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チャールズ・リンドバーグの光と影〜スミソニアン航空博物館

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リンドバーグについて書いている途中に渡米してしまったため、
取り残されてしまっていたシリーズ最終回をお届けします。




さて、リンドバーグが大西洋を横断した歴史的な飛行機は、旅行直後、
彼自身が寄贈したことでここスミソニアンに完璧な形で残されています。
「歴史的航空遺産」の一つとして展示されている航空機に付けられた
説明をそのまま翻訳しておきましょう。


ライアンNYPスピリット・オブ・セントルイス

史上初のノンストップ単独大西洋横断飛行

1927年5月21日、チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、
ニューヨーク州ロングアイランドのルーズベルトフィールドからパリまで、
ライアンNYP「スピリット・オブ・セントルイス」で飛び、
史上初のノンストップ大西洋横断飛行を達成しました。

飛行距離は5,810キロメートル、所要時間は33時間30分です。

このフライトで、リンドバーグはニューヨークのホテルオーナー、
レイモンド・オルテイグがニューヨーク-パリ間を大西洋直接横断する
最初の飛行士に提供するとした2万5千ドルの賞金を獲得しました。

リンドバーグは、パリのル・ブルジェ・フィールドに着陸した瞬間、
何十年もの間世界に語り継がれる世界的な英雄になったのです。
飛行の余波は航空業界の「リンドバーグブーム」となって現れました。

その結果、航空業界の株の価値は上がり、人々の
飛行への関心が急上昇しました。

リンドバーグが「スピリット」で行ったアメリカ国内、そして
中南米へのツァーは、飛行機という輸送手段がいかに安全で、
信頼できるかを実証することになったのです。

*チャールズ・リンドバーグ寄贈

翼幅 14m
全長 8m
高さ 3m
総重量 2,330kg
重量(ガソリンなし)975kg
エンジン ライト ウィールワインドJ-5C、223hp
製造 ライアンエアラインズ株式会社



ライアンエアラインズの社長は前にも書いたように
マホニーという人物ですが、この名前は現在全く無名です。

彼は社名をのちに「マホニーエアクラフト」に変えましたが、
1929年の株の暴落で財政的に苦しみました。
航空業界でそれなりに活躍したのですが、リンドバーグの時ほど
成功することはなく、若くして心臓病で世を去っています。

ライアンの名前を冠した「スピリット・オブ・セントルイス」は
世界で一番有名な飛行機だったのに、そのオーナーが無名なのは、
彼が社名を変えるのが数ヶ月遅かったからだと言われています。

この飛行機の横にもしライアンでなく「マホニー」とついていたら、
彼の存在そのものも重要なパイオニアとなっていたかもしれません。

その他、この飛行機についてのスミソニアンの記述を書いておきます。


飛行機にはフロントガラスがないことに注意してください。
燃料タンクを大きくしたために、フロントガラスが犠牲になったのです。

前方が見ることができないため、リンドバーグは飛行中
側面の窓からしか外界を見ることができませんでした。
うーん、これ、前も書きましたが、
単独飛行に挑戦する飛行機がこれってかなり辛かったんじゃないか?


しかも窓ってこんな窓ですよ。
飛行機には左側にペリスコープが付けられていて、
それで前方を見ることができたとはいえ、これは辛い。
しかし、それにもかかわらず偉業を成し遂げたリンドバーグは、
愛機についてこのように語っています。
「わたしにとって、スピリット・オブ・セントルイスは
未来に焦点を当てたレンズそのものであり、
時間と空間を整復するメカニズムの先駆者でもありました」
それもこれも、彼が大西洋の横断の時に失敗しなかったから言えることです。


こうして見ると尾翼の形が変わっています。

劇的なデモンストレーション

一つの都市から別の大都市へと大西洋上を直接飛行することで、
リンドバーグは、長距離はもはや障害ではなく、それどころか
長距離の空の旅の可能性が急速に現実になりつつあることを示しました。

リンドバーグがパリに上陸した瞬間、すべてのアメリカ国民は
彼自身と航空というツールに夢中になりました。

同時に、「航空の時代」が到来したのです。


アメリカ人の中でも頭ひとつ背が高かったリンドバーグ。
スピリット・オブ・セントルイスの高さは3mですから、
それから考えても2メートル近くあったのではないかと思われます。

