ミシガン州マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館の展示から、
今日もやたらと詳細にわたる真珠湾攻撃についてをご紹介します。
「真珠湾への道」として日米の動きをタイムラインで表した横には、
真珠湾における攻撃後の出来事が記されていました。
7時55分の第一次攻撃
8時53分の第二次攻撃
ミッドウェイに向かうUSS「レキシントン」(←)
ウェーク島から戻ってきていたUSS「エンタープライズ」(→)
がまず図になっています。
そして、その下には、
「ワシントン」「パールハーバー」「フィリピン・マニラ」
で起こったことがこれも時系列で書き出されています。
今回はそれはさっくりと省略しますが、その代わり、
時刻を追って真珠湾に停泊していた艦船がどうなったかを追います。
■ 戦艦「ユタ」
【現役戦艦と誤認され撃沈】
戦艦USS「ユタ」は、ユタ州の名を冠した最初の艦です。
1931年、「ユタ」は前年に調印されたロンドン海軍条約の条件に従い、
非武装化され標的艦に改造され、AG-16と改称されていました。
また、艦隊の砲手の訓練に使われていた艦です。
「ユタ」はちょうど1941年末に真珠湾に入港したばかりで、フォード島沖のバースF-11に係留され、対空砲術訓練を終えていました。
12月7日の朝8時前、「ユタ」の乗組員の何人かは
真珠湾を攻撃するために接近してくる最初の日本軍機を見ましたが、
アメリカ軍機だと思い込んでいたそうです。
攻撃が始まったとき、「蒼龍」「飛龍」の中島B5N魚雷爆撃機16機は
空母を探して「ユタ」が係留している場所にやってきました。
いつもはそこに空母が停泊しているはずだったからです。
日本軍の飛行隊長は「ユタ」は攻撃の価値なしと判断したのですが、
中島辰巳中尉率いる「蒼龍」のB5N6機は離脱して攻撃を始めました。
バーベット上の形状が空の穴を覆う箱であることを認識せず、
砲塔である、つまり戦艦であると誤認したと思われます。
6本の魚雷が「ユタ」に発射され、そのうち2本が命中し、
もう1本は外れて巡洋艦「ローリー」に命中しました。
【ユタの沈没】
深刻な浸水はすぐにユタを圧倒し始めました。
ユタは左舷に傾き、艦尾が沈んでいきました。
総員退艦が始まったとき、一人の乗員(機関員ピーター・トミッチ)は
乗員を助けるために持ち場を離れず殉職しました。
トミッチ
トミッチはヘルツェゴビナ系クロアチア人のアメリカ海軍水兵です。
攻撃の時ボイラー室に勤務していた彼は、攻撃によって
艦が転覆することを悟りながらも、ボイラーを動かし続け、
すべての乗員が持ち場を離れるのを確認するまで持ち場に留まり、
そのことによって自らの命を失いました。
彼はその行動により死後名誉勲章を受けています。
その後「ユタ」は横倒しになり、脱出できた乗組員は岸まで泳ぎつきました。
その中の一人、ソロモン・イスキス司令官は、
転覆した艦内に閉じ込められている人々のノックの音を聞き、
有志と共に損傷の激しい巡洋艦「ローリー」から切断の道具を取ってきて
閉じ込められた人を解放しようと試み、4人の救出に成功しています。
Solomon Isquith
「ユタ」では合計で58人の将校と下士官兵が死亡し、
461人が生き残りました。
【沈没墓となったユタ】
「ユタ」は当時軍事的な価値がなかったため、沈没後放棄された状態で
海軍艦艇登録から抹消されました。
錆びた艦体を一部海面上に見せながら。
「ユタ」が沈んだときに死んだ兵士たちは、その後も
運び出されることはなく、長い間「墓」に眠っていました。
その後記念碑が建てられた際、
艦の近くにプラットフォームが設置されましたが、
ここには軍の身分証明書を持つ人だけがアクセスできます。
