スミソニアン航空博物館の最初にある「マイルストーン」展示。
次にご紹介するのは、地球の軌道を周回したカプセルです。
この歴史的なカプセルで、ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニアは
アメリカ人として初めて地球の軌道を周回しました。
1961年に行われた2回の弾道飛行
(アラン・シェパードのフリーダム7とガス・グリソムのリバティベル7)
につづき、これがマーキュリー計画の3回目の有人飛行です。
グレンの乗った宇宙船は「フレンドシップ7」でした。
なぜどの宇宙船も最後が7なのかというと、彼ら宇宙飛行士7人が
「マーキュリーセブン」として売り出された?からです。
宇宙船の名前はそれぞれの飛行士によってつけられ、それに7が加えられました。
ちなみにグレンの後の宇宙船の名前は、
スコット・カーペンター ”オーロラ7”
ウォルター・シラー ”シグマ7”
ゴードン・クーパー”フェイス7”
マーキュリーセブンのうちの一人、ドナルド・スレイトンは
自分の識別名を”デルタ7”にするつもりでしたが、以前もお話しした通り、
心臓の疾患が疑われたため、地上に降りてNASA管理職を務めました。
1975年、彼は健康上の問題を回復して世界最高齢で宇宙飛行士に復活し、
アポロ・ソユーズ計画でドッキング任務を成功させています。
後列左からシェパード(海)シラー(海)グレン(海兵隊)前列左からグリソム(空)カーペンター(海)スレイトン(空)クーパー(空)
「ライト・スタッフ」の映画紹介の時にも同じことを書きましたが、
空と海の人数が3人ずつというのは決して偶然ではないと思います。
余談ですが、映画で描かれていたように、マーキュリー7の中で
ジョン・グレンは堅物で愛国的で信心深く家族思いな人物とされ、
マスコミの間では彼が最もウケが良く、まるで
セブンの代表であるかのような扱いを受けていました。
NASAは、宇宙飛行士に理想の父親、理想の夫であることを要求したため、
採用試験の際、妻とうまく行っているかが聞かれましたが、中には
自分の不倫で妻との仲が冷え切っていたのにも関わらず、飛行士なりたさで
妻と口裏を合わせてうまく行っているふりをした人(クーパー)もいます。
もちろんグレンは清く正しく美しく、そういったこととは無縁の人物でした。
また、ヒーローとなった宇宙飛行士に、ゼネラルモーターズが
宣伝のために年間1ドルで(公務員なので無料というわけにはいかず)
シボレーコルベットを貸してもらえるという特典が与えられた時、
アラン・シェパードやウォルター・シラー、スコット・カーペンターなどは
目の色を変えて飛びつき、公道をこれみよがしにぶっ飛ばしていましたが、
グレンだけはその申し出を断り、ノイジーな2気筒600ccのドイツ車、NSUの600CCプリンツに乗ってNASAに通っていました。
1962年2月20日。
ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニアを地球周回軌道に乗せたのは
発射用ロケット「アトラス」でした。
■アメリカの「追い上げ」
このマーキュリー・アトラス(MA)ミッションは、
NASAとアメリカがソビエト連邦との宇宙開発競争において
強力な競争相手であることを改めて再確認&再確立することにもなります。
ここでサラッと経緯を書いておきます。
ソ連は1957年10月に世界初の宇宙船スプートニクを打ち上げ、
1961年4月には人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンを送り込みました。
「ジェミニ計画」において、エド・ホワイトの宇宙遊泳はソ連のレオーノフに
ほんの一瞬とはいえ先を越され、悔しい思いを噛み締めます。
そしてNASAは1961年5月にアメリカ人初の宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に送り込むことに成功しましたが、
ガガーリンの地球周回したのに対し、シェパードは弾道飛行に終わりました。
(それでもちゃんと順序を踏むあたりがアメリカです)
シェパードとグリソムの行った弾道飛行の所要時間はいずれも15分台です。
弾道飛行というのはこういうものなので、短時間で済むわけです。
シェパードは「アメリカ人で初めて宇宙に行った男」の称号を受けました。
それまで遅れをとっていたNASAですが、このグレンの軌道周回飛行で
ようやくソ連に互角と言えるところまでつけることができたのです。
グレンはこれで「アメリカ人で初めて地球を周回した男」となりました。
ケープ・カナベラル空軍基地での打ち上げの後、フレンドシップ7は
4時間55分23秒かけて地球軌道上を3周して戻ってきたのち、
バミューダ沖に着水してフリゲート艦USS「ノア」に回収されました。
「ノア」乗組員熱烈歓迎中の絵
ジョン・グレン、熱烈リラックス中@「ノア」艦上