グレゴリー・ペックやジェームズ・スチュアートでも
190センチはあったといいますから、彼がそれ以上でも驚きませんが。

彼がカリスマ的人気を得た理由は、ルックスはまあまあながら、
アメリカ人としても長身痩躯だったのが大いに関係あると思います。


1927年5月20日の午前7時52分、ザ・スピリット・オブ・セントルイスは、
土煙の中、ルーズベルト・フィールドからパリに出発しました。

そして33時間と30分後、着陸したことになります。
前にも書いたように、朦朧として幻覚を見ながら、
無事に間違いなくパリに着陸できたというのが凄いと素直に思いますが、
もっと凄いのは、彼は離陸前、丸々24時間寝ていなかったということです。

どういう事情があったのか、興奮して寝られなかったのか、
準備が間に合わなかったのかはわかりませんが、要するに
ざっと60時間横になっていない状態だったということになります。

飛行中は細切れに睡眠を取りながら飛んでいたとしても、
よくその状態で失速とか決定的な失敗をしなかったなと思いますね。

しかも、到着後、すぐに横になれたとは思えません。
老人ならともかく、若い彼にはそれだけで大変な苦行だったでしょう。
もし「スピリット」の仕様がもう一人バックアップを乗せられるもので、
睡眠をとることができたとしても、快挙には違いありませんが、
結果として一人で成し遂げた栄光に及ぶものではなかったと思われます。

アメリカへ帰国したスピリット・オブ・セントルイス号。

スピリット・オブ・セントルイスは、リンドバーグを帰国させるためにクーリッジ大統領がヨーロッパに派遣した
巡洋艦USS「メンフィス」に乗ってフランスから米国に戻りました。

機体は「スーベニア・ハンター」から守るため、
ワシントンDCのヘインズポイント沖のはしけの上に展示されました。

どういうことかというと、地上に展示した場合、
こっそり何かを持ち帰る輩がきっと現れるに違いない、
と警戒されたという意味です。

海の上なら近づけませんし、たとえ近づいても
怖い海軍のお兄さんたちが守ってくれるでしょう。

そして彼はワシントンD.C.で英雄として歓迎を受け、そこで議会から
主君飛行十字章と、特別議会名誉勲章を授与されました。



リンドバーグの大西洋横断成功に対して発行された
オルテグ・プライズ、2万5千ドルの小切手。

特別に印刷された小切手であることは、左上にリンドバーグが乗った
スピリット・オブ・セントルイスが印刷されていることでわかりましょう。

インクは特別に発光するものが使われています。
小切手の縁の外側には栄光を意味する月桂樹の葉があしらわれています。

現在も存在するブライアントパーク銀行の発行となっています。

リンドバーグが小切手を現金に換えた後も、
銀行は歴史的な資料としてこの実物を保存していたようですが、
のちにスミソニアン博物館に寄付されました。

説明がないのでわかりませんが、ニューヨークに
「メンフィス」がリンドバーグを乗せて到着してきた時の騒ぎでしょう。
右の方に水を撒き散らしている船がいますがこれは何?


「チッカーテープ」が舞うニューヨーク市街の凱旋パレード。
リンドバーグが帰国してから行われたものです。

しかし、いつ見ても陰鬱そうな顔をしていますね。



小売人はお土産や記念品を販売することで彼の名声を利用しました。

写真は、スミソニアンが所蔵している「リンドバーググッズ」
コレクションで、これだけでも大変な数となります。

不鮮明ですが、リンドバーグのキューピー人形や、
まるでイコンのように後頭部に輪を乗せた絵を額に入れたものなど、
さまざまな形でアイコンとなったリンドバーグ便乗商品の数々です。


■ アン・モロー・リンドバーグ



リンドバーグ夫妻が日本への訪問を含む飛行旅行を行い、
それについてアンが書いた本「ノース・トゥ・ザ・オリエント」(1935)、
そして「リッスン!ザ・ウィンド(風よ!聴け)」(1938)は
実際に彼女がシリウスに乗って体験した事柄が人々の興味を惹き、
大変なベストセラーになりました。

作家のシンクレア・ルイスは、「ノース・・」について、
「かつて書かれた最も美しく偉大な心を持つ本」
と絶賛しています。

彼女はその中でほとんどのアメリカ人が経験し得ない異国での
文化的なイベントやそこでのライフスタイルについて語りました。
アラスカ州ノームでのボートレースについては次のように書かれています。

