「宇宙からのスパイ」シリーズを終わり、ここからは新シリーズです。
スミソニアン航空宇宙博物館のゲートを入ると、最初に現れるのが
このボーイングがスポンサードした歴史的航空機を展示する巨大なホールです。
「これらは、創意工夫と勇気、戦争と平和、政治と権力、
そして社会と文化の物語を語るものです。
これらのマイルストーンは、私たちの地球を小さくし、
宇宙を大きくしてきました」
こんな言葉で紹介されるホールには、
リンドバーグが大西洋単独横断を行った スピリット・オブ・セントルイス
アメリカ初のジェット機 ベルXP-59Aエアラコメット
チャック・イェーガーが初めて「音の壁」を破った ベルX-1
ジョン・グレンが乗った水星カプセル フレンドシップ7
マリナー、パイオニア、バイキングの惑星探査機、
民間開発で初めて宇宙に到達した スペースシップ・ワン
など、人類の航空・宇宙史にとって記念碑となる機体が展示されています。
当シリーズの新シリーズでは、このマイルストーン、
歴史的航空機を順に取り上げていくことにします。
◆ Bell XP-59A Airacometベル・XP-59A エアラコメット
「アメリカ初のジェット機」
時代順でいくと、「スピリット・オブ・セントルイス」が展示の最古となりますが、
そちらはチャールズ・リンドバーグについて語る時のために置いておいて、
当ブログでは最初に、アメリカ初のジェット機となった、ベル社の
XP-59A エアラコメットをご紹介することにします。
【ジェット開発の遅かったアメリカ】
XP-59Aは、アメリカが開発した初のジェット機です。
以前もスミソニアン博物館の世界のジェット機開発シリーズで取り上げましたが、
ジェットエンジン開発の発祥はイギリスであり、ドイツがそれに追随しました。
具体的に運用に至ったのはイギリスのグロスター流星戦闘機、中島の菊花など。
特にドイツはジェット推進機で当時世界のトップに立ち、
メッサーシュミットMe262ジェット戦闘機、
アラドAr234ジェット爆撃機が実用化されていました。
それに対し、アメリカのジェット推進の分野への参入はかなり遅かったため、
第二次世界大戦中の1942年にはもう初飛行を済ませていたものの、
ご存知の通り戦闘に投入されることはありませんでした。
当時のアメリカがジェット機開発を急がなかったのはなぜだったのでしょうか。
それは、目の前の戦争に勝利することに集中していたアメリカが、
より迅速に、今そこにある戦争に貢献できる従来型の設計を大量生産し、
実戦に投入することを、何より優先していたからでした。
このことは結果的に賢明な判断だったと言われることになります。
なぜなら、アメリカ以外の、大戦中にジェット推進を推し進め、
第二次世界大戦に投入したいずれの国も、その斬新すぎる技術を持て余し気味で、
運用に漕ぎ着けることはできても実戦に際し問題があまりにも多く、
結局ジェット機で戦争に目立った影響を与えることはできなかったからです。
その点アメリカは、戦後にドイツの科学者を引き抜くなど、
後発ならではの手段を使い、改めてじっくりと問題に取り組むことによって、
アメリカ陸軍航空隊(AAF)とアメリカ海軍に貴重な経験を与えると共に、
ジェット機エンジンにより高度な設計への道を開くことを可能としたのでした。
今日ご紹介するのは、そんなアメリカが、のちに後発のデータの積み重ねで
ジェット推進の先進国への道を踏み出す前の、歴史的航空機です。
【初飛行】
ベル社のテストパイロット、ロバート・M・スタンレーが、
アメリカ初のジェット推進航空機であるこのXP-59Aで飛行したのは
1942年10月1日のことでした。
初飛行を行うエアラコメット
ベル社は革新性で定評があり、リスクを最小限に抑えながら
新しいタイプのエンジンを組み込み、従来の機体デザインを踏襲しました。
大きくと厚みのあるミッドウィングは、ハイパフォーマンスより
安定したハンドリングを優先した戦闘機といったデザインでしたが、この機体は、大変残念なことに、テストプログラムの結果、従来の
ピストンエンジン機よりパワー不足で、低速
であることが証明されました。
