サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライング・レザーネック。
この名称はどこから来ているかというと、どうも
この映画ではないかという元ネタを見つけました。
Clip HD | Flying Leathernecks | Warner Archive
相変わらず日本軍の軍装がいい加減な気がしますが、
第二次大戦時のガダルカナルにおける海兵隊航空隊の活躍を
例によってジョン・ウェイン主演で描いた戦争ものです。
今ちょっと資料を見たところ、ウェインが演じたカービー少佐は
海兵隊エースで先日当ブログでもちょっとだけ紹介した、
ジョン・スミス少佐がモデルであることがわかりました。
この人ですね
DVDも手に入れたので、またそのうちご紹介するかもしれません。
■名誉賞を受賞された海兵隊パイロット(ただし三人)
さて、それでは今日は、FLAMの室内展示
残りを全部、順不同で紹介していきます。
前にも書きましたが、昔ここは軍用犬のコーナーを増設した時、
かなり元の展示を減らしているので、
室内展示はもう今日で最後になります。
しかし、こういうのは減らすわけにいきません。
海兵隊員の顕彰コーナー。
全部の写真を撮らなかったので写っている三人だけ紹介します。
左から;
ケネス・ウォルシュ中佐 Kenneth A. Walsh(1916-1998)
海兵隊初のヴォートF4Uコルセア飛行隊に所属、
ガダルカナルを戦場として日本軍を相手に航空戦を行い、
航空隊最初のエースになりました。
はて、海兵隊最初のエースってジョー・フォスじゃなかったっけ。
同じ博物館のフォスコーナーではそういうことになってるんですが。
勲章授与式でFDRと握手するウォルシュ。
左の海軍軍人はアーネスト・キング提督です。
こういうときは奥さんが必ず同席しますが、ウォルシュ夫人の帽子、
おそらくこのために新しく新調したんだろうなー、と
そんなことを考えてしまうわたし。
ジェームズ・スウェット大佐James Elms Swett(1920 - 2009)
VMF-221の師団飛行隊長であり、ガダルカナルのエース。
合計15.5機の敵機を撃墜し、2つの殊勲飛行十字章と5つの航空勲章を獲得。
前にも書きましたが、アメリカは名誉賞を取ったエースは
2度と激戦地に出さないという不文律を持っているので、
朝鮮戦争が始まった時、彼のコルセア飛行隊は現地に派遣されたのに、
彼だけが残され、すぐに現役引退をしています。
ヘンリー”ハマリン・ハンク”エルロッド
Henry Talmage "Hammerin' Hank" Elrod(1905 – 1941)
海兵隊入隊前はイエール大とジョージア大にいて学生パイロットでした。
ウェーキ島で駆逐艦「如月」を撃沈したパイロットとして有名です。
1941年12月8日、エルロッド大尉は、VMF-211の航空機12機を率いて
ウェーク島で戦闘を行いました。
このとき、戦闘機から小口径爆弾を駆逐艦「如月」の船尾に投下して
水深計(と英語ウィキには書いてある)を爆発させ、撃沈させました。
航空機の爆弾一発で駆逐艦が撃沈したのは世界初だそうです。
このときの「如月」は、
「魚雷(資料によっては爆雷)が誘爆、
艦橋と二番煙突の半分とマストを吹き飛ばし、しばらくすると
艦は二つ折れになって5時42分に爆沈した。
艦橋が吹き飛んだ『如月』はしばらく異様な姿で航行したあと、
姿が見えなくなったという」
という最期を遂げました。
米軍側の資料によるとこの時のアメリカ軍の死者は1名、
それがエルロッド大尉だったようです。
エルロッド大尉はその後ウェーク島に帰投しましたが、
重傷を負っており死亡。
一連の英雄的行動に対して名誉勲章が授与されました。
ところで以前、当ブログでは
「ウェーク島に戻ったワイルドキャットのカウル」
というタイトルで、スミソニアン博物館に展示するワイルドキャットに
ウェーク島に残されていたカウルを取りよせて装着しようとしたところ、