2008年になって「ユタ」の艦内から7人の遺体が運び出されて火葬され、
その遺灰は再び沈没艦に撒かれました。
■ カシンとダウンズ
「カシン」は攻撃時、「ダウンズ」「ペンシルバニア」と共に
真珠湾で乾ドックに入っていました。
250kg爆弾の低次爆発により燃料タンクが破裂し、
両艦に制御不能の火災を引き起こしました。
「カシン」はキールブロックから滑り落ち、「ダウンズ」に衝突。
両艦とも修理不可能なほど損傷しましたが、
機械類や装備は引き揚げられ、メア・アイランド海軍工廠に送られ、
引き揚げ材をもとに全く新しい艦が建造され、
それらには元の艦の名前と番号が与えられました。
その後、再就役した「カシン」は古巣の真珠湾に戻り、
テニアン、サイパン、マーカス、硫黄島で活動。
江戸の仇を長崎で、とばかり、真珠湾の仇を主に南洋で晴らしていた
「カシン」ですが、一度は国際法の遵守を確認するために
日本の病院船に乗り込み、臨検を行い、
違反がないことを確認すると、ちゃんと船を解放しています。
■ ショー(USS SHAW)
USS「ショー」(DD-373)は、「マハン」級駆逐艦で、
海軍士官ジョン・ショー大尉の名を冠した2番艦です。
1941年12月7日には、パールハーバーの乾ドックに係留されていました。
「ショー」が係留されていたのは補助浮遊式乾ドックYFD-2で、
彼女はそこで深度充電装置の調整を受けていました。
日本軍の攻撃で3発の爆弾を受け、2発は前部機銃台を、
1発は艦橋の左翼を貫通し、火災は艦全体に広がりました。
0925までに、すべての消火設備は使い果たされましたが、
火を消し止めることはできず、総員退艦の命令が出されます。
そして0930過ぎに前部弾倉が爆発しました。
「ショー」は修理の結果、現役に復帰し、戦後に至るまで
ほぼ第一線で活躍し、その功績に対して11の賞を与えられました。
■オグララ(USS Oglala)
「オグララ」は機雷掃海艇です。
ネイティブ・インディアンの「オグララ」族から名付けられました。
(oglala族を変換すると、普通に”小倉裸族”になってしまう件)
建造時は高速貨物船「マサチューセッツ」という名前であった彼女は、
その後ボストンで旅客船となってのち、第一次世界大戦の時に
Uボートに対抗するため、機雷掃海艦に生まれ変わりました。
最初に機雷掃海艦になった時の名前は、「オグララ」ではなく、
USS「ショーマット」Shawmut ID 1255
で、その名前のまま無線操縦船、水蒸気テンダー、掃海艇として
就役していました。
「ショーマット」が「オグララ」に改名された理由は、
当時病院船「ショーモン」(Chaumont)というのがいて、
英語では後者のTを落とさず発音する人が多いことから、
「ショーマット」と「ショーモント」で混同する可能性があったからでした。
1941年、「オグララ」は、機雷掃海隊司令官の旗艦となって、
真珠湾攻撃当時、パールハーバー海軍基地のテンテン桟橋に、
軽巡洋艦「ヘレナ」の隣に係留されていました。
【オグララ沈没】
7時55分頃、「オグララ」の乗員は日本軍の攻撃機を発見し発砲しています。
中島B5N2空母魚雷爆撃機「ケイト」は魚雷を放ち、
それは「ヘレナ」との間の左舷近くで爆発しました。
この爆風で「オグララ」は左舷部が破断し、火室床板が浮き上がり、
着水を始めましたが、それとほぼ同時に日本軍機による空爆が行われます。
艦ドックから電力供給を受けている状態だったため、
乗組員は火災に対処するためのポンプを起動することができませんでした。
この損傷により、後に「オグララ」は
"the only ship ever to sink from fright."
