・ティー、MISO!」
となんでもスペルをいうのが流行っていたことがあり(というか今でも言う)
これを見るとどうしても「U・S・O、ウソ!」と読んでしまいます。
ところで、本日冒頭画像は、皆さんも薄々お気づきのように、
チェスター・ウィリアム・ニミッツ(1985〜1966)海軍元帥の若き日の姿です。
というのも、この基地内でこんな住所を見ましたもので。
いざ来いニミッツ・マッカーサー
出ないと地獄に逆落とし
なんていう面白い?歌(比島決戦の歌・西条八十作詞)が戦時中あったのをご存知ですか?
映画「日輪の遺産」では、この曲を「醜い歌」と言いたいばかりに、
全編に渡って8回くらい登場人物に歌わせ、げんなりしたものですが、
寄り道ついでにこの歌詞を挙げておきます。
決戦輝く亜細亜の曙
命惜しまぬ若桜
今咲き競うフィリピン
いざ来いニミッツマッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし
陸には猛虎の山下将軍
海に鉄血大川内
見よ頼もしの必殺陣
いざ来いニミッツマッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし
正義の雷世界を震わせ
特攻隊の往くところ
我等一億共に往く
いざ来いニミッツマッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし
御陵威に栄ゆる兄弟十億
興亡分かつこの一戦
ああ血煙のフィリピン
いざ来いニミッツマッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし
ニミッツとマッカーサー、この歌で並べられているのは「米海軍」「米陸軍」
と言いたかったからだろうと思われます。
実はこの二人、ミッドウェイ海戦のあと、太平洋に置ける指揮権を巡って
いずれもその全権を主張してかなり仲が悪かったんですよ。
その仲の悪さは子供じみてすらいて、マッカーサーはニミッツを「ニーミッツ」と呼び
(ドイツ系の名前であることを強調する発音。アメリカ人がよくする『民族差別』)
ニミッツはニミッツでマッカーサーの写真を執務室に置き、
「こいつの顔を見て謙虚になるべきだといつも自分を戒めているのだ」
などと公言していたそうです。
日本もそうですし、陸海軍の仲が悪いのは世界的傾向ですが、
米陸海軍の場合はこの二人の不仲も多いに関係ある、とわたしは思っております。
マッカーサーについては、日本人の一人として正直わたしは決して好意的ではいられませんが、
現在トミー・リー・ジョーンズがマ元帥を演じた「EMPEROR」(終戦のエンペラー)を観ているので、
この映画の出来によっては、またマッカーサー個人について見直す点もあるかもしれません。
しかしその人物功績に毀誉褒貶あるマッカーサーはさておき、ニミッツは、
戦後、特に日本人にとってはどちらかというとその名は好意的に取られています。
その理由の一つは、彼が 若き日に東郷平八郎に憧れたため、
戦後、戦艦三笠の保存や、東郷神社の存続に尽力した、ということにあるでしょう。
アナポリス時代のニミッツは、かなりのハンサム。
この制服を見てあっと思ったのですが、海軍兵学校の制服と
当時のアナポリスの制服はまったく上半身は同じだったんですね。
海軍は英海軍をお手本にしたことから、全てが英国からの輸入だと思っていましたが、
錨のマークの襟章とか、テープ式の前立てとか、
おそらくネイビーカラーであることも考えると、まさに瓜二つです。
冒頭写真は海兵隊時代の若きニミッツですが、任官後からもうご覧の通り。
のちに奥さんになる女性は彼を一目見て
「こんなハンサムな人は見たことがない」
と恋に落ちてしまったとか。
しかも愛妻家で、子供たちは喧嘩をしている夫婦を一度も見たことがなかったそうです。
わたしがニミッツという軍人に対し、イメージ的に好意を持ってしまうのは、
一体何故だろう、と今回改めて考えてみたのですが、
まずやはり前述の三笠に対する尽力の件でしょう。
日本海海戦にした日本は、戦勝祝賀会を行ったのですが、そのときたまたま、
少尉候補生であったニミッツが乗り組んだ「オハイオ」が横須賀に寄港していました。
その祝賀会に他の候補生とともに招待されて参加したニミッツは、
東郷平八郎大将を他の候補生と一緒に胴上げ
し、その後10分ほど当たり障りのない会話を楽しみました。
ちょうどそのころ、士官候補生のニミッツです。
東郷は若い頃イギリスに留学していましたから、その英語は流暢で、
アメリカ人が密かにコンプレックスをいだくところの「キングスイングリッシュ」。
おそらくですが、彼はこのことにも非常に感銘を受けたのだろうと思われます。
(たった10分の会談ですから、ファンになる理由なんて第一印象だけでしょう)
占領後の(他ならぬアメリカのせいですが)三笠の荒廃を知ったニミッツはこれに激怒しました。
自分の権限で海兵隊を三笠の歩哨に立たせ、それ以上の「東郷元帥の軍艦」への陵辱を防ぎ、
その後「文芸春秋」に「三笠とわたし」という一文を寄稿し、
その原稿料を、まず全額三笠の保存のために寄付することを表明します。
ポケットマネーを出しただけでなく、米海軍を動かして廃艦を寄付させて日本に運び、
そのスクラップ代を復興費の一部(それだけで2割くらいの予算になった)に充てさせることもしています。
「いざ来いニミッツ・マッカーサー」
という歌でしかその名前を知らなかった日本人が、こんな米軍人、
いや、アメリカ人もいるということを知ったきっかけが、この「三笠復興運動」だったのです。
「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」
という、三笠復興記念に三笠公園に植樹された月桂樹の木に
