少し間にお休みを挟みましたが、映画「ハワイ・マレー沖海戦」の続きです。
冒頭の画像は、すでに予科練を終え、下士官となった義一が「最上の名誉」と自ら言う、
「母艦機乗り」として母艦に向かうランチの中、決意に燃える眼差しを捉えたカット。
この映画の監督は、この、決してハンサムとは言い難い、
世間的には素朴な容貌をした俳優の、最も凛々しく美しい瞬間を捉えるのが巧く、
無名のまま招集されて戦死してしまったこの伊東薫という俳優にとって、
本作は餞(はなむけ)でありほとんど唯一の「俳優であった証」になっています。
さて、この友田義一が予科練に入隊したのは昭和12年(1937)という設定です。
彼が予科練で厳しい訓練を受けている間に、世界は激動し、日本という国が
戦争に突入していくわけですが、この映画はさすが官製、
当時において歴史の流れを見る人にわかりやすくポイントで解説してくれます。
飛んだり跳ねたり泳いだり剣道したりツートンしたり、という予科練の実際の訓練映像に、
日中戦争開始から2年間の主な出来事をタイトルにしてくれているんですね。
これはとても親切。
まず7月7日の盧溝橋事件を報じる新聞を予科練生が見ることに始まり、
「上海事変」の字幕が現れ、続いて
特に1937年(昭和12年)に勃発した第二次上海事変において、
海軍が上海租界の海軍陸戦隊や第三艦隊、現地の居留民を支援するために行った長距離爆撃を
渡洋爆撃の名でセンセーショナルに報道されて以後有名となりました。
・・・ということは義一が予科練入隊したのは遅くとも昭和11年?
上海事変が拡大するとき、通州事件が起こりました。
広安門事件とともに日本人の犠牲者が出、民間人を含む230名が惨殺されたため、
交戦は拡大されたとされます。
最近また南京攻略のときの日本軍による中国人殺害が10万単位で増えたそうですが(笑)
中国や南京に博物館を建てた日本の左翼にはこの事件について何かコメントを聞きたいですね。
日独伊防共協定は、1937年イタリアの加入によって日独二カ国から三国に拡大した、
「反ソ」「反共」を目的とした協定。
この後「南京陥落」、そして昭和13年、徐州会戦。
国民党軍とのあいだで徐州を勝ち取ったこの戦闘には、
前にも書きましたが、東久邇宮 稔彦王が参戦しています。
若き日フランスではモネに絵を習ったり愛人との生活に耽溺するなど自由奔放で
度々その行いにより臣籍降下を自ら願い出たり検討されたり、
あるいは戦後「一億総懺悔」を唱えて自由主義者と言われたこの皇族軍人ですが、
このときは陸軍大将として第二軍の指揮をしました。
フランス留学のときにクレマンソーに米国が日本を潰そうと野望を持っていることを聞かされ、
帰国してから日米開戦を留まるようを関係各所に説いて回ったそうですが、
西園寺公望以外はだれも耳を傾けてくれなかった、というエピソードがあります。
そして
「ミュンヘン会議」
「バイアス湾敵前上陸」
「広東陥落」
バイアス湾とは中国南部、南支那海に面する湾で、もともと海賊がおり、
中国の軍部が割拠する地域でしたが、日中戦争中の1938年、
陸軍がここに上陸を成功させました。
続いて
「汪兆銘和平」
「日英会談」
汪兆銘は、蒋介石ら中国首脳陣が奥地に逃げてしまった時期に、
実質的な行政を行った人物で、犬養道子さんがその想い出で語るように
知日派で、日本と平和的な解決を求めて交渉に努めた良識的な政治家でした。
しかし戦後、中国の平和を想い日本との架け橋となっていたおかげで
「漢奸(漢民族を裏切り他国のために尽くした賊の意)」の汚名を着せられ、
つい最近まで「皆が唾をかけたり蹴ったりして辱めるための屈辱的な銅像」
があったそうです。
近年、彼の評価が変化しつつあり銅像は2002年に撤去されました。
杭州でも誰か忘れましたが夫婦で罵られている銅像があり、観光客が
蹴ったりしているのを見たことがありますが、日本人にはどん引きする光景でした。
やっぱりこの人たちとはつき合えんわ。(結論)
ノモンハン事件は1939年日ソの間に発生した国境紛争。
これらを紹介しながら、義一の予科練生活が過ぎていったことを暗示します。
そして・・・。
友田善一の実家にはお手伝いが来て正月の用意。
父親はすでにいませんが、決して貧農というわけではなさそうです。
お正月に備えてついた餅をこねる姉妹。
前回「九段の母」でお話しした、
「どうせあの子はうちの子じゃないんだもの」