そのためXP-59Aは戦闘に投入されることはなく、
高度な練習機としてのみ、陸軍航空隊と海軍にジェット機操縦技術の
貴重な体験を与えるだけにとどまりました。
しかしながら、これはここから何世代にも亘るアメリカ空軍と民間ジェット機への
源流ともいえる、歴史的な存在であることは否定できません。
【ジェットエンジン推進委員会設立】
ここで時間を一度巻き戻します。
1930年代半ばになると、アメリカの技術者たちは、時勢を受けて、
航空機にジェットタービンエンジンを応用させることを真剣に検討し始めました。
戦争が始まると、それらの取り組みは一層加速されました。
1941年、当時の航空参謀次長だったヘンリー・H・ハップ・アーノルド将軍は、
ジェット機推進を検討する特別グループとして、
陸軍航空隊、海軍航空局、国立標準局、ジョンズ・ホプキンス大学、
マサチューセッツ工科大学、アリス・チャルマーズ、
ウェスティングハウス、ゼネラル・エレクトリックを選び、その代表による「ジェット推進に関する特別委員会」が結成されることになります。
1941年4月、ジェット推進の先進国であるイギリスに渡ったアーノルドは、
そこでイギリスのエンジン開発技術者、フランク・ホイットル設計による
W.1Xターボジェットエンジンを搭載した
グロスターE.28/39ジェット推進試験機の見学を行いました。
ホイットル
グロスターE.28/39ジェット推進試験機
帰国したアーノルドは、この技術を持ち帰り、アメリカ政府、陸軍航空隊、
ゼネラル・エレクトリック社の幹部やライト飛行場の技術者と情報を共有。
この結果、アメリカはジェットタービン航空機エンジン
(ホイットルの新型エンジンW.2Bのコピー)15基、および
ジェット機3機の製造を直ちに開始することになりました。
【製造企業の選定】
とはいえ、ホイットルエンジンの性能はあまり高くないとされたため、
新たに双発のジェット機を作ることが決まり、
エンジンの製造には、すでにグロスター機とホイットルエンジンに精通していた
ゼネラル・エレクトリック社が選ばれました。
そして新型戦闘機の製造はベル・エアクラフト社に決定したわけですが、
その剪定の背景にはいくつかの要因があったと言われています。
まず、当時、ベル社が比較的暇だったことです。
日本の某軍用機製造にもそんな経緯で選ばれた製造会社がありましたが、
ベル社もまた他のメーカーほど航空機の開発・生産に追われていませんでした。
そして、これはたまたま偶然としか言いようがありませんが、ベル社の所在地が
エンジンを請け負ったゼネラル・エレクトリック社の工場に近かったのも、
ベル社が選ばれた理由の一つだったと言われています。
今と違い、物理的に両者の工場が近いということのメリットは多く、
例えば機体とエンジンの開発者間の情報交換もスムーズという理由です。
ベル社の創立者ローレンス”ラリー”・ベルの熱意と、
常識にとらわれない設計を実現させるという評判も選定の理由でした。
機体名はXP−59Aと決まりましたが、この名称は、
もともとベル社が提案したピストンエンジン戦闘機プロジェクトと同じでした。
極秘で取り行うこの仕事の本質を隠すのに好都合だったのです。
エンジンを担当していたゼネラル・エレクトリック社も同じような策略を使い、アメリカ初のジェット機用エンジンをI-A型と名づけています。
当時、同社は航空エンジンの過給機をA〜Fのモデル名で製造していたため、
I-AのIはその延長、Aはシリーズの最初のバージョンと思わせることができます。
【製造のネックになったのは何か】
1941年9月、ラリー・ベルとチーフエンジニアのハーランド・M・ポイヤーは
チームを結成し、アメリカ初のジェット機の設計に取りかかりました。
しかし、それはあくまでも「理論のための理論」に基づくものでした。
ゼネラル・エレクトリック社が最初のエンジンを完成させ、
試験が開始される予定は半年も先であったため、
さしものベルも、その性能特性を推測することしかできなかったのです。
実際、1941年10月にイギリスから出荷されたW.1Xエンジンも、