「レースに参加する予定だった3人の男性は、
キャクス(kyaks、カヤックのミススペル)に押し込まれました。

(男性が座っている場所を除いて、ネイティブのボートは
完全にアザラシの皮で覆われていました)

次に、水が入らないように、それぞれがパーカーのスカートを
開口部の木製の縁の周りに結びつけるのです。

そうすると、まるでギリシャのケンタウルスのように、
人と船が一つになるのでした」


ケースの中には彼らが訪れた各国のコインがあります。
穴が空いたのは、ノルウェイの1クローナ硬貨だそうです。


右側の銅色のメダルは、ナショナル・ジオグラフィックソサエティからアン・モロー・リンドバーグに贈られたハバードメダル(ブロンズ)です。

この裏面にはリンドバーグの飛行コースが、北南米、ヨーロッパ、
アフリカのレリーフ地図に示されています。

■ 第二次世界大戦でシマダ・ケンジ大尉を撃墜

FDRと決定的に決裂し、陸軍を退役したリンドバーグでしたが、
真珠湾攻撃後は陸軍航空隊への再就職を希望していました。
しかし、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンはホワイトハウスの指示で
この要請を断っています。

ある歴史家は、もしルーズベルトと仲違いしていなければ、
リンドバーグはのちに将軍になれたかもしれないと言っています。

入隊を断られたリンドバーグは、諦めませんでした。
彼の視線は常に空にあったのでしょう。
多くの航空会社に接触した結果、1942年にはフォードの技術顧問として、
B-24リベレーター爆撃機のトラブルシューティングに関わっています。

1943年にユナイテッド・エアクラフトに入社し、
チャンス・ヴォート部門のコンサルタントを行いました。

そして翌年、ユナイテッド・エアクラフト社を説得し、
戦闘状況下での航空機の性能を研究するため、
ついに技術担当者として自分を太平洋戦域に派遣させることに成功します。

彼は、アメリカ海兵隊航空隊のために、ヴォートF4Uコルセア戦闘爆撃機が
2倍の容量の爆弾を搭載して安全に離陸する方法を実演しています。

当時、いくつかの海兵隊飛行隊が、
オーストラリア領ニューギニアにある日本軍の拠点、
ニューブリテン島ラバウルを破壊するために、
現地で爆撃機の護衛に当たっていました。

1944年5月21日、リンドバーグは最初の戦闘任務に就き、
ラバウルの日本軍守備隊の近くでVMF-222と一緒に空爆を行ったり、
またブーゲンビルからVMF-216とも飛行しています。

リンドバーグが任務に出たとき、ロバート・マクドナー中尉という搭乗員が
護衛に指名され、一度は一緒に飛んだのですが、彼はその後、

「リンドバーグを殺した男」

になるのを恐れ、任務を2度と引き受けませんでした。
日本と違って、任務を拒否できるのが、なかなか民主的な軍隊ですな。

っていうか、リンドバーグ、結構海兵隊に気を遣わせてたってことですよね。
さぞかし周りは内心迷惑くらいに思ってたんだろうて。

しかし、1944年の太平洋での6ヶ月間、リンドバーグは日本軍基地に対し
戦闘爆撃機の空襲に参加し、50回もの戦闘任務に就いています。

海兵隊エース、マリオン・カールと一緒に歩いていた写真もこの頃のです。

その後彼はロッキードP-38ライトニング戦闘機の運用を刷新し、
支援するダグラス・マッカーサー元帥に感銘を与えることになります。

この変革で、P-38の巡航速度での燃料消費は大幅に改善され、
長距離任務が可能になったと言われています。

リンドバーグと共に行動したアメリカ海兵隊と陸軍航空隊のパイロット達は
ことごとく彼の勇気と彼の愛国心について称賛しました。

実はこのとき彼は日本軍機を撃墜しているらしいのですが、
この搭乗員の名前が現在ではわかっています。

1944年7月28日、第433戦闘飛行隊によるP-38爆撃機の護衛任務中、
リンドバーグは第7飛行士団独立飛行第73中隊(軍偵)の指揮官である
シマダサブロウ大尉が操縦する三菱キ51「ソニア」観測機を撃墜しています。
三菱キ51「ソニア」観測機は陸軍の攻撃機、九九式襲撃機のことです。

このシマダサブロウ大尉についての日本語での記録は見つからず、
代わりに英語サイトで結構詳しく書かれていたのでそれを書いておきます。
ただし、こちらではサブロウは間違いで、「シマダケンジ」とあります。