しかし、スミソニアンにあるフレンドシップ7の現物を前にすると、
こんな小さなものに乗って、5時間足らずとはいえ、
地球を3周するなんて、さぞ窮屈だっただろうなと思わずにいられません。
そりゃ軍艦の甲板で足も伸ばしたくなるというものでしょう。
ちなみに彼がカプセルを出て最初にいった言葉は、
「船内はとても暑かった」
だったと言われています。
その理由とは。
「フレンドシップ7」の軌道周回ミッションにおいて、
ほとんどの主要なシステムは順調に作動し、偉業として大成功を収めました。
無人飛行なら終了していた自動制御システムの問題を克服したのです。
映画「ライトスタッフ」を観た方は、エド・ハリス演じるグレンが、
機外に「ホタル」を見たと思うシーンを覚えておられるでしょうか。
グレンが畏敬の念を持ってそれを見つめている間、
地上では、カプセルの熱シールドが緩んでいる可能性を示され、
彼が宇宙で死亡する最初の人間になるのではないかという緊張が走っていました。
「こちらフレンドシップセブン。私がここにいることをお伝えしようと思います。
私は非常に小さな粒子の形作る大きな塊の中にいて、
それらはまるで発光しているかのように鮮やかに輝いています。
このようなものを今まで見たことがありません。
その少し丸みを帯びたものは、カプセルのそばまでやってきています。
まるで小さな星のように見える。
それらが近づいてまるで浴びているようです。
カプセルの周りをぐるぐる回っていて、窓の前で全部が鮮やかに光っていて。
多分7〜8フィート離れたところ、私からはすぐ下に見えています!」
現状を何も知らずに、ただうっとりとポエムるグレン。
「了解、フレンドシップセブン。
カプセルの衝撃音は聞こえますか?オーバー」
カプコン、人の話聞いてねーし。
「ネガティブ、ネガティブ、時速3、4マイル以上も離れていません。
それは私とほぼ同じ速度で進んでいます。
私の速度よりほんの少し低いだけです。オーバー。
それらは、私とは違う動きをしています。
なぜならカプセルの周りを旋回し、私が見ている方向へ戻っていくので」
こっちもまだ「蛍」の話してる?
っていうかこれ、外側の異常じゃないんか。
実際カプセル内の温度は上がり続け、さすがの彼も一度は覚悟を決めました。
カプセルから出た最初の一言は、このような事情から生まれたものでした。
スミソニアンの展示は、中がライトアップされていて、
グレンが大気圏突入後バミューダ沖で回収された時のまま、
設定を変えていないスイッチの状態が維持されています。
手書きの時間、これもグレンの字と思われる
左上の視力検査表に注意
彼は飛行中、非常に多くのことを監視しなければなりませんでした。
例えば、飛行中のあらゆる力学に加え、グレンは飛行中、
常に自分の視力をモニターする任務を負っていました。
これはどういうことかというと、人間の眼球が
無重力状態で変形することが医学的に懸念されていたからです。
グレンは飛行中、紙の視力表でしょっちゅう視力をチェックさせられました。
計器の上に貼ってある2枚の紙がそうです。
結局ミッションコントロールは、熱シールドがバラバラにならないように、
逆噴射ロケットを投棄せず、装着したまま大気圏に突入するよう指示し、
結局グレンは(おそらくあまり危機感のないまま)再突入に成功しました。
ジョン・グレンが見ていた天井の機器
ジョン・グレンが最後に触ったそのままのスイッチ
■冷戦下のイベント
ジョン・グレンの飛行のために、米国国防省は、
NASAが世界中の中立国またはアメリカとの同盟国に
追跡ステーションを設置するための支援を行いました。
しかし、結果としてグレンは追跡局の無線範囲を外れた時には
いっさいNASAと通信をせずに飛行を行っています。
この理由はよくわかっていません。
任務終了後、「フレンドシップ7」は、アメリカの宇宙計画と
外交政策の利益を促進する為、3か月に亘る「ワールドツァー」に出ました。
つまりもう一度「地球を周回」したのです。誰が上手いこと言えと。
これはセイロン(現在のスリランカ)に到着した時のもので、
「フレンドシップ7」は象の歓迎を受けています。
フレンドシップ7の裏側。
大気圏突入の凄まじい熱が加わるとこうなります。
任務前、浜辺をランニングするジョン・グレン
海兵隊航空士として、ジョン・グレンは第二次世界大戦において
59回の攻撃任務、朝鮮戦争では2回の遠征で90回もの任務を行なっています。
その後はテストパイロットになり、ここでも以前紹介したように、1957年、
史上初の超音速機(弾丸機)による大陸横断飛行を行いました。
そしてその後、オリジナルの7名のマーキュリー宇宙飛行士の一人となり、
1962年のマーキュリーミッションを成功した後は国民的英雄となりました。
凱旋パレード「よくやったジョン」
ケネディ大統領とレイトン・デイビス空将の間に座って
ワシントンでのパレード
1964年にNASAを辞した後は、1974年から1999年まで
