ミシガン州マスキーゴンにあるシルバーサイズ潜水艦博物館。
まずは潜水艦「シルバーサイズ」ではなく、前庭に艦橋のある「ドラム」、
「シルバーサイズ」の隣の沿岸警備隊のカッター、そしてなぜか
入口を入るとすぐに現れた触雷潜水艦についての話になりましたが、
これはまあいわゆる前座的な潜水艦の世界への導入とお考えください。
沿岸警備隊のカッター「マクレーン」についても、ここにある理由として
アラスカで日本軍の呂32号潜水艦を撃沈したとされるから、
ということだと理解することにしましょう。
もっとも、前回も説明したように、これはアメリカ側の誤認で、
「マクレーン」が撃沈したのは呂32ではなく、それどころか、
本当に撃沈したという証拠もないということがわかったわけですが。
潜水艦博物館的にはそうであってはあまり好ましくないので、
訂正された情報を頑なに受け入れず、展示のアップデートもしていない、
ということが重々理解できたところで、次に進みます。
■真珠湾攻撃〜全ての始まり
「シルバーサイズ」と潜水艦隊を語るために、まずこの博物館は、
真珠湾攻撃が全ての始まりだったとする解釈のもとに、
(それまでの両国の関係、歴史的経緯などに対する考察はスッパリとなしで)
アメリカの潜水艦隊が、第二次世界大戦にどのようにその力を求められ、
最終的にはアメリカの勝利に寄与したか、という流れを構成しています。
日本人であるわたしがアメリカの軍事博物館に立って、
諦めにも似た無力感に苛まれるのが、こういうアメリカの意志を見る時です。
なぜならわたしは、戦争という国益のぶつかりあいにおいて、
歴史を刻むのは勝者であり、そのことは神の目から見るところの
「善悪」とは何の関係もない、という考え方に立っているからです。
そもそも戦争が始まるに至る経緯について、
よほど中立を意識する、スミソニアン博物館のようなところでもない限り、
アメリカ側の正義に立ってしか語られることはないというのが
わたしがこれまで見てきたアメリカの軍事博物館の基本的姿勢であります。
それでも毎回こうやって地方の軍事博物館を訪れるたび、
もしかしたらアメリカという大国のどこかに、
戦争という普遍的なものが、ただパトリオティックな立場からではなく
科学的に論じられている場所があるのではないかと
心のどこかで期待している自分がいるのです・・・・
・・と言うようなドリーマー的ポエムはそこそこにして。
ここシルバーサイズ潜水艦博物館の説明は、先ほども言いましたように、
真珠湾攻撃から全てが始まったとされ、その解説に力を入れています。
日本帝国海軍の機動部隊がその日どうやって真珠湾を攻撃したか。
このパネルでは、空母から発進した航空隊の航路を図解で示しています。
「奇襲攻撃は午前7時48分に始まりました。
当時、日本の代表団はワシントンで介入しないことを交渉していました。
どうやらそれは我々の軍隊の不意を突くためだったのです。
策略はうまく働きました。
353機の日本軍の戦闘機、艦攻、艦爆機が真珠湾に降下し、
それが午前9時30分に終了したとき、2402人のアメリカ人が殺害され、
8隻の戦艦が沈没又は深刻な損傷を受け、
数百機の航空機が損傷又は破壊されました。」
開戦の際の通知が、現地大使館の不手際により、攻撃より後になり、
その結果意図せぬ国際法違反になったこと。
そしてその前段階で、日本に最後通牒として突きつけられたハルノート。
これらは歴史的にも検証されていることであるにもかかわらず、
ここではそういった日本側の事情や言い訳は全く斟酌されることなく、
とにかく日本が悪いという姿勢を清々しいくらいきっぱり貫いています。
「介入しないことを交渉していた」とおっしゃっていますが、
ハルノートという名の事実上の最後通牒を、アメリカが突きつけてきたのは
まさにそのワシントンではなかったでしたっけ。
ま、いいんですけどね。
ミシガンの田舎で歴史的な中立を叫ぶ気はわたしにも全くありません。
とはいえ、この部分の展示、日本側が真珠湾攻撃を行った時の経緯は、
非常にわかりやすく、段階的にまとめられており感心しました。
ある意味、今まで見てきた真珠湾攻撃の資料の中で
一番わかりやすく時系列が語られているような気がします。
まず、下の地図からご覧ください。
日本列島とハワイが線で繋がれ、攻撃までの動きが
番号に従って説明されています。
1、山本五十六提督が率いる攻撃の秘密の計画は、
