前回に引き続き、スミソニアン航空博物館の「世界を変えた歴史的航空機」から、
ベル X-1 グラマラス・グレニス
Bell X-1 Glamorous Glennis
をご紹介します。
スミソニアンのエントランスを通ってこの広場に出た時、
真っ先に目についたのは、このオレンジの機体でした。
忘れようにも忘れられないその特徴のある音速機。
かつて映画「ライト・スタッフ」の紹介のために絵に描いたこともあります。
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X-1 グラマラス・グレニスの前に立つパイロット、チャック・イェーガー。
彼はこの機体で、人類史上初めて音速を突破した男になりました。
スミソニアン博物館に足を踏み入れ、その機体を実際に目の当たりにしたとき、
わたしのテンションはいきなり急上昇したものです。
まだこの絵を描いた頃は存命だったイェーガー氏ですが、
2020年の12月7日、97歳で死去しています。
スミソニアンの紹介はこのようなものになっています。
「NASA チャールズ・E’チャック’ イェーガーは、
空軍で最も経験豊富なテストパイロットでした。
11回の空中勝利を収めた第二次世界大戦のエースである
ウェストバージニア出身のパイロットは、機械を本質的に理解し、
主観的な飛行特性に対する感覚を、飛行を直視するエンジニアに
パフォーマンスデータとして的確に伝えるという稀な能力を備えていました。」
◆ 音の壁を破った瞬間
1947年10月14日、ベルXS-11号機に乗ったアメリカ空軍の
チャールズ・'チャック'・イェーガー少佐は、
音速より速く飛んだ最初のパイロットとして歴史に名前を刻むことになりました。
後にX-lと命名されることになるXS-1は、
カリフォルニア州ムロックドライレイク近くのモハベ砂漠上空で、
高度43,000フィート、マッハ1.06、時速700マイルに到達したのです。
この飛行により、航空機は音速よりも速く飛ぶように設計できることが証明され、
依然として貴重な遷音飛行データを収集することに成功しました。
「音の壁」という神話は事実上破られることになったのです。
ナショジオの番組ではありませんが、文字通りの「ミス・バスター」です。
XS-1は、1944年にNACA(National Advisory Committee for Aeronautics)
と米陸軍航空隊(後の米空軍)が共同で開始したプログラムで、
有人遷音速・超音速研究機として開発された機体です。
1945年3月16日、陸軍航空技術軍団は、ニューヨーク州バッファローにあった
ベル・エアクラフト社とプロジェクトの開発契約を結びました。
プロジェクト名はMX-653。
ベル社には、3機の超音速・超音速研究機が発注されます。
プロジェクトの目的、それは音速を突破する機体。
XS-1という名称は、陸軍が命名したもので、
Experimental Sonic-i(音速実験機I)の略称です。
それを受けてベル社は、ロケットエンジンを搭載したXS-1型機3機を製造しました。
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スミソニアンに航空機多しといえども、鮮やかなオレンジ一色、
というペインティングなのはこのX-1だけであろうと思われます。
(もしかしたら標的機などであるかもしれませんが)
この理由は、観察者が地上から機体を視認しやすいとして選ばれました。
◆イギリスを利用したアメリカ
同じような実験は、イギリスでも試みられていました。
イギリス航空省はマイルス・エアクラフト社に依頼し、
世界初の音速突破機開発プロジェクトを極秘裏に開始しています。
このプロジェクトの結果、ターボジェットを搭載したマイルズM.52が試作され、
水平飛行で時速1,000マイル(870kn、1,600km)に達し、
1分30秒で11kmの高度に上昇できるよう設計されました。
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1944年までにM.52の設計は90%完了し、
マイルズ社は3機の試作機の製造に取り掛かりましたが、
そのとき、アメリカが高速機の研究に関するデータ交換を申し出てきたのです。
同年末、航空省はアメリカと高速機の研究・データ交換の協定を結びました。
マイルズ社とイギリスは何の疑いもなくアメリカとの協力に合意したのですが、
ののちにアメリカの腹黒さに驚愕することになります。
マイルズ社は、協定を結ぶなり乗り込んできた、アメリカ側ベルの担当者に
自社でM.52の図面と研究を見学させたのですが、その直後、
アメリカはイギリスとの協定を破棄してしまいました。
マイルズ社の技術者からすれば、こちらのデータを見せただけで、
向こうからは何のデータの供与もないまま終わったということになります。
種明かしをすると、当時、ベル社は、マイルズに全く秘密のままで
独自のロケット動力による超音速機の建設を進めていました。
しかし、ピッチ制御の問題に直面し、それを解決するためには
M.52で既に決定していた可変入射尾翼の搭載が適切かもしれないと考えました。
つまり、ベル社の技術陣は、その仮説が正しいかどうかを、
マイルズとRAEの試験飛行のデータによって確認しようとしたのです。
そのためにアメリカ政府を動かしてイギリスと協定を結ばせ、
データを見せてもらいさえすればもうイギリスは用済みとなるので、
アメリカ政府に協定を破棄させたというわけです。
こういった権謀術数は、イギリスのお家芸のようなイメージがありますが、
