前回に引き続き、スミソニアン博物館のリンドバーグ展示をご紹介します。
「ヒストリカル・エアプレーン」の一つとして、それは
ここスミソニアン航空博物館に展示されています。
ロッキード・シリウス ティングミサートゥク
Lockeed Sirius Tingmissartoq
この水上機はセレブリティ夫婦、チャールズ・リンドバーグ夫妻を乗せ、
霞ヶ浦に着水して民衆に熱狂的に歓迎されたことがあります。
680馬力のライト・サイクロンを搭載したロッキード低翼単葉機、
シリウスは1929年にジョン・ノースロップらによって設計された新型で、
このモデルは、着水用のポンツーンフロートと地上用の車輪、
いずれかを装着して飛行するよう、特別に設計されています。
チャールズとアン・モロー・リンドバーグ夫妻は、
このロッキード・シリウスで2回の長く危険な飛行旅行を行い、
航空会社の海外ルートを開発するという調査を行なっています。
【1931年、アジア航路の開拓】
一度目、1931年に彼らを乗せたシリウスは東洋へ飛びました。
これが「大圏航路」によって極東へ到達した最初の航空機となります。
のちにリンドバーグは、この旅のことをこう表現しています。
「始まりも終わりもなく、
外交上も商業上の意味も持たず、
求めるべき記録もない休暇」
航空会社の調査とはいえ、この飛行がいかに自由気ままで冒険に富み、
彼らにとっての「心の飛翔」でもあったことがわかる気がします。
グリーンランドのゴダブに訪れたとき、いかなる経緯かはわかりませんが、
エスキモーの少年がこの機体に、現地の言葉で
「ティンミサートク」(『鳥のように飛ぶ者』『大鷲』)と名付けました。
機体の側面には、その少年の手によってこの名前が描かれています。
リンドバーグがパンアメリカン航空の技術顧問を務めていた1933年、
リンドバーグ夫妻はこのシリウス号を使って大西洋を横断し、
パンアメリカン航空の飛行経路を開拓する2回目の任務を行いました。
いずれの飛行も、広大な水域と未知の人口の少ない地域を巡る旅で、
商業飛行という概念を芽生えさせるきっかけを作ったリンドバーグが、
今度は国際的な空の旅のルートを航空会社の要求に応じて探索したのです。
全く商業的な意味が絡まないわけではありませんでしたが、彼らが心からこの飛行を楽しんだ大きな理由の一つは、
1927年に国民的英雄となって以降、リンドバーグに常に付き纏っていた
世間の目からしばし解放されたことが大きかったかもしれません。
写真は、ロングビーチに到着し、陸揚げされたシリウスと夫妻の姿。
アラスカのエスキモー部落で、犬ぞりに座るアンと後ろに立つチャールズ。
赤線が1931年、破線が1935年の航路を記したものです。
1931年の航路は以下の通り。
ニューヨーク→オタワ→チャーチル→ポイントバロー(アラスカ)
→シスマレフ(アラスカ)→ノーム(アラスカ)
→ペトロパブロフスク(カムチャッカ半島)→ケトイ島(千島列島)
→紗那村(択捉島)→国後→根室→東京→大阪→福岡
→南京→漢口
霞ヶ浦に到着したリンドバーグ夫妻の乗った車を取り囲む人々
リンドバーグ夫妻が来日した時の詳細は次のとおり。
8月23日、アラスカから千島列島を伝って北海道へ到達
根室に2日間滞在後、26日霞ケ浦へ飛来
フォーブス駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、
小泉又次郎逓信大臣(小泉純一郎の祖父)ら、
日米の政府高官や海軍関係者など約1000人が出迎える
同日列車で東京へ向かい、聖路加病院トイスラー院長邸に滞在、
トイスラー邸が東京での根拠地となる
27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問
9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養
5日は日光を周遊し金谷ホテルで1泊、6日に東京に戻る
チャールズが逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、
霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進ている間、
アン夫人は博物館の見学や茶道・華道の体験
13日大阪へ飛来後、自動車で京都に入洛し、都ホテルに宿泊
奈良から大阪を経て、福岡へ向かう
9月17日福岡を離陸
冒頭の靖国神社の写真はこのときのもので、
案内をしている陸軍軍人は杉山元陸軍大臣であろうと思われます。