敵の攻撃の銃痕が生々しく残っていたので、
どうしてもそれを修復することができず、結果として
カウルを取り付けるのをあきらめた、という話をしたことがあります。
そのときウェーク島の記念館にあったカウルは、
エルロッド大尉のワイルドキャットのものだったことがわかっています。
エルロッド大尉の乗っていたワイルドキャット
このワイルドキャットのカウリング、ノーズリング、
テールフック、プロペラだけが残されてウェーク島にあったわけですが、
いつのまにかカウリングはここにあるものが世界唯一のものになりました。
スミソニアン博物館はいったんこれを展示機である
ワイルドキャットに装着して、銃痕のあるまま展示していました。
2008年の時点ではまだそのままだったようですが、
その後カウリングはウェーク島に戻されることになりました。
スミソニアンではカウルなしのノーズのワイルドキャットを展示しています。
■ベトナム戦争関連展示
近代的な雰囲気ですが、ベトナム戦争時代のカモフラージュ柄
(タイガーストライプ柄という)のフライトスーツとベストです。
このタイプのカモフラージュパターンをその後見ないのは、
これがベトナムの密なジャングルのためにデザインされた柄だからです。
「カモペディア」というHPによると、「タイガーストライプ」とは、
1960年代に東南アジア(特にベトナム共和国)で開発されたもので、
この名称は、迷彩服の細い筆で描かれたデザインが、
とらの模様に似ているからだとか。
アメリカ軍でこのデザインの生産は1967年に終了しましたが、
部隊は1970年までこのパターンを着用していたそうです。
展示されているタイプは、これも「カモペディア」によると、
「デンス(密)」タイプで、もう少し縞の間が広い
「スパーズ」(まばら)タイプもあったとか。
USMCは20年以上にわたりベトナム戦争期間を通して
地上、航空、補給、後方支援を提供しました。
ダナンの主要な空軍基地を保護する任務とともに規模を広げ、
トンキン湾事件の後には、小規模な鎮静部隊との対反乱作戦に投入するために
より多くの部隊を送り込んできました。
1966年までにベトナムには7万人近くの海兵隊員がいて、
ベトコンに対する大規模な集団作戦を遂行していました。
海兵隊は地上戦闘に加えて、南北ベトナムにおいて
ヘリコプター部隊と固定翼機での航空支援を提供しました。
1967年、サイゴンで陸軍の指導部を務めた海兵隊は、
大規模な部隊の捜索と破壊作戦に力を注ぎます。
海兵隊の任務は、国境の非武装地帯(DM2)に沿った
北ベトナム軍との戦い、そして
南部の村でベトコンに対して行われた対反乱作戦とに分けられます。
手榴弾と”トレンチ・アート”
はて、塹壕アートとはなんぞや。
それは、兵士が戦争中に作り出す文字通り「芸術作品」のことです。
砲弾を使ったビアジョッキとか、彫刻とか、
別の武器とかを手慰み的に作ってしまうこと、あるいはそのものですね。
ここにあるのは廃棄されたコーヒーとソーダ缶から作られた
花瓶とか手榴弾などです。
作品としてはまあ普通ですが、調べてみたら
中には立派なアートと呼べる作品もありました。
砲弾のシェルで作ったP-38。お見事
南ベトナム国旗
1948年から1975年まで、サイゴン陥落までの間国旗として使用されました。
1975年にベトナム共和国、南ベトナムが消滅し公式に旗は廃止されましたが、
北米やオーストラリアなど海外に移住したベトナム人の間では、
民族統合のシンボルとして、あるいは現政府に対する抗議の意味で
今でも使用されています。
アメリカのいくつかの州では、ベトナム系アメリカ人が
ロビー活動を行った結果、この旗を
民俗コミュニティのシンボルとして公式に認められました。
POW(Prisoner of War)
北ベトナム兵士とベトコンの反乱軍に捕らえられた
アメリカ軍捕虜が使用していた道具。
石鹸、歯磨き粉、IDタグ、箸と腕、カップ。
ベトナム戦争における武器