さしもの老獪国家もなりふり構わないヤンキーにしてやられたというわけです。
◆「翼のある弾丸」〜研究と調査
アメリカでXS-1が最初に議論されたのは1944年12月のことでした。
初期の仕様は、時速1,300 kmで高度11,000 mを2〜5分で飛行できる
有人の超音速機というものでした。
アメリカ陸軍航空局と全米航空諮問委員会 (NACA) がベル航空機会社に
遷音速領域の条件の飛行データを取得すべく
3機のXS-1(「実験、超音速」、後のX-1)の建造を依頼したのは1945年3月です。
同じ頃、日本がそのアメリカに国内の至る所を
空爆で散々蹂躙されていたことを考えると、
つくづくこの国力差のある相手に戦争を挑んだことそのものが
無謀でしかなかったと考えずにいられません。
さて、設計者は、代替案を検討した結果、ロケット機を製作することになりました。
ターボジェットでは高高度で必要な性能を得ることができないと考えたからです。
X-1の原理をキャッチーな一言で言うとしたら、それは
「翼のある弾丸」
でした。
事実、その形状は超音速飛翔で安定することが知られている
ブローニング50口径(12.7mm)機関銃弾によく似ています。
危険な空気抵抗を克服するために、X-1は非常に薄くて強い翼と、
制御を改善するための微調整可能な水平尾翼を備えていました。
高出力の「弾丸」は超音速で安定していたため、
設計者は期待を50口径の弾丸に似せて成形したのです。
「翼のある弾丸」には、操縦者を座らせる狭い操縦室が
機首の傾斜した部分の枠付き窓の後ろに設置されていました。
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狭っ
なにしろ「弾丸」ですから、もちろんパイロットの脱出シートもありません。
ベル社の当時のテストパイロット、チャルマーズ・”スリック”・グッドリンが、
テスト飛行の危険手当てとして15万ドルと、さらに
0.85マッハを超えた分に対して追加を要求した、という噂があり、
本人はそれをのちに否定したにもかかわらず映画「ライトスタッフ」では
逸話として挿入されていますが、まあ、家庭を持つ男なら当然かもしれません。
さらに、この法外な要求のため、軍はベル社とのテスト契約を打ち切り、
テストの権利を買い取って、軍人であるイェーガーに飛行させた、
という話もあるそうですが、これはどちらかというと後付けの理由で、
軍としてはとにかく制服を着た人間に「史上初」の快挙を上げさせたかった、
というのが本当のところではないかと思われています。
さて、開発が始まった時はまだ戦争中だったため、XS-1は
戦闘機として運用される可能性を考慮して、地上からの離陸を想定していましたが、
戦争が終わったので、B-29スーパーフォートレスによる空輸、
という方法が選択がされることになりました。
そして、1947年にはロケット機の圧縮性に問題が生じます。
そこで先ほどお話しした「イギリスとの技術協力(のふりをした一方的な搾取)」
により、可変入射尾翼に改修されることになりました。
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X-1の水平尾翼を全移動式(または「全飛行式」)に改造した後、
テストパイロットのチャック・イェーガーが実験的に検証し、
その後の超音速機は、すべて全移動式尾翼か
「無尾翼」のデルタ翼型が選ばれるようになりました。
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燃料は水で薄めたエチルアルコールと液体酸素の酸化剤で燃焼させるも方式でした。
4つの燃焼室は個別にオン・オフが可能で、推力を細かく変えることができました。
1号機と2号機のX-1エンジンの燃料と酸素タンクは窒素で加圧され、
飛行時間が約1+1/2分短くなり、着陸重量が910kg増加しましたが、
3号機のエンジンはガス駆動のターボポンプを使い、
エンジンの重量を軽くしつつチャンバーの圧力と推力を増加しました。
◆ XS-1たちのその後
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現在、国立航空宇宙博物館が所有するXS-1、1号機(シリアル46-062)は、
イェーガーが妻に敬意を表して「グラマラス・グレニス」と命名したものです。
XS-1、2号機(46-063)はNACAで飛行試験が行われ、
後にX-1「マッハ24」研究機として改良されて、現在、
カリフォルニア州エドワーズのNASA飛行研究センターの屋外に展示されています。
3号機(46-064)は、ターボポンプ駆動の低圧燃料供給システムを採用した機体。
X-1-3「クイニー」の名で親しまれたこの機体は、
1951年の地上での爆発事故でパイロットを負傷させ、喪失しました。
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X-1D
その後、X-1A、X-1B、X-1Dの3機が追加で製作されましたが、
このうちX-1AとX-1Dの2機は、推進系の爆発で失われています。
XS-1の2機は高強度アルミ製で、推進剤タンクは鋼鉄製でし。
1号機と2号機は、ロケットエンジンへの燃料供給にターボポンプを使用せず、
燃料供給システムの直接窒素加圧に頼っていました。
先ほども書いたように、XS-1の輪郭は50口径の機関銃の弾丸を模していますが、
その胴体には、2つの推進剤タンク、燃料と客室加圧用の12の窒素球、
パイロット用の加圧コックピット、3つの圧力調整器、