アン・モローはこの時の記録として『NORTH TO THE ORIENT 』を著し、
その中に、関西滞在中、京都の少年がリンドバーグ夫妻の飛行機に潜入し、
密航を企てる事件が発生したことが書かれているそうです。
ところでこのときリンドバーグがなぜアラスカを経由したかですが、
地球の形状から、アメリカ本土とアジアを最短距離で結ぶには
アラスカに北上する必要があると考えられたからでした。
このとき初めてリンドバーグが飛行機で飛んだことで、
新しく北極圏の航空路が開拓されたわけですが、皆様もご存知の通り、
現在でもアジアとアメリカを結ぶ旅客機のほとんどは
アラスカを経由するルートを飛行します。
前回アラスカ上空で撮ったiPhone写真
アメリカへの行き来の際、アラスカ上空をいつも飛行しているわけですが、
これがリンドバーグが最初に「パス・ファインダー」としての開拓の賜物で、
後世の我々はあまねく恩恵を被っていたということを今回初めて知りました。
今更ですが、ありがとうリンドバーグ夫妻。
で、このアン・モローの写真ですが、彼女がが着用しているのは、
「パーソナル・フライングエキップメント」。
彼女以前に飛行機に乗って極寒の地に飛んだ女性はなかったので、
全ての装備装具は彼女が自前で開発することになりました。
彼女が着用しているのは「ハドソンベイパーカ」「ハドソンベイキャップ」
そしてハンドメイドのストッキング型ブーツ、ミトン。
リンドバーグ夫妻がソ連のレニングラードに到着した時の装いです。
彼女が着ているからオシャレに見えますが、フライト用の実用スーツです。
何しろ飛行機には重量物を積むのはご法度、というわけで、
彼らは自分がフライトで着るアウターウェア以外に
それぞれたった18ポンド(8kg)の服しか持っていませんでした。
靖国神社での彼らの装いを見ると、夏服ですが、
フライトには完全防寒と風避けのため
大使館でのパーティ用の服もあったに違いありません。
今と違って軽い合成繊維の衣類などありませんから、
背の高いリンドバーグのスーツは重く、きっと一着を着回していたでしょう。
スミソニアンはこの「ハドソンベイ・シリーズ」現物を展示しています。
パーカは白のウールで胴のラインは黒。ポケットは二つ。
パーカには取り外しできるフード(左上)が付いています。
ブーツもウールで、これで歩くのはなかなか大変そうですが、
赤と緑の刺繍がなかなかかわいいですね。
ミトンもウールで、赤と青のメランジ風の編み込みがされており、
アン・モローがお洒落にこだわりを持っていたことが窺えます。
アン・モローが驚嘆したアラスカ山脈を越える瞬間を
後世の人が絵にしたものだと思われます。
アウチ。
リンドバーグ夫妻の飛行は最後まで順調でしたが、
中国の漢口で事故が起こります。
イギリスのエアクラフトキャリア「ハーミス」号から
シリウスを揚子江に降ろす際、片方の翼が船のケーブルに当たって
横転したまま川に転落してしまったのです。
ひっくりがえった愛機の上に半裸で乗って、点検しているのは
他でもないリンドバーグ本人です。
破損した飛行機はアメリカに戻さざるを得なくなり、
1931年のリンドバーグの飛行はここで終了となりました。
もしここで飛行機が破損しなければ、リンドバーグ夫妻は
もしかしたらこの後中国国内を何箇所か巡っていたかもしれません。
【1933年の飛行〜大西洋航路開拓】
パンアメリカン航空と他の四つの大手航空会社は、
商業用航空路の開発にビッグビジネスの活路を見出していたため、
リンドバーグに今度は可能な大西洋ルートの調査を依頼しました。
リンドバーグはパンアメリカンのテクニカルアドバイザーとしてニューファンドランドからヨーロッパへのルートの開発を目的とした
調査飛行に派遣されました。
この時の航路は大体以下の通り。
ニューヨーク→ニューファンドランド→ラブラドール
→グリーンランド→アイスランド
→コペンハーゲン→ストックホルム→ヘルシンキ
→レニングラード→モスクワ→オスロ
→サウザンプトン→パリ→アムステルダム→ジェノバ
→リスボン→バサースト(ガンビア)
→ナタール(ブラジル)→マナウス→サンフアン(プエルトリコ)
→マイアミ→チャールズタウン→ニューヨーク
ニューヨーク出発は7月9日、到着は12月19日でした。総飛行距離は3万マイル(4万8000キロ強)、
訪れた国は合計で21カ国にのぼりました。
この時彼らの調査で分かった気象条件と地形についての報告は、
航空会社が商業航空路を計画する上で大変貴重な資料となりました。