オハイオ州で上院議員を務めていました。
1998年、グレンは77歳で宇宙任務に復帰し、
スペースシャトル「ディスカバリー」でSTS-95ミッションを行いました。
STSというのはディスカバリーのミッションの名称で、STS−92と119には日本人宇宙飛行士若田光一氏、124には星出彰彦氏、
114には野口聡一氏、131には山口直子氏が搭乗しています。
グレンの2回目の宇宙飛行となったST S -95ミッションには
日本人女性宇宙飛行士第1号、向井千秋氏が同乗していました。
ディスカバリー計画になぜ頻繁に日本人が乗ることになったのかというと、
(他のメンバーはほぼ全員白人かたまにヒスパニック系で、
アジア系は日本人以外はエリソン・オニヅカだけ)
それは日本の、主に経済的協力の厚さを表していると思われます。
そして、なぜグレンが歳を取ってから宇宙に呼び戻されたかというと、
「老人が宇宙に行ったらその体組成はどうなるのか」
という実験対象に適役だと思われたからなのだそうです。
77歳でかくしゃくとしている元宇宙パイロットなんて存在、
当時はもちろん、今後も現れるとはとても思えなかったのでしょう。
そういう意味でも、グレンは宇宙関係の研究に貴重な記録を残したのです。
ここスミソニアンにはグレンの着用したスペーススーツ実物があります。
名札付き。
こちらはもちろん一回め、ジェミニVIの時着用したものです。
■マーキュリー計画
NASAが発足して間も無く始まったマーキュリー計画。
それはNASAの最初の大きな事業でした。
目標は、パイロット付きの宇宙船を地球を周回する軌道に乗せること、
その軌道上での人間のパフォーマンスを観察すること、
そして人間と宇宙船を安全に回収することでした。
当初、とにかくアラン・シェパードが初飛行に成功したとはいえ、
アメリカ人が宇宙でどのように生き延び、機能するのか。
多くの疑問が残されていたのです。
しかし、「フレンドシップ7」ミッションの成功により、NASAは
マーキュリー計画への取り組みをさらに加速させることになりました。
マーキュリー計画の開始から終了までの5年間で、
政府と産業界から200万人以上の人々がそれぞれのスキルと経験を結集し、
6回の有人宇宙飛行が実現し、コントロールすることに成功しました。
マーキュリー宇宙船は、人体が微小重力下で1日以上生存しても
通常の生理機能が衰えないことを実証しました。
これも、実際そこに行くまではわかっていなかったことの一つです。
マーキュリーはまた、1960年代に行われたジェミニ計画や続くアポロ計画、
そしてその後のすべての米国の有人宇宙飛行活動の舞台を整えました。
このように、フレンドシップ7号のMA-6ミッションは、
NASAの有人宇宙飛行における重要な出来事であると同時に、
さらに多くの成果を生み出すきっかけとなったのです。
宇宙飛行士席が見えるカプセルの内部。
ジョン・グレンが座った座席は「カウチ」と呼ばれ、
ミッション中、彼と宇宙服にぴったりフィットするよう特注されています。
宇宙船の大きさから換算して、マーキュリーの宇宙飛行士は
身長155.7cm以上、180㎝以下でなければならないことになっていました。
宇宙飛行士たちは、宇宙船に"乗るのではなく宇宙船を着るのだ"
とジョークを飛ばしていたそうです。
フレンドシップ7号の飛行中にジョン・グレンが握った操縦桿。
先ほども述べたように、グレンは経験豊富なパイロットでしたが、
この操縦桿は航空機のと違い、宇宙空間でカプセルの向きを変えるだけです。
■宇宙に行った「フレンドシップ7」の星条旗
スミソニアンには、ジョン・H・グレン・ジュニアがアメリカ人として
初めて地球の軌道を周回した際に、「フレンドシップ7」に納められていた
アメリカ合衆国の国旗が寄贈され、保存されています。
NASAは1963年に「フレンドシップ 7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来、ここナショナルモールの建物に展示されています。
この旗は、宇宙船のどこかに詰め込まれていたようで
(おそらくグレンも知らなかったかあるいは忘れていた)
機体と一緒に、スミソニアン博物館に運ばれてきました。
ジョン・グレン宇宙飛行士は、宇宙船フレンドシップ7を操縦して
地球周回軌道に乗り、1962年2月20日に無事帰還し、
アメリカ人として初めて歴史的偉業を成し遂げました。
彼は確かにたった一人でカプセルに乗り込み、地球を周回しましたが、
ミッションの成功は全米の何千人もの人々によって支えられていました。
NASAは1963年に「フレンドシップ7」をスミソニアン協会に譲渡し、
以来この、アメリカの宇宙開発計画を開始した宇宙船は、
ボーイング・マイルストーン・オブ・フライト・ホールで展示されています。
そしてスミソニアンは、この歴史的な宇宙船を
未来の世代に見てもらうことができるのを誇りにしています。
続く。