ゼネラル・エレクトリック社独自のバージョンも、
当初予測された出力レベルを発生させることはできませんでした。
もう一つ大きなネックになったのは、事柄上致し方ないとはいえ、
極度の秘密主義だったと言われています。
早急に結果を出すために強いられた緊急性も、プロジェクトには障害となりました。
例えば、機密保持の観点と、できるだけ早く飛行機を飛ばしたいという焦りから、
アーノルド将軍は当初、風洞実験を行うことすら禁止していたというのです。
流石にそれはいかんでしょということになり、オハイオ州ライト飛行場にある
低速風洞による実験だけは許可せざるを得なくなりました。
【実験〜ダミーのプロペラ】
最初の飛行実験においても、重視されたのは機密保持でした。
ベル社は最初のXP-59Aをオハイオからわざわざカリフォルニアに輸送し、
そこで最初の飛行試験を行ったわけですが、なかなか笑える偽装をしています。
実験機には機首にダミーのプロペラを取り付け、胴体に防水シートをかけて、
新しいピストンエンジン機に見せかけるといった涙ぐましい努力でした。
ダミーのプロペラが・・・泣けるというか笑える
もちろんプロペラをつけたままでは飛ばせないので、飛行直前に整備士が取り外し、
着陸後に再び取り付けるという面倒臭そうなことまでやっていました。
そして、1942年10月1日、ベル社のテストパイロット、ロバート・M・スタンレーがXP-59Aを初めて空へ飛ばす日がやってきたのです。
第一回目の実験で、スタンレーは着陸装置を完全に伸ばしたまま飛行を行い、
7.6m(25フィート)以上の高さを飛行しただけで着地しました。7メートルって、ほとんど地面這っているとしか思えないんですがそれは。
その日さらに3回の飛行が行われ、最終的に30mの高さに到達しました。
実験がいかに慎重だったかということですね。
翌日、さらに4回の飛行を行い、高度3,048m(10,000フィート)が記録されます。
【しかしレシプロ戦闘機に勝てず】
この際、決して洗練されていると言えないXP-59Aの機体を、
最高速度628km/h(390mph)まで駆動させたのは、
ジェネラル・エレクトリック社のI-A型遠心流ジェットエンジン2基でしたが、
如何せん、この速度は敵や味方のピストンエンジン戦闘機の多くに勝てません。
そのため、YP-59A試験評価機13機が追加生産されることになり、
GE社が生み出したより強力なI-16(J31)ターボジェットエンジンが
これらとその後のすべての量産型エアラコメットの動力源となります。
後方から見たP-59のI-16エンジン
13機のYP-59Aは、1943年6月にムロックで飛行試験を行うために到着し、
このうち1機は14,512m(47,600フィート)の非公式高度新記録を樹立しました。
ベルは陸軍航空隊に自信満々で300機のP-59戦闘機の購入を提案しますが、
陸軍が発注を決定したのは、その3分の1の僅か100機のみでした。
確かに高度記録こそ出しましたが、依然としてP-59は
当時のノースアメリカンP-51マスタング、リパブリックP-47サンダーボルト、
ロッキードP-38ライトニングといった戦闘機に明らかに劣勢だったからです。
最終的にベル社が完成させたエアラコメットは、
P-59Aが20機、P-59Bが30機の計50機のみに留まりました。
武装は37mmM-4砲1門と44発、50口径機関銃3門と1門あたり200発。
高度10,640mで最高速度658km/h(409mph)の飛行が可能でした。
実戦に使用されるには時期尚早と判断されたP-59Bは、
陸軍航空隊第412戦闘航空群に配属され、
AAFのパイロットに、ジェット機の操縦と性能の特徴を慣れさせるための
貴重な練習機となって、のちへとつながっていくことになるのです。
陸軍は練習機としてしか使用しなかったこの機体を
「未来へ続く戦闘機」として、大々的にリクルートポスターにあしらいました。
Hitch your future to this star
あなたの未来をこの星に繋ぐ
陸軍のリクルート宣伝担当のセンスが光ります。
【ジェット機の優位性】