「恐怖によって沈んだ唯一の船」
と異名を得ることになります。
火災が防げなかったのは怖気付いたからだったとでもいうのでしょうか。
実際は決してそうではないともいますが、なかなか厳しいですね。
攻撃開始から約5分後、爆弾が「オグララ」と巡洋艦の間に落下し、
「オグララ」のボイラー付近で爆発しました。
左舷5度に傾斜し始め、浮力を維持できぬまま急速に沈没していきます。
当時の指揮官であったローランド・E・クラウス司令官は、
「ヘレナ」から「オグララ」を離して、桟橋に直接固定することを決定。
これは9時頃には作業完了しましたが、30分後には艦隊は20度傾き、
廃艦命令を余儀なくされる状態になりました。
10時頃、船はドックの方向に向かって横転し、
左舷側に沈む際にブリッジとメインマストが破壊されました。
「オグララ」の死者はゼロでしたが、負傷者が3人いました。
この人的被害の少なさについて、指揮官はその報告の中で、
「海軍の最高の伝統」に従って行動した全乗組員
を賞賛し、特に2人の乗員の英雄的行動を讃えました。
ジェラルド・"E"・ジョンソン二等水兵は、ボイラーの爆発を防ぎ、
艦への浸水を抑えるように奮闘し、
アンソニー・ジト掌帆長は、日本軍機の接近に対し、
いち早く高射砲を素早く作動させ、迎撃を試みたという功績です。
「オグララ」はその後3度目の引き上げ作業を経てようやく陸に揚がり、
修理ついでに内燃機関修理船ARG-1に生まれ変わりました。
ニューギニアの作戦などに参加し、戦後退役してスクラップ化されました。
■ カリフォルニア(USS California)
1941年12月7日朝、「カリフォルニア」はフォード島の南東側、
バトルシップ・ロウ(戦艦列)の最南端の艦に係留されていました。
攻撃が始まった直後、当時乗艦していた副長のマリオン・リトル中佐は、
総員配置の命令により砲を作動させ、艦の航行準備を行います。
8時3分、乗組員は、三菱A6M零式艦上戦闘機らと交戦を開始。
しかし、すぐに準備弾薬はなくなり、弾倉のロックを解除しなければ
補給ができない中、中島B5N魚雷爆撃機(九七式艦攻)2機が接近し、
投下した魚雷が前部と後部に命中。
攻撃時、検査で「カリフォルニア」の水密扉はすべて開いており、
また、舷窓や外扉の多くも開いていたため、
制御不能の浸水が艦全体に広がって艦体は左舷に傾き始めました。
リトル副長はダメコンチームに右舷の浸水対策を命じましたが、
左舷の浸水は広がり続けます。
魚雷の爆風で前方の燃料タンクも破裂し、燃料系統に水が入り込んで
電気系統は全てストップしてしまいました。
その後、D3A急降下爆撃機(九九式艦爆)から繰り返し攻撃を受け、
爆雷が右舷に1発、左舷に1発命中。
この時対空砲兵は爆撃機のうち2機を撃墜したと主張しましたが、
混乱した状況下での撃墜は困難として認められませんでした。
0845、アール・ストーン中佐(誰?)が乗艦し指揮を執ろうとしたところ、
(こんな時にも国旗に敬礼とかしたんだろうか)
同時に「カリフォルニア」は徹甲弾らしきものを被弾しました。
この爆弾は上甲板を貫通した後、第二甲板で跳ね返り、艦内で爆発し、
火災を引き起こし、約50名の死者を出します。
その後、乗員の必死の作業で電力とボイラーが回復、
しかし火災が広がったので、攻撃が終了してから他の船が接舷し、
消火と排水作業を行いましたが、艦体は3日間かけてゆっくり沈没し、
最終的に泥の中に沈みました。
この攻撃で98名が死亡、61名が負傷し、
何人かは攻撃中の行動に対して名誉勲章を授与されました。ある者は持ち場を離れることを拒否し、そこで死亡しています。
その後、「カリフォルニア」はずっと沈没した状態であります。
艦内の遺体25体が今後の身元確認のために引き揚げられたのは、