という母の言葉を聞いて眉を曇らせる妹うめ子。
このうめ子を演じているのは加藤輝子という女優ですが、
目の大きな可愛らしい顔立ちはこうして並ぶと原節子の妹と言っても
そうおかしくはありません。
「原節子が美人すぎて全く似てない」
なんていってごめんなさい。
とかなんとか言った瞬間タイミングよく義一が帰宅。
義一は扉を開けるなり奥を探すような仕草をしますが、
これもまず真っ先に「母親の居場所を確かめた」という演技でしょう。
そして、彼が帰省に着ているのはジョンベラといわれる水兵服ですが、
これが当初予科練の制服でした。
「飛行士官になれるというから入ったのに、予科練の制服がジョンベラだった」
というのが、一時予科練生の間では大いなる不服でした。
もちろんそれだけじゃありませんが、あまりにも反発が大きく、
ストライキを起こす期生もいたりして、あわてて海軍が
取りあえずこのジョンベラを廃止したのは1942年(昭和17年)11月。
友田練習生が予科練在隊中に帰省するのは1941年、つまり「ハワイ・マレー沖海戦」
より前のことであるので、こういう姿なのです。
「お母さん、ただいま帰って参りました!」
敬礼する息子の姿を信じられないものを見る目で見ていた母は、
そののち顔を綻ばせ、ようやく微笑みを浮かべます。
「まあ・・・・・良く帰って来たね」
「はぁ」
答えた義一は、まるで涙が出るのを見せまいとするかのように、母親からくるりと背を向けます。
息子のために用意した着物が短すぎたのを
感慨深げに眺める母親。
「こんなに大きくなるとは思わなかったものねえ」
もう息子さん二十歳なので成長も止まっていると思うんですが・・・。
息子のお土産は霞ヶ浦のワカサギ。
有り難そうに押し頂く母親。
義一のこれまでの予科練生活は基礎訓練で、
彼が念願の飛行機に乗ることが出来るのはこの後なのです。
「まだ飛行機乗ったことないの?」
「ないさ。予科練だもの」
「あら変ね。これには航空隊って書いてあるのに」
なぜか帽子のペンネントを義一にではなくカメラに向けるうめ子。
ペンネントには霞ヶ浦海軍飛行隊と書いてあります。
霞ヶ浦の練習航空隊の桜。
白黒のフィルムでもその満開の桜の美しさが偲ばれます。
いよいよ航空訓練が始まるのです。
この映画が貴重なのは、他の国策映画同様気前よく実機の映像が出てくること。
九三式中間練習機
通称赤とんぼです。
もしカラーであれば赤というよりオレンジに機体が塗られているのがわかるのでしょう。
前に友田練習生が乗って指導を受けています。
このシーンは、地上での撮影と、実際の飛行機からの撮影を組み合わせ、
本当に訓練風景を撮影しているようにしています。
機上からの映像にはしっかりと筑波山が映っています。
「筑波山に向かえ〜」
「筑波山に向け〜」
と指示、応答しているシーンの字幕は
「向著山前進」
となっていて、中国人翻訳者が「筑波山」を聞き取れなかったらしいことがわかります。
翻訳するなら少し予科練について調べれば筑波山くらいすぐ分かるのに・・・。
ついでにこのあと友田が「よーそろ〜」といいますが、これも中国語字幕では
「対準目標」
となっていて「宜しく候」が変化した「ようそろ」が理解できなかったようです。
「ようそろ」をもし外国語に訳すなら、英語なら「go ahead」、
あえて日本語でいいかえると「そのまま〜」でしょうかね。
それを考えると「対準目標」でも間違ってはいないか・・。
そして着陸するのですが、そのさいバウンドし、見ていた教官が
「あんなのは着陸じゃないぞ」
とあざ笑います。
この分隊長は、何が気に入らないのか、報告のやり直しを命じます。
着陸のワンバウンドはともかく、わたしにはこの報告のどこがいけないのか分かりませんでした。
何だ何だ、パワハラか?
この後も、
「飛行作業さえ出来れば一人前の操縦者になれると思うのは大間違いだ!」
とおなじみの精神論が待っています。
叱られながら、上級者の編隊飛行を皆で眺めるの図。
「早くあんな風に飛びたいなあ・・・・」
家族が義一からの手紙を読むシーンが度々現れ、これによって彼の訓練の進捗状態の説明がなされます。
「わたくしの役目は魚雷を抱いていって敵艦にぶつけるのが専門です」
つまり義一が艦爆か艦攻を専攻したということがわかりますね。
というわけで彼は母艦に着任し、そこで母艦パイロットとしての訓練が始まるのですが・・・・。
続く。