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パールハーバーへの道〜シルバーサイズ潜水艦博物館

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ミシガン州マスキーゴンにある潜水艦「シルバーサイズ」をメインとした
潜水艦博物館の室内展示は、日米開戦のきっかけとして
真珠湾攻撃について大変こだわりを持っているように見えます。



館内はこのようなパネルによる通路に沿って歩いていくわけですが、
潜水艦博物館という割に手前の真珠湾攻撃の写真が大きすぎ。


天井からはさらに零式艦上戦闘機の模型が吊り下げられ、
この角度で見るとより一層迫力ある展示になるというわけです。たぶん。

天井から吊られているのは零戦のみ。
つまり、真珠湾攻撃のパネルに効果を与えるための展示なのです。


何というか、真珠湾攻撃に全振りしている感じです。
それにしてもこの写真、本物なんでしょうか。

上空の航空機、脚が出ているということはこれは米軍のだと思いますが、
遠方にいるのに妙にはっきりしすぎてないか?

前回、当博物館の真珠湾攻撃展示を解説したのですが、
ここでまたもや、
「The Road to Pearl Harbor」
(パールハーバーへの道)
とタイトルされた気合の入ったパネルが現れました。
そこまで気合を入れて真珠湾攻撃について語りたい何かが
この博物館にはあったということなのでしょう。

●1931−1940
日本は満州に侵攻し、中国での影響力を
万里の長城と沿岸沿いに拡大し続けていた。

日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったため、
米国の中立条約(US Neutrality Acts)の下で
両国との貿易停止を余儀なくされていたルーズベルトは、
貿易を継続することを許されるようになった。

日本は国内で必要な鉄くずとオイルの80%を米国からの輸入に頼っていた。
中国の輸入品にはやがて武器が含まれるようになる。
●1940年1月
日本海軍の山本五十六提督は、アメリカが日本に対する石油の供給を
遮断した場合に備えて、真珠湾攻撃を模索し始めた。

主なターゲットは空母と戦艦であった。
その数日後、アメリカ大使はペルー大使館を通じてこれを発見したが、
ワシントンはその報告に対し、不可能な作戦であるとして取り合わなかった。

■ 真珠湾攻撃についてー実は米大使がペルー大使から事前に聞いていた説

世の中には、開戦に至るまで、日本が経済的に追い込まれていったとされる
ABCD包囲網(当時の日本人は一般国民でもこの言葉を知っていた)すら、
日本が戦争を起こす動機ではなかったとする説もあるくらいです。

ましてやアメリカ側の解説にこの辺りへの言及がないのは当然です。

しかし、その割に、赤字の部分を史実として言い切っているのが、
何ともバランスが悪いとわたしは思ってしまうわけです。

この部分こそ、陰謀論がまつわる真偽不確かな話だからです。

このペルー大使館云々の噂について解説しておきましょう。
噂は噂らしく、3通りの説があります。


【噂 その1】

当時駐日アメリカ大使館員だったフランク・シューラーの追想です。
ペルーの特命全権公使リカルド・シュライバーが、
駐日アメリカ大使であったジョセフ・グルーに、

「日本が真珠湾を攻撃する計画をしているらしい。
このことを至急アメリカ政府に通報してほしい」

と伝えたのですが、グルー大使は

「あなたは、米国と世界に偉大な貢献をされました。
すぐに国務省に電報を打つことにしましょう」

と感極まった口調で言ったものの、
本国に通知をするのを意図的に避けたという噂です。

だとしたら一体何の目的で?

ジョセフ・グルー駐日大使
日本贔屓だったという噂もあり(←この辺りが噂の元かも)
【噂 その2】
コーデル・ハル国務長官

ハル国務長官の回顧録によるとこうなります。

グルー大使が東京から1月27日、次のように打電してきた。

”『日米の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃をかけることが、
日本の軍部によって計画されている』

と云う話を、駐日ペルー公使が、
日本人を含む多数の筋から聞いたと言っている”

また、この時ペルー公使は、グルー大使に対して、

『自分としては日本側のこのような計画は奇想天外だと思うが、
たくさんの筋から聞いたのでお伝えしようと思ったのだ』

と告げたらしい。

そこで国務省としては翌日、この公電の内容を陸軍省と海軍省に伝達した。

【噂 その3】
駐日アメリカ大使館員、一等書記官クロッカーが、シュライバーから「一日本人(ペルー公使館の日本人通訳)を含む複数の情報」
として聞いた話。

「万一日本がアメリカと紛争になった場合、日本は
全軍事力を使用して真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ」

それを伝えられたグルー大使が電報を打ち、その内容は
アメリカ海軍にも伝えられたが、海軍作戦部長のハロルド・スタークは
太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して

「海軍情報部としてはこの流言は信じられないと考える」
「予測できる将来に、こうした行動が計画されているとは考えられない」
という内容の電報を2月1日付で送った。

噂;以上

「ワシントンはそれを実現不可能として取り合わなかった」

という説に一番近いのは「噂その3」でしょうか。
「その1」の噂は、グルー大使が本国に打電しているのが本当なら、
全く間違っていたことになります。
「その2」の噂は、ハルの回想録の話によると、
グルー大使は国務省にその話を電報で伝えていたことになりますが、
ハルはその話を「取り合わなかったのかどうか」については書いていません。
さて、噂はともかく、展示の続きです。
●1940年5月
通常はサンディエゴに駐留している太平洋艦隊は
ハワイのパールハーバーに恒久的に移転することになる

●1940年7月5日

アメリカは日本への武器などにつながる機械、そして
交換部品の全ての輸出を停止したが、石油・鉄鋼は停止しなかった

●1940年9月27日

日本全権代表がベルリンでの会議に参加し、
ナチスドイツ、イタリア、日本による枢軸国を正式に確立
(三国同盟)

