サンディエゴのミラマー海兵隊行軍基地の
反対側に併設されているフライング・レザーネック航空博物館、あっという間に室内展示の紹介を終わりました。
というわけで、むしろこの博物館のメインであるところの
航空機展示をご紹介していきます。
今日は第二次世界大戦時の装備を取り上げますが、
冒頭写真のワイルドキャットは、すでに
海兵隊エース、ジョー・フォスの項でご紹介しています。
ところで、この日撮った写真にこんなのがありました。
これから新しく整備した航空機を置く場所なんだな、と思ったら、
HPにこんな写真を見つけました。
ワイルドキャットが手前にいる・・・?
屋根の下にいるのは風防の形からアベンジャーじゃないかと思うのですが。
そこであらためてHPの所有機を見たところ、
わたしがこの日現地で遭遇した航空機は、FLMの所蔵の一部で、
結構な数のウォーバードが修復中であるか
あるいは倉庫入りしているのではないかというのがわかりました。
■ ダグラスSBD−1ドーントレス
たとえばこのSBD-1ドーントレスもそうです。
このSBD-1は、1940年海兵隊に装備され、MCASミラマーにある
キャンプ・カーニーのVMSB-142に配備され、その後
イリノイ州の「五大湖海軍」にある空母適格訓練部隊(CQTU)で
USS「ウルヴァリン」 Wolverineに着陸する訓練に使われていたものです。
1942年11月23日、この機体は訓練中に墜落し、
ミシガン湖の底に沈んでしまいました。
ちなみにこの訓練基地で
ミシガン湖の藻屑になったドーントレスは全部で38機だった
ということですが、これはそのうちの1機というわけです。
湖の底で52年間魚のすみかになっていましたが、1994年引き揚げられ、
いくつかの博物館を経て、MCASミラマーのFLAMに到着しました。
この時点ではすでに大規模な修復が行われていたようです。
そして、HPを見ると、写真に写っている修復ボランティア、
ボブ・クラムジー氏が、2012年からあらためて修復を手掛けています。
もちろん代替の部品はありませんから、一から手作り。
垂直安定板、後部銃座、ドアも設計図を見て作ったそうです。
クラムジー(こんな人がClumsy=不器用のはずはありません。 Cramsieです)
氏はもともとノースロップ・グラマンの耐空システムエンジニアだとか。
そして、「修復の完成までにあと3年から5年はかかるだろう」
とおっしゃっているようですが、はて。
肝心のFLAMそのものがパンデミックのため休館しており、
再開の目処は立っていない、と書かれたっきりなのです。
ドーントレスの修復は中断されているのではないかとか、
修復のための費用も滞っているのではないかと懸念されます。
■ノースアメリカン PBJ-IJ (B-25 J)
ミッチェル(MITCHELL)
見なかったといえば、この、唯一人名のついた軍用機、
ミッチェルも、わたしが観に行ったときにはヤードにその姿はありませんでした。
このB-25J-30-NCミッチェルは、1945年6月の終戦直前に調達され、
カリフォルニア州サクラメントの陸軍航空訓練学校で使われていました。
ミッチェルというくらいなので元々は陸軍機ですが、
戦後はおそらくミッチェル本人の意思を尊重してか、空軍に配備され、
その後はいろんなオーナーを転々とし、エアタンカーや気象調査など様々な仕事に従事しました。
引退してから海兵隊が博物館展示のために引き取り、
それからここに貸し出されています。
これも今一体どこにあるのかすらHPには記載されていません。
ピッツバーグを流れる川に墜落し、底に沈んで2度と見つからなかった
B-25の話を思い出してしまった・・・。
モノンガヒラ川に飲み込まれたB-25ミッチェル
■ジェネラル・モーターズ TBM-3E Avenger
復讐者という意味を持つ「アベンジャー」はGM製とグラマン製があります。
グラマン製はTBF、ゼネラルモーターズ製はTBMと呼称していました。
アメリカ海軍および海兵隊のために開発された魚雷爆撃機で、
1942年に就役し、直後のミッドウェー海戦でデビューを飾りました。
先に製造したのはグラマン社でしたが、同社は
F6Fヘルキャット戦闘機を生産することが決まったため、
アベンジャーの生産を徐々に縮小してくことになったという事情です。
その後、ゼネラルモーターズ社のイースタン・エアクラフト部門が
生産を引き継いだので、二社バージョンがあるというわけです。
ここに展示されているのは、後期のGM製TBMとなります。
プロペラには「ハミルトン・スタンダード」のマーク入り。
ハミルトン・スタンダードは(現在はCollins Aerospace の一部)、
世界最大の航空機プロペラメーカーでした。
「ジョー・フォスコーナー」でお話しした、フォスがパイロットに憧れる
そのきっかけとなったリンドバーグの大西洋横断機、
「スピリット・オブ・セントルイス」に、同社のプロペラが使用されています。
1930年代初頭には可変ピッチプロペラ、
1950年代に開発されたジェットエンジンの燃料制御。
1968年には航空機の客室圧力を制御するための自動電子システム、
ジェットエンジンのフルオーソリティデジタル電子制御(FADEC )、
その技術は1969年のアポロ11号月面着陸に遺憾なく発揮されました。
現在は世界のほとんどの航空機メーカーに、航空宇宙コンポーネントとシステムを提供し続けています。
1944年半ばから始まったTBM-3は、パワープラントがパワーアップし、
ドロップタンクやロケット弾用の翼のハードポイントが設けられました。
アベンジャーは海兵隊の多くの飛行隊によって、
陸上はもちろんその多くが空母で運用されました。