なんと2019年12月6日のことでした。
■ メリーランドMeryland
【沈没を免れたメリーランド】
12月7日の朝、「メリーランド」は「オクラホマ」を左舷に並んでいました。
前方には「カリフォルニア」、後方には「テネシー」「ウェストバージニア」
艦尾は「ネバダ」と「アリゾナ」という位置関係でした。
この7隻の戦艦は、最近演習から帰ってきたばかりで、
いわゆるバトルシップ・ロウ(戦艦列)にまとめて係留されていたのです。
「メリーランド」の乗組員の多くは、攻撃が始まった時、
9時の上陸休暇の準備をしていたり、朝食を食べていました。
最初の日本機が現れ、爆発音が船外の戦艦を揺らすと、
「メリーランド」のラッパ手が「ジェネラル・クォーター」を吹鳴。
この時持ち場の機関銃のそばでクリスマスカードの宛名を書いていた
レスリー・ショート水兵は、機関銃で魚雷爆撃機を撃墜しました。
(レスリー・ショート水兵の写真は残っていません)
「オクラホマ」の内側にいたため、魚雷攻撃から逃れた「メリーランド」は、
すべての対空砲台を作動させることができました。
最初の攻撃で「オクラホマ」は沈没したため、
生き残った乗員が対空防御のために「メリーランド」に移乗しました。
その後「メリーランド」も空爆を受け被害に遭いますが、
砲撃を続けながら転覆した「オクラホマ」の生存者救出を試みました。
日本側は「メリーランド」を撃沈したと発表しましたが、
沈没を免れ、翌年6月には大幅改修を加えて戦列に復帰しています。
真珠湾で被害を受けた戦艦としては2隻目の復帰を果たしたことになります。
■オクラホマ
わたしが撮った「オクラホマ」の写真、端が欠けてしまっただけでなく、
写真に壁のコンセントが混在しているという・・・。<(_ _)>
攻撃時、「オクラホマ」は「メリーランド」の隣、
戦艦列のフォックス5番バースに停泊していました。
彼女は「赤城」と「加賀」隊の集中的な標的となって、
3本の魚雷を撃ち込まれ、そのうち2本は
第一煙突とメインマストの間の喫水線下6.1mの船首に命中しました。
この瞬間は、確か映画「パールハーバー」で再現されていたかと思います。
魚雷は対魚雷バルジの大部分を吹き飛ばし、
隣接する燃料バンカーの発音管から油を流出させたものの、
どちらも艦体を貫通しませんでした。
約80名の乗員が甲板上の単装砲に就くために奔走しましたが、
発射ロックが武器庫にあったため使用することができませんでした。
そこでほとんどは喫水線の下にある戦闘配置につくか、
航空攻撃時の規定に従って3階デッキに避難します。
0800、3本目の魚雷が命中、艦体を貫通し、
第2プラットフォームデッキの隣接する燃料バンカーを破壊し、
2つの前部ボイラー室への通路、後部ボイラー室への横隔壁、
2つの前部射撃室の縦隔壁を破裂させます。
艦体が左舷に転覆し始めると、さらに2本の魚雷が命中。
なお、乗員は総員退艦を行う際、航空機から機銃掃射を受けています。
12分以内に、マストが着底し、右舷が水面に浮上し、
キールの一部が露出した状態で転覆していましたが、
多くの乗組員が「メリーランド」に移乗して対空砲を手伝いました。
そのうちの一人、アロイジウス・シュミット神父は、
第二次世界大戦で死亡した最初のアメリカ人聖職者となりました。
シュミット神父は他の乗員とともに、コンパートメントに閉じ込められ、
小さな船窓から乗員が脱出するのに手を貸していましたが、
自分は脱出せず、さらに多くの者を救おうとして沈没に巻き込まれました。
彼は12名の乗員の救出を行なっています。
シュミット神父
これらの他にも多くの人が転覆した船体の中に閉じ込められました。
転覆から数分後には救助活動が始まり、夜になっても救助活動は続き、
数時間後に救出された人の例もあります。