●1940年11月

ルーズベルトは、先に攻撃されない限り、
アメリカは戦争しないと公約し、前例のない3期目の大統領に就任


「あなた方の息子たちを戦場に送らない」

というこの時のルーズベルトの公約があったからこそ、
彼は「日本に先に撃たせた」とする説がいまだに存在します。

●1941年4月

日本側の暗証番号が解読され、全ての通信が傍受される

● 1941年6月24日

アメリカが日本に対し石油と鉄鋼の禁輸措置をとる

●1941年9月24日

日本の諜報機関からのメッセージが傍受される
内容は真珠湾のすべての艦船の係留場所を示すグリッドの要求だった

そのことを真珠湾関係者の誰も伝えられていない

ということは、やっぱりアメリカは真珠湾攻撃のことを
少なくとも3ヶ月前に知っていたことになりますよね。
もちろんこの報告はルーズベルトにも上がっていたに違いないのです。

ここまで知っていながら、なぜ奇襲を許したのか。

●1941年11月
日本は外交団をアメリカに派遣し、平和的解決策を模索する
どちらの側も立場を譲ることはせず、交渉は決裂

いわゆる「最後通牒」ハルノートのときですね。
これを受けて、日本は開戦やむなしと判断し、
真珠湾への道が開かれることになります。
●1941年11月26日

423機の航空機と護衛部隊を乗せた6隻の航空母艦が
真珠湾に向けて日本を出発

● 1941年11月27日

真珠湾の艦隊司令官キンメルとショートは、和平交渉が再開されない限り、
日本軍はフィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオで
可能な攻撃を発動するかもしれないという最初の警告を受ける

キンメル提督とショートは警戒体制をとり、弾薬装填、人員配置、
対潜網を張って真珠湾の入口を封鎖した

あれ・・・?
キンメルもショートも知っていて、ここまで準備していたのか。
しかもこれ、攻撃の10日前ですよね?
なんで奇襲攻撃を成功させてしまったんだろう。
というか、恥ずかしながらわたし、このことを初めて知りましたが・・。


●1941年11月28日

航空母艦USS「エンタープライズ」は、艦載機を引き渡すために
ウェーク島に向けて真珠湾を出発した

「エンタープライズ」と護衛艦艇は12月6日に帰港する予定であった

これって、深読みするならば、真珠湾攻撃を知っていた「誰か」が、
被害を空母に及ばせないように真珠湾から「逃した」
っていうことかもしれないと思ったり。(とする説も実在しますね)

これだと、真珠湾に残された艦艇群は、アメリカからある意味
デコイ扱いされていたということになります。

これは当事者たちの心情としてはとても受け入れ難い仮定かもしれません。


●1941年12月3日

真珠湾で第2の戦争メッセージが受信された
アメリカとイギリスの領土にいるすべての領事館が、
暗号を破棄し、
文書を燃やしていた(らしい)

開戦準備であるとの警告

●1941年12月

航空母艦「レキシントン」は真珠湾を出港し、ミッドウェイに向かった

12月6日、米国諜報機関は日本からの14パートからなるメッセージを
解読することに成功している

それによると、南太平洋のどこかに攻撃が迫っていることが示されていた

「レキシントン」とエスコートは巨大な嵐に足止めをくらい、
パールハーバーの200マイル真西にいて到着が遅れそうになっていた


パネル左側の

「知っていますか?」
というところには、何とこんなことが書かれています。

1940年以前、太平洋艦隊は毎年夏真珠湾で訓練を行なっていました。
1932年と1938年の2回、真珠湾はこの模擬演習として
アメリカ軍に「攻撃」されていたことになります。

どちらの演習も、真珠湾の艦隊にとっては完全な「奇襲」となり、
攻撃は完全な成功を収めたとされます。

そして1932年の演習は、「本物」と全く同じとなる
日曜日の明け方に行われていたのでした。

知っていますか?いや、わたしは知りませんでした。

つまりこれによると、模擬攻撃が2回成功していたのに関わらず、
直後の同じような日本の攻撃を許してしまったということでよろしいか。

って、何のための模擬演習やね〜ん!

こういうのを見ると、アメリカはいまだに(この博物館もある意味そう)
日本の奇襲攻撃ガー!という立場に立っていますが、
攻撃があるかもしれないと思いながら何もしてなかったくせに、
被害者ぶりっこも大概にせいよ、とついツッコんでしまうのよね。



ツッコむといえば。

ちょっと皆さん、見てくださいよ。
アメリカ人にはこれが真珠湾攻撃の演習に見えるんですってよー。

これってあれですよね。

戦後、あまりのリアルさにてっきり実写だと思われてフィルムを没収された
映画「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影セットじゃないの。

いくら慎重に行われるべき大作戦であったとしてもですよ。

本来紙の上の図演で済むところ、こんなリアルに真珠湾を再現し、
艦船の模型まで縮尺をきちんとしていたといまだに信じてるのね。

日本人、どれだけ几帳面だと買い被られているんだろうか。

そういえば、この勘違いをアメリカではいまだに誰も訂正しないらしく、
マイケル・ベイの怪作「パールハーバー」でも、
同じようなことをしていた怪しい日本人軍団がいたような気がするな。

確かプールの入り口に巨大な鳥居が立っているシュールなもので、
あのシーンには大笑いさせていただいた記憶があります。

今回もわたしはついこれを見てふふっとなってしまったのでした。
歴史にはある意味完全な真実というものはない、
ということを思い知らされる一枚の写真です。


続く。





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