日本語ではさらに「島田三郎中尉」とされていて、どちらが正しいか
もう少し調べないとわかりません。

第七十三旭日中隊

パイロット シマダ・ケンジ大尉
偵察員(MIA / KIA)
1944年7月28日墜落

航空機

三菱製造
キ51A偵察型かキ51B強襲型かは不明
日本陸軍航空隊に99式突撃偵察機/キ51ソニアとして配属され、
製造番号は不明

第73独立飛行連隊に編入される
本機は、上面が緑、下面が灰色の斑模様の塗装である
マーキングや機体記号は不明。

シマダケンジ大尉軍歴

1944年7月28日、
日本陸軍第35師団をソロモンに輸送する船団を護衛した後、
撃墜機捜索のため同じくキ51ソニアのパイロット横木軍曹と共に離陸した。
セラム近くのアマハイ島にあるアマハイ飛行場に戻る途中、
第49戦闘航空群第9戦闘飛行隊のP-38ライトニングに迎撃された。

島田が操縦するKi-51ソニアは単独で30分にわたりP-38を回避し続ける。
一方、無線で迎撃を聞いた第475戦闘航空群、第433戦闘航空隊のP-38は、
午前10時45分、天拝飛行場付近で戦闘に参加する日本機を探した。
3,000フィートから急降下旋回したP-38は、
発煙を起こすほどの撃墜を記録した。

被弾しながらも、このSoniaは激しく左旋回し、
Danforth "Danny" Miller大尉の操縦するP-38から発砲を受けたがかわす。
旋回を終えたSoniaは、
Charles A. Lindberghの操縦するP-38Jに向かって飛び込んだ。

リンドバーグは真正面から6秒間砲撃し、エンジンに命中したのを確認するが
上空に退避することを余儀なくされた。

煙に巻かれたソニアは半回転し、
ジョセフ・E・"フィッシュキラー"・ミラー中尉の操縦するP-38が発砲、
片翼に命中し海に墜落するのが確認された。

その後、このソニアはリンドバーグの功績となり、
彼の最初で唯一の空中戦勝利のクレジットとなった。

リンドバーグの戦闘参加は1944年10月22日の
『Passaic Herald-News』の記事で明らかにされた。


■ 二重生活とドイツの隠し子

1957年から、リンドバーグはアン・モローとの結婚生活を続けながら、
3人の女性と長い間関係を持っていました。

バイエルン州の小さな町ゲレッツリートに住んでいた帽子職人、
ブリジット・ヘシェイマー(1926-2001)との間に3人の子供を、
また、グリミスアトに住む画家の妹マリエットとの間に
2人の子供を、そしてヨーロッパでの私設秘書だった東プロイセンの貴族、
ヴァレスカとの間に息子と娘(1959年と1961年に生まれた)を、と、
主にドイツで子孫を残しまくっていました。

どうにも感心しないのは、亡くなる10日前、
ヨーロッパの愛人たちそれぞれに手紙を書き、自分の死後、
彼女たちとの不倫関係を極秘にするよう懇願していたことです。

と言うわけで、ドイツの子供たちは、全員が私生児として育ち、
皆、自分の父がリンドバーグとは知らずに育ちました。

後年、自分の出自に疑問を持ったドイツの娘の一人が、
リンディの写真やラブレターを発見し、その後2003年にはDNA検査によって
リンドバーグが父親であることが確認されるという、
なんだか本人にとって情けない話になっています。

リンドバーグはそのうち科学の発展によって、そう言ったことが
全て明るみに出るとは思わなかったのでしょうか。
思わなかったんだろうな。
そのことを知ったアンとリンドバーグの娘、作家のリーヴは、
そのことについてこのように述べています。

”These children did not even know who he was!
He used a pseudonym with them
(To protect them, perhaps? To protect himself, absolutely!)"

子供たちは彼が誰だったかすら知らなかったのです!
彼(父)は彼らに偽名を使っていました。
(子供達を守るため?いや、自分を守るためでしょう!)


■死去
リンドバーグは晩年をハワイのマウイ島で過ごし、
1974年8月26日にリンパ腫のため72歳で死去しました。

彼の墓碑銘は、

「チャールズ・A・リンドバーグ
ミシガン州 1902年生まれ マウイ島 1974年没」

という言葉に続くシンプルな石に、詩篇139篇9節を引用しています。

「もし私が朝の翼を手に入れ、海の果てに住むならば」


リンドバーグシリーズ  終わり





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