41年初頭から海軍の艦隊本部で開始されました。
目標は迅速な日本の勝利であり、アメリカの艦隊が、オランダ領東インドと
マレー半島の日本の征服に干渉するのを防ぐのが目的です。
日本軍は、主要な米艦隊のユニットを破壊することによって、
彼らの海軍力を高め、侵攻を強化する時間を手に入れんとしました。
2、11月22日までに攻撃隊は日本の北、千島列島の単冠湾に集まりました。
3、南雲忠一提督が指揮を執る機動部隊は、11月26日に出発し、
連合国からの探知を回避するために北ルートをたどりました。
艦隊には「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
の六隻の空母が参加していました。
4、機動部隊は12月3日、油槽船団から洋上補給を受けました。
5、艦隊は、12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前8時に攻撃を開始しました。
2400人以上の人員を殺害し、8隻の戦艦を沈没又は損傷せしめ、
数百機の航空機を使用不可能にしたのち、午後3時までに離脱しました。
この攻撃はアメリカ海軍と真珠湾に破壊的な大混乱をもたらしました。
6、12月16日、空母「蒼龍」と「飛龍」が帰還した艦隊から分かれ、
ウェーク島の攻撃に加わりました。
7、残りの艦隊は12月23日に日本に帰着しました。
8、ワシントンにいた日本の代表団は勾留されましたが、
1942年に日本に帰国を許され釈放されました。
1、艦隊は12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前6時に攻撃を開始しました。
日本の艦隊本部から無線で送信された命令は、
「ニイタカヤマノボレ」
408機の航空機が二波の攻撃によって熱帯の朝の空に唸りを上げました。
2、日本の潜水艦は、オアフに「ミゼット・サブ」を運んでいました。
(特殊潜航艇のこと)
午前1時、それらは真珠湾に潜航するために発進を行います。
最初の潜航艇は午前3時42分に駆逐艦USS「コンドア」に発見され、
6時37分に撃沈が確認されました。
これが太平洋戦争におけるアメリカの最初の「1発」となりました。
しかしこの出来事にもかかわらず、アメリカ側で警戒警報は発令されず、
アメリカ軍もまた全くこれらに対応することをしなかったため、
迎撃も行われず、日本軍の波状攻撃を易々と許したのです。
3、183機の最初の攻撃波は、午前7時48分に真珠湾に到着し、
攻撃という名の破壊を開始しました。
この攻撃で艦爆と艦攻がアメリカの戦艦を沈めました。
4、さらに多くの水平爆撃機と急降下爆撃機を含む
第二波の171機が、午前8時50分に到着しました。
この時までに第一陣の攻撃隊は艦隊に戻っていました。
5、空襲の総指揮官である淵田美津雄少佐は、
午前11時に偵察飛行を開始し、戦果を確認してから
午前1時に艦隊に戻って、報告を行いました。
6、淵田は、艦隊をすぐに帰還させるのが最善であると決定した
南雲忠一提督と、第三波攻撃について話し合いました。
最初の2回にわたる攻撃は大きな犠牲を私いました。
日本軍は真珠湾の攻撃そのものには成功したものの、
最もターゲットとすべきアメリカの三隻の空母の位置がわからず、
さらに天候は悪化しつつあり、今やアメリカ軍の防衛と警戒体制は
最初と違いより緊密なものへとなってきています。
さらに、第三波の攻撃は100機以上の飛行機に燃料を補給する必要があり、
それが日没後に行われなければならなくなっていました。
日本軍の機動部隊は、確実な夜間の作戦手順を開発しているべきでした。
もし第3回目の攻撃が行われていたら、それは
アメリカ軍の潜水艦をノックアウトし、燃料補給中のそれを炎上させ、
さらに造船所を無力化させた可能性がありましたが、
それには日本側のリスクはあまりに大きく、
数十機の航空機を失うことになり、南雲はそれを懸念したのでした。
■ そしてアメリカ潜水艦隊は
そして、この「サドンリー・アット・ウォー」を受けて、
潜水艦隊がどうなっていったか、と話が続くわけです。
「1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃は、
アメリカを第二次世界大戦に突入させました。
当時アメリカ海軍の太平洋水上艦隊は非常に弱体化していたため、
55隻の潜水艦は日本の領土内で活動できる