格納式着陸装置、翼のキャリースルー構造、
リアクションモーターズ社の6,000ポンド推力のロケットエンジン、
500ポンド以上の特殊飛行試験用計測器などがぎうぎうに詰め込まれています。
◆音速の「壁」
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「X-1は、ボーイングB-29のボムベイから空中で発射された」
スミソニアンのHPにはこんなことが書かれています。
X-1は当初地上離陸用に設計されていましたが、最終的にすべてのX-1機は
ボーイングB-29またはB-50スーパーフォートレス機に懸下して、上空から発進、
つまり空中発射されるということになりました。
XS-1にどんなエンジンを乗せるかについては、大変な議論の紛糾を経て、結局
リアクション・モーターズ社が開発中だったXLR11ロケットエンジンに決定します。
そのエンジンの推進剤は、安全性を最優先した結果、
従来使用されていた硝酸とアニリンではなく、
液体酸素とアルコールの組み合わせになったわけですが、
この組み合わせは、膨大な燃料を消費することがわかりました。
つまり安全を優先した結果、燃料を節約する必要があったということ、さらに
ロケット推進機を地上から運用することで性能低下が懸念されたため、
空中での発射という方法に計画は変更された、というのです。
THE RIGHT STUFF Chuck Yeager (Sam Shepard) breaks The Sound Barrier
映画「ライト・スタッフ」の音速突破シーンです。
「牽下された」というイメージだと、まるで糸で吊られている状態から
発射されたように思えますが(わたしだけかな)、映像のように
文字通り爆弾倉から落下されてそこから自力で飛ぶという方法です。
映画では計器のガラスが割れたりして緊張感満点ですが、
チャック・イェーガー自身は、この瞬間に拍子抜けというか、
がっかりした、とのちに語っています。
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音速の壁というものが、破った瞬間にそれとわかる形で存在していると思ったのに、
つまりもっと衝撃波のようなものがあると思っていたら、
(本人曰く『パンチで穴が開けたときのような衝撃があると思っていた』)
ぬるーっと突き抜ける感覚しかなかった、つまらんかった、ということですね。
英語では実際にはこう言ったようです。
"Later, I realized that the mission had to end in a Let-down
because the real barrier wasn't in the sky
but in our knowledge and experience of supersonic flight."
(その後、私は失望のうちに任務を終了させることになった。
なぜなら、本当の”壁”は空に存在するのではなく、
我々の超音速飛行への知識と経験のうちに存在するものだったからだ)
そりゃ普通そうだろう、としたり顔で言う人は、改めて
コロンブスの卵の逸話を思い出してみると良いかと思われます。
それはその瞬間まで、最初にやったものにしかわからないことでした。
X-1が音速を突破するまでは、人々はそもそも
人類には音より速く飛ぶことができるようになるとさえ思っていなかったのです。
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歴史を刻む朝、X-1の前に立つイェーガー
しかし、1949年1月5日、チャック・イェーガーが操縦するX-1#1、
グラマラス・グレニスは、ムロック・ドライレイクからの地上離陸に成功しました。
X-1#1の最高速度は、1948年3月26日にイェーガーが飛行中に達成した
40,130フィート(約957mph)でのマッハ1.45です。
その後、1949年8月8日、アメリカ空軍のフランク・K・エベレストJr.大佐が
高度71,902フィートに達し、最高高度を達成しました。
その後、1950年半ばまで、委託業者による19回のデモンストレーション飛行と
59回の空軍試験飛行が続けられることになります。
◆スミソニアンのXS-1
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1950年8月26日、空軍参謀長ホイト・ヴァンデンバーグ元帥は、
スミソニアン博物館長官ウェットモアにX-1 の1号機を贈呈しました。
そのとき、元帥は、
「X-1は、航空時代の最初の偉大な時代の終わりと、
2番目の時代の始まりを告げるものである。
亜音速の時代は一瞬にして歴史となり、超音速の時代が誕生したのだ。」
と述べています。
これに先立ち、ベル・エアクラフト社のローレンス・D・ベル社長、
NACAの科学者ジョン・スタック氏、
空軍テストパイロットのチャック・イェーガー氏は、
音速を初めて超え、超音速飛行の実用化への道を開いた功績により、
1947年にロバート・J・コリアー・トロフィーを受賞しました。
◆ X-1の”レガシー”
X-1実験は超音速飛行の課題を解決しましたが、
誰もが期待する変革を生み出すことができたわけではありません。
音よりも速く飛ぶことは軍事用途を除いて費用が高すぎたため、
民間の超音速の時代はあっという間に終わってしまいました
しかしながら、遷音速及び超音速の実験によって収集されたデータが、
新世代の亜音速民間旅客機を、より安全で効率的なものにし、
後世に生かされることになったのは、今日を生きる全ての人の知るところです。
続く。