添えられた文言は、おそらく本人の偽りのない言葉だったのでしょう。
そして、空襲で消失していた原宿の東郷神社の再建にも、晩年のニミッツは
東郷を偲ぶ文章を上梓し、印税をアメリカ海軍の名で寄付しているのです。
そういった断片的な情報が、詳しくは知らないままに、ニミッツ元帥への
漠然とした好意となっていたわけですが、最近、
パラオのことを調べていてここでもその名前を発見することになりました。
スティーブン・スピルバーグ監督で、トム・ハンクスが製作をし、大変話題となった
アメリカのテレビドラマ「ザ・パシフィック」が、12月31日に動画配信サイト
「HULU」で観られなくなってしまうというので、今集中的に観ています。
ご存知かもしれませんがこのドラマは、米海兵隊の太平洋地域での戦闘つまり
日本軍と戦っていた
アメリカ兵士(下士官)たちの、リアルな戦闘を描いたもので、トム・ハンクスは
ここで、かつて主演した「プライベート・ライアン」をさらに進化させた
「戦場のリアリズム」を表現したかったのかと思われます。
つまり、米軍兵士たちをヒロイックに描き、日本兵を醜悪に描くことで、アメリカ人の
贖罪意識から目を背けさせるような従来の戦争映画とは違い、
戦場での異常心理から残虐行為を行うアメリカ兵の真実もきちんと描いています。
もしHULUを申し込んでおられる方は、もうすぐ配信が切れるので(HULUは月一定レート)
ぜひ観てみて下さい。
さて、その「ザ・パシフィック」ですが、今ちょうどわたしが差し掛かったのが
「ペリリュー」。
大東亜戦争末期、日本軍はこのペリリュー島を、米軍のフィリピン侵攻の防御線として、
そしてグアム・サイパンの後方支援基地として死守していましたが、
米海軍は
「 マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖し、
アメリカ陸軍航空隊による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」
という計画を立てており、これを立案したのがニミッツ提督でした。
両軍は1944年9月15日から二ヶ月に亘って激しい戦いを行い、
兵力にも物量でも劣る日本軍は最終的に全滅します。
最後の万歳突撃前に、守備軍は玉砕を伝える
「サクラサクラ」
という電文を打電しました。
上陸前、米軍の師団長は
「このような小さな島であるから2・3日でかたはつくだろう」
と豪語したのですが、実際は日本軍の激しい抵抗に戦いは長引き、
アメリカ軍も多量の戦死、戦傷者、そして精神に異常をきたした者だけでも
8千人に上ると言う甚大な被害が出ました。
(『ザ・パシフィック』でその辺りをどう描くかが楽しみです)
このときに、ペリリューの島民に被害が殆どなかったことから、
島の男たちが日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時
「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に懇願したところ
「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂された。
今までの好意は偽物だったのかと落胆しながら彼らは島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。
若者たちその瞬間、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。
という美談?が生まれました。
これが事実であったのかどうか、今となっては確かめるべくもありません。
しかし、少なくとも戦後もペリリュー(今のパラオ共和国)の人々が、
日本という国を敬愛してくれているらしいことは、1982年になって、
ここに「ペリリュー神社」を日本が創建したとき、
パラオの人々がそれに多大な協力を惜しまなかったことにも表れています。
ペリリューの戦いで命を失った1万695人の日本軍将兵の魂を慰める
(おそらく日本人のことであるから、そこには米軍の戦死者も祀っているにちがいありません)
ために創建されたこの神社の境内には、このような文言の碑があります。
"Tourists from every country who visit this island
should be told how courageous and patriotic were
the Japanese soldiers who all died defending this island.
Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz"
この文章の出所は先ほどの島民の語る美談のように、長らく不明でしたが、
もと陸軍中佐で、戦後空幕長になった浦茂氏が、アナポリスを訪れ、
教官から「ニミッツの詩である」として、全く同じ文章を提示された、という話もあります。
いずれにせよ、これに類する資料は米国の公文書にあるわけではなく、
米国の公刊戦史に、ニミッツ提督の言葉としてこんな文章があるそうです
“ペリリュー島攻撃は、米国の歴史に於ける他の如何なる上陸作戦にも見られない、
最高の損害比率(約四〇パーセント)を出した。
既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が、死傷者併せて
一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、
今もって大きな疑問である。
━元太平洋方面最高指揮官C・Wニミッツ著『太平洋海戦史』より
○一行空白○
旅人よ、日本の国を過ぐることあらば伝えよかし、
ペリリュー島日本守備隊は、祖国日本の為に全員忠実に戦死せりと”