P-59などの初期のジェット機は、この新しいタイプの
エンジンのパワーと効率を実証することになりました。
これらの進歩により、新時代のジェット旅客機が生まれます。
それ以降、空の旅は地球を小さくし、しかも誰もが利用できる値段に変わりました。
ジェットエンジンを搭載した軍の戦闘機は、必要に応じて超音速で飛行でき、
爆撃機や輸送機は広範囲にわたる距離に巨大なペイロードを運ぶことができます。
【ジェット機を操縦した史上初の女性パイロット】
アン・G・バウムガートナー・カール(Ann G. Baumgartner Carl、1918- 2008)
は、テストパイロットとしてベルYP-59Aジェット戦闘機に乗り、
アメリカ女性初の米軍ジェット機操縦者となりました。
彼女は女性空軍サービスパイロット計画の一員として、ライト飛行基地の戦闘機のテストセクションのオペレーション補佐官を務めました。
アメリア・イアハートを小学生のとき実際に見たのがきっかけで飛行士を志した彼女は、医学部予科を卒業後、
イースタン航空広報部に勤務しながら、飛行学校に通い技術を学びました。
その後、女性空軍サービスのパイロットとして砲兵訓練基地のレーダー追跡標的機を操縦する任務につき、ダグラスA-24、カーチスA-25、ロッキードB-34、セスナUC-78、スティンソンL-5などを操縦しました。
その後オハイオ州デイトンのライト飛行場に異動した彼女は、戦闘機試験課の作戦補佐官兼テストパイロットとして
飛行することが許されるようになりました。
ここで彼女が操縦したのは、B-17、B-24、B-29、イギリスのデ・ハビランド・モスキート、
ドイツのユンカースJu 88などです。
そして、戦闘機試験部門に復帰後の1944年10月14日、アメリカ初のジェット機であるベルYP-59Aを操縦し、アメリカ女性初のジェット機操縦者となったので下。
ライト飛行場での戦闘機飛行テストパイロットとしての任務は、WASP計画が解散された1944年12月に終了しています。
ちなみに、彼女の結婚相手は、
ツインマスタングP-82を設計した技術将校ウィリアム・カール少佐で、出会いは飛行試験だったという・・・つまり職場結婚でした。
このカール少佐というエンジニアは、後に水中翼船を設計・製造しています。
【スミソニアン博物館のXP-59A 】
アメリカ初のXP-59A(AAFシリアルナンバー42-108784)は、
国立航空宇宙博物館に保存されているこの機体そのものです。
実は、歴史的初飛行の直後、陸軍は飛行試験データを記録するための
オブザーバーを同乗させることの必要性を認識するに至りました。
そこで、パイロットの前方にある銃座をオブザーバー用に改造し、
上部の外殻に20インチの穴を開け、この狭く開いた空間に
座席と小さなウィンドスクリーン、計器盤を取り付けたのです。
オブザーバー用シート設置の改装後、飛行テストは1942年10月30日に再開され、
AAFの残りの試用機は全てこの構成で飛行しています。
1944年2月、それはまだ戦争中のことでしたが、
エアラコメット・プロジェクトを担当していたアメリカ空軍の技術者が、
アメリカ初のジェット機を博物館展示用に保存することを思いつきました。
8月、陸軍はベル社に、最終的な処分が決まるまで機体をムロックに、
オリジナルのエンジンをオハイオ州のライト・フィールドに保管する計画を通知。
この時点で機体の飛行時間はわずか59時間55分というほぼ新品状態でした。
1945年4月18日、機体はスミソニアンに引き渡され、保存されていましたが、
1976年、国立航空宇宙博物館の開館前に、機体はオリジナルの形状に復元され、
オブザーバー用のオープンコックピットは取り外されることになりました。
そしてその歴史にふさわしく、初代エアラコメットは現在、
「マイルストーン・オブ・フライト」のギャラリーに展示されているのです。
エアラコメットをた操縦した女性パイロット、アン・カールに、
晩年のオーヴィル・ライトが語った言葉です。
「ジェットエンジンには実に心を鷲掴みにされましたよ。
何とシンプルな推進手段なんだろうか、とね」
続く。