海兵隊飛行隊で最初に戦闘に参加したアベンジャー部隊はVMSB-131で、
TBF-1を搭載してヘンダーソンフィールドに到着し、
日本軍に対して最後の大攻勢をかけるのに間に合いました。
マリーン・アベンジャーズは、1942年11月中旬のガダルカナルの海戦で
初めて大きな成果を上げることになります。
この時点でVMSB-131は、「エンタープライズ」を空母とする
VT-10(雷撃隊)とVT-8として活動していました。
11月13日、3つの飛行隊は日本の戦艦「比叡」への一連の攻撃に参加し、
発射された26本の魚雷のうち10本を命中させました。
比叡
このとき、第10雷撃隊のTBFアベンジャー雷撃機9機(隊長アル・コフィン大尉)は、左舷、右舷、艦尾に魚雷を計3本命させ戦艦を沈めたと主張しています。
また、翌日、VT-10とVMSB-131の航空機は、
重巡洋艦「衣笠」を沈めています。
衣笠
右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本が命中し、傾斜した衣笠に
SBD2機が急降下爆撃を行い、爆発炎上させます。
その後空母「エンタープライズ」のSBD16機が
とどめを刺した形になり、沈没しました。
しかし、通常海兵隊のアベンジャーが魚雷攻撃を行う例は少なく、
ほとんどが海兵隊を支援するための爆弾やロケット弾、
あるいは対潜哨戒のための爆雷ややロケット弾を使用しました。
VMSB-131がガダルカナルでデビューしてから1年後、
アベンジャー隊はブーゲンビルでの戦闘に参加し、
日本の強力な基地を無力化する働きをしました。
1944年7月、海兵隊アベンジャー部隊はマリアナ諸島での戦闘に参加し、
グアムとテニアンの航空支援、ついで194ペリリュー島への侵攻に参加。
1945年3月からはテニアンから出撃し硫黄島キャンペーンを行いました。
沖縄戦に参加したのは
USS「ブロック・アイランド」、USS「ギルバート・アイランド」、
USS「ヴェッラ・ガルフ」、USS 「ケープ・グロセスター」
4隻の空母搭載のアベンジャー部隊です。
海兵隊は朝鮮戦争でもアベンジャーを運用していました。
ここに展示してあるTBM-3E(BuNo.53726)は、
戦後の1946年6、NASサンディエゴで予備機となっていましたが、
最終的に海軍航空予備訓練部隊(NARTU)に配属されました。
1962年4月に除隊するまでいろんなところをぐるぐる回っていたようですが、
その後は民間が買い取ってエアタンカーになっていました。
その後は農薬の空中散布機を経て、1988年に海兵隊博物館に買い取られ、
1999年には現在のMCAS ミラマーに落ち着いたのです。
展示機は1945年7月に
護衛空母USS 「ケープ・グロセスター」Cape Gloucester (CVE-109)
に搭載され、沖縄戦に参加したVMBT-132のカラーで塗装されています。
■ノースアメリカン SNJ-5 テキサン Texan
昔の戦争映画には必ずと言っていいほど、
この不細工なコクピットの零戦が登場したものです。
日の丸をつけた敵さん、じゃなくてテキサンを見るたびに、
「いうほど似てるか・・・?」
と思わず心の中で突っ込んでしまうわけですが、似ているにていない以前に、たくさん製造され、
しかも練習機で機体が操縦しやすかったというのも
零戦を演じさせられた理由だったかもしれません。
あ、それから値段が滅法安く、手に入れやすかったそうです。
1935年4月1日に就航したT-6テキサン(T-6 Texan)は、
単発の高等練習機で、各国のパイロットの訓練に使用されました。
そのため、「パイロットメーカー」という名前で呼ばれることもあります。
国や機種によって様々な呼称がありますが、アメリカ以外では
「ハーバード」という呼称が最も一般的です。
USAACとUSAAFのモデルは「SNJ」の名称で呼ばれており、
アメリカ海軍のパイロットはこの名称でこの飛行機を多用しています。
その代表的なものがSNJ-4、SNJ-5、SNJ-6です。
アメリカは1950年代末までに現役から引退させましたが、
それはどこへいったかというと、我が日本だったりします。
自衛隊では空自に167機、海自に48機と1955年から供与され、
T-6という名前で呼んでいました。
すでに時代はジェット機へと移行しつつあったのに、
テキサンなんかもらってどうするん?という気もしますが、お付き合いというか、
大人の事情があったのかもしれませんしなかったかもしれません。
そのせいなのかそのせいでないのか、さすが物持ちのいい日本国自衛隊も、
数年で練習機をT-1と交代させるということになっています。
そもそも、
T-33とT-34の間にどうして中間練習機としていきなりT-6が挟まるのか?
と考えた人もいたかもしれませんしいなかったかもしれません。
航空装備ではありませんが、こんなものもありました。
説明が全くないのですが、だいたい第二次世界大戦ごろのものだと
勝手に思い込んで載せておきます。
対空マウントをしたブローニング的な?
FLAMスタッフ渾身の手作り人形搭載。
こちらはデュアルです。
対空砲士の顔、アップにしちゃう。
まつ毛とか眉毛は一本ずつ懇切丁寧に描き込まれており、
手間暇だけは膨大にかかっているのはよくわかった。
サンディエゴの夏は日差しが強く、外の展示を見て歩くのは
なかなか大変で、こういう装備になるといきなり省エネモードになり、
できるだけ最小限のシャッターで済まそうとするわたしですが、
いくらなんでも砲身くらいちゃんと撮っておけばよかったと思いました。
その後いろいろあって、もう2度とここで展示を見られられなくなった今、
一層その思いは強くなりますが、もう仕方ありません。(投げやり)
続く。