つまりこの時の調査飛行も、現在の航空会社の航路として生かされています。ありがとうリンドバーグ夫妻。
【ティングミサートクに積まれた装備と必要品】
リンドバーグ夫妻は、自分たちが歴史に名を残す存在であることを自覚し、
旅行のために用意した品々の大半を大切に保存していました。
スミソニアンではこれらを近年初めて公開し、展示について、
「リンドバーグの素晴らしい計画への洞察力を認識すると同時に、
旅行の時に持って行く荷物に頭を痛めたことのある来館者なら、
長旅のために彼が何を選んだかに共感することでしょう。 」
と自画自賛しています。そのグッズとは。
当時のグラノーラバー的な麦芽乳のタブレット
グリーンランドの氷冠に不時着したとき用、全長約11フィートの木製ソリ、
スノーシュー、アイスアイゼン
海に不時着したときのためのマストと帆をつけたゴムボート
虫除けや牛タンなどの食料缶色々
また、スミソニアンにはこんな展示もあります。
「これはなんでしょう?」と興味を引くように書かれた水筒のようなもの。
アームブラスト・カップといいます。
顔に装着することで、呼気の結露を飲み水に変えるという不思議なもので、
海に不時着するような非常時を想定したサバイバルグッズです。
飛行機には重量制限があるため、限られた量の水しか積めません。
リンドバーグは、大西洋単独横断飛行の前にこの新発明について読み、
1つ手に入れて持って行ったのです。
彼はこれをシリウス号での旅行にも持参していました。
シリウスでの飛行は順調だったので使われることはありませんでしたが、
いざという時のため、 重さに見合うだけの価値があると考えたのでしょう。
スミソニアンではこの物体の名称がいくつも表記があって、
どれが正しいのかわからなかったそうです。
アンの著書には"armburst "カップと書かれていましたが、学芸員が
この商品の特許を取った人物チャールズ・W・アームブラストの名前から
”Armbrust”が正しいことを突き止めたそうです。
でっていう話ですが。
リンドバーグがシリウスに搭載したものの中には、ソリ、
ピスヘルメット(イギリスの防暑用のヘルメット兼帽子、サファリ帽とも)
蚊除けネット・・と並べると奇妙な取り合わせがありました。
彼らは最も寒い気候の国を通り抜け、最も暑い国に移動したため、
(北極圏に近いところからアフリカ、ブラジルのアマゾンまで)
グリーンランドで氷冠に緊急着陸する場合に備えて組み立て式のソリ、
そしてアフリカやブラジル、南半球ではピスヘルメットで頭部を守り、
さらには虫から顔を守るためのネットも必要だったのです。
スミソニアンには、このロッキード・シリウスが陸上機だった時の
ホイールタイヤが展示されています。
タイヤはグッドリッチ・シルバーストーンというメーカーによるものです。
現在はミシュランのブランドの一つ、「グッドリッチ」となっています。
同じくホイールカバー(英語ではホイールパンツというらしい)。
【チーム・リンドバーグ】
二人の後ろに船員らしき男性の姿が見えていますが、これは
1933年の飛行旅行の際、チャーターされたデンマークの蒸気船、
SS「ジェリング」Jellingの船長ではないかと思われます。
リンドバーグ夫妻の調査旅行に随伴した「ジェリング」は、
調査を依頼したパンナムがチャーターしたもので、リンドバーグの飛行を
燃料などの補給やサポートすることを目的に、カナダの探検飛行家で、
パンナムの社員だったロバート・ローガン指揮するチームが乗っていました。
「ジェリング」は地図で緑色の線で記されている航路を航行して
その間シリウスの後を置い、同時に海上で調査プロジェクトを行い、
気象条件の観察、空港候補地の地図作成、海の深さと潮流の科学測定、
港の地図作成なども行っていました。
このことはパンアメリカン航空の社史のページに、
次の動画とともに掲載されています。
With Charles and Anne LIndbergh in Greenland, 1933
写真でアンが抱えているのは無線機器です。
1931年と1933年のフライトで、彼女は無線手順、モールス信号、
そして天体航法までを完全にマスターしていました。
このフライトで妻に遭遇させるかもしれない「潜在的危険」について
記者に尋ねられたリンドバーグは、このように答えています。
「しかし、覚えておく必要があります。
彼女は乗員であるということです」
すでに彼女は同伴者ではなく、フライトチームの一員である、
ということを言いたかったのでしょう。
続く。