この時亡くなった何人かの軍人の名前は、
この後に建造された駆逐艦名として残されました。
USS「イングランド 」(DE-635)/USS「イングランド」 (DLG-22)ジョン・C・イングランド少尉
USS「スターン」(DE-187)
チャールズ・M・スターン・ジュニア少尉
USS「オースチン」
ジョン・アーノルド・オースチン工兵長
USS「シュミット」 (DE-676)
アロイジアス・シュミット神父(中尉)
USS「バーバー」(DE-161)
マルコム、ランドルフ、リロイ・バーバー水兵
(オクラホマには『バーバー』という水兵が3人いたということです)
などです。
【再沈没したオクラホマとDNA鑑定】
前にもこのブログで書いたことがありますが、「オクラホマ」は
何度も浮上が試みられたものの、不可能だったので、退役し、
スクラップにされるためサンフランシスコにタグボートで運ばれる途中、
ハワイ近海で嵐に遭い、沈んでしまったという悲劇の艦です。
この時のタグボートの名前が「ヘラクレス」「モナーク」だったというのも
個人的には印象深く記憶に残る事件です。
引き揚げた際回収された乗員の遺体は全部で429体でしたが、
当時、そのうち身元が判明したのはわずか35名だけでした。
2015年になって国防総省は2015年4月、国防総省は、
「オクラホマ」乗組員の身元不明遺骨をDNA分析のために掘り起こし、
特定された遺骨を家族に返還することを発表しました。
その後DNA鑑定は着々と進み、2021年2月4日には300人目となる、
イリノイ州の19歳の海兵隊員のを特定したと発表しています。
2021年6月29日プログラムは終了し、
最終的には身元不明者はわずか33名を残すだけになりました。
33名の遺骨は、真珠湾攻撃80年目の12月7日に再埋葬されたと思われます。
■ ウェストバージニアとテネシー
【沈没後16日間生きていた3人の水兵】
「ウエストバージニア」は「テネシー」と並んで停泊していました。
攻撃が始まってすぐ、彼女は魚雷爆撃機に91式魚雷7本を舷側に、
爆撃機に16インチ(410mm)徹甲爆弾を2本打ち込まれました。
最初の爆弾は上部構造物の甲板を貫通し、
下のケースメイトに収納されていた弾薬が誘爆した結果、
その下の調理室甲板に広がる大火災を引き起こしました。
2発目の爆弾は後部の砲塔の屋根に命中し、
砲塔上部のカタパルトに搭載されていた艦載機、
OS2Uキングフィッシャー・フロートプレーンを破壊し、
甲板上に流れたガソリンが火災を起こしました。
魚雷によって開いた穴による転覆はなんとかダメコンで食い止めましたが
「アリゾナ」から漏れた燃料油に引火し、翌日まで続く火災が発生。
「ウェストバージニア」では合計106名が犠牲になりましたが、
そのうち3人は、16日間気密倉庫で生き延びていたことが後でわかりました。
サルベージ後、倉庫で3人の遺体とともに、12月23日までの
16日の日付が赤鉛筆で消されたカレンダーが見つかったのです。
2019年、国防省は「ウエストバージニア」の35名の不明遺体のうち
8名が特定されていると発表しています。
【テネシー】
攻撃が始まって、「テネシー」の周りはダメージを受け始めました。
「テネシー」も徹甲爆弾の直撃を受け、火災が起こります。
戦闘後、「テネシー」の周りの戦艦はほとんど沈没してしまい、
彼女は身動きできないままそこに残されていました。
その後「テネシー」はメア・アイランドで修復を行い、
近代化改修が施されてアリューシャン方面、タラワ攻防戦、
クェゼリン戦やエニウェトク戦、マリアナ諸島、
ペリリュー戦やアンガウル戦、フィリピン戦、硫黄島戦、沖縄戦、
レイテ沖海戦とフルで参加して1947年に退役、1959年に解体されました。
■ ネバダ
攻撃