唯一の攻撃部隊として
就役を余儀なくされたのでした」
アメリカが随分と受け身で一方的な被害者として語られていますね。
それはともかく、水上部隊が弱体化していたというのは、
ワシントン軍縮条約の結果を受けて、ということでよろしいか。
というわけで、戦力の重きが潜水艦に置かれていったということなのですが、
ここでアメリカ海軍の潜水艦戦術についての説明があります。
やっぱりここは潜水艦博物館ですのでね。
【アメリカ軍の潜水艦技術】
Torpedo Direction Computer(TDC)
は、1940年から41年にかけて開発されていました。
そのメカニズムによって、移動する潜水艦から移動するターゲットに
魚雷を命中させるデータが魚雷の誘導システムに搭載されるようになります。
これは、必要なデータを入力した瞬間に魚雷を発射できるため、
潜水艦の戦術を簡略化することができました。
Target Bearing Transmitter(TBT)は、
オペレーターが夜間の消灯時にブリッジからターゲットのベアリングを感知し
乗員に送信することができました。
このデータを使用して彼らはTDCを設定し、魚雷を発射するのです。
暗視潜望鏡(The Night Vision Periscope)
は、1942年に使用されるようになった、強力で非常に人気のある
目標補足装置であり、さらに大幅に改良されたものは
1944年から使用されるようになりました。
第二次世界大戦の太平洋戦線での1941年から2年までの状況です。
番号のついたところで日米の戦闘が行われています。
1、真珠湾
日本の空爆では潜水艦基地は攻撃を免れ、
港の4隻の潜水艦は無傷のままでした。
当時、フィリピンのペアトに27隻の潜水艦、カビテに28隻の潜水艦がおり、
平時のパトロールと偵察の訓練を受けていましたが、
多くは戦時中の攻撃などの戦術に移行することができませんでした。
このため、135名の潜水艦長のうち、40名が交代させられています。
2、ジャワ沖
1942年2月、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。
総称して、ジャワ・キャンペーン(ジャワ沖海戦)と言われる
4回の海戦の過程で、日本は南西太平洋の広大な資源を確保し、
シンガポールからスマトラとジャワに至り、ニューギニアの北岸を越えて、
ニューブリテンのラバウルまで広がる防御線を確立したのでした。
3、珊瑚海
1942年5月4日から8日までの珊瑚海の戦いは、
日本の南方への侵攻の勢いを止めました。
これは航空機によって戦われた最初の海戦となり、しかも
艦船同士は視覚的にすら接触することなく終わりました。
日本軍の輸送船団と航空機の多大なる損害は、
アメリカのミッドウェイでの勝利への道を準備することになります。
4、ダーウィン
チャールズ・ロックウッド少将は、1942年5月、
アメリカ軍南西大西洋潜水艦隊の指揮を執り、
魚雷の技術的問題の解決に取り組みを始め、
潜水艦隊をますます強靭にするための戦術的革新を行いました。
ちなみにロックウッド少将ですが、やる気がないと思われる潜水艦長を
闘志に溢れた者に躊躇いなく入れ替えて人事刷新を行うだけでなく、
乗員の待遇改善も進め、任務から帰還した潜水艦乗りたちに
充実した休暇を提供するため、ロイヤル・ハワイアンホテルを開放し、
航海中の食事を豪華にし、生野菜やアイスクリームを提供させました。
アイスクリーム製造機が故障した潜水艦は出撃を禁じたという話もあり。
実際、アイスクリームはアメリカ軍人にとって
日本人にとっての白いコメ同様「やる気の源」だったからねえ・・・。
5、ミッドウェイ
ミッドウェイ海戦は1942年6月4日から7日に起こりました。
ここで我々の海軍は大日本帝国海軍の攻撃を打ち負かし、
日本の航空隊に取り返しのつかない損害を与えました。
この時から日本は守勢に回らざるを得なくなります。
6、ガダルカナル
42年8月から43年2月までのガダルカナルキャンペーン中の戦闘は、
連合軍による最初の攻撃であり、日本の最初の陸上戦の敗北でした。
日本は戦略基地となるヘンダーソン飛行場を奪還できませんでした。
そして、1941年8月26日、カリフォルニアのメア・アイランドで
潜水艦「シルバーサイズ」は就役を行いました。
写真は進水式で海上に滑り出した直後の「シルバーサイズ」です。
続く。