ベトコン(VC)の作戦行動のメソッドは、単純かつ効果的でした。
彼らの合言葉は
「敵が前進したら撤退、防御したら嫌がらせ、
敵が疲れたら攻撃、撤退したら追撃。」
スピード、安全性、奇襲性、相手の動きを見極めてから交戦すること。
適切な情報と準備なしに急いで行動するのではなく、
あえて機会を逃すこともありました。
任務のために組織化され、装備された(VC)は、
ゲリラ戦術で夜間に移動することを好み、秘密裏に行動しました。不意打ち攻撃の待ち伏せのために、彼らは
10日間くらいは平気で潜んでいることができました。
彼らのやり方は、道路、小道、小川、その他の移動ルートに沿って
敵を罠にかけることでした。
■アフリカ系宇宙飛行士 チャールズ・ボールデン
海軍出身の宇宙飛行士、チャールズ・ボールデン(Charles Bolden)
の宇宙飛行士用スーツとヘルメットです。
海軍兵学校では学生隊長を務めるほど優秀で、
卒業後海兵隊少尉に任官。
(海兵隊士官は海軍兵学校卒だと知った瞬間)
ベトナム戦争に参加したあとは、海兵隊のリクルート
(自衛隊で言うと地本ですね)にいたそうです。
リクルーターとして話をしているボールデン
1981年に宇宙飛行士になり、スペースシャトル「コロンビア」、
「ディスカバリー」の操縦手などのミッションをこなした彼は、
2009年、アフリカ系で初めてNASA長官に指名されました。
■アイリーン・ファーガソン海兵隊ワイフアワード
Irene Ferguson Marine Wife Recognition Award
アイリーン・ファーガソン海兵隊員妻賞は、
米国海兵隊員の妻として、夫である海兵隊の軍人や家族、
地域社会を支える献身を称え、顕彰するのが目的です。
選考は年一回行われ、選ばれた妻には賞金と贈り物が与えられます。
過去、国家のために夫が軍務に就いている間、
その妻が受ける試練や苦難は、ほとんど認識されていませんでした。
しかし、この10年間で、軍人の家族にかかるストレスや負担は、
おそらくかつてないほど大きくなっていることが認識されるようになりました。
フライング・レザーネック歴史財団は、
そんな軍人の妻の奉仕と犠牲に対し、これを顕彰すべく、
米国海兵隊退役軍人グレン・ファーガソン少佐の妻、
アイリーン・ファーガソン氏を記念して、同賞を創設しました。
この賞の精神は、以下のグレン・ファーガソン少佐の言葉に集約されています。
アイリーン&グレン・ファーガソン夫妻
「妻の死をきっかけに、私たちが共に過ごした
約60年半の素晴らしい時間を振り返ることができました。
そうしているうちに、私が訪れたことのある博物館、
歩いたことのある公園、入ったことのある建物のどこにも、
一つとして、夫を支える従軍中の妻たちの献身と
犠牲の生活を称えるものがないことに気づきました。
彼女たちの夫は、忙しい任務が日常で、遠い国へと頻繁に旅立ち、
時には危険な状況に置かれます。
彼らの多くは勲章を授与され、同僚の軍人たちから称賛を受けます。
彼らの偉業は、新聞や雑誌で賞賛されます。
しかし、知られざるのは、残された妻たちです。
彼女たちは子供たちを育て、教育し、病気のときには世話をし、
パパがいない家庭でその不安を献身的に和らげる。
しかし、妻たちの試練、艱難辛苦、勝利を証明するメダルや記念碑はありません」
受賞者は推薦され、FL歴史財団が審査し決定します。
支援機関、友人、家族、隣人、職場関係者からの応募が可能ですが、
推薦者の夫、その指揮官、推薦者本人からの応募はできません。
さて、これで室内展示を全て紹介し終わりました。
ここから外に出て航空機展示などを見学するわけですが、
出口にレトロなポスターが貼ってありました。
「もし戦いたいなら!海兵隊に参加しよう」
「アア残念!
アタシ(妾)が男なら海軍に入っていたのに」
女性が軍隊に入ることが叶わなかった時代のポスターですね。
そして海軍に入る資格のある男たちに向けて、こうあります。
「男になれ そして来たれ
アメリカ合州国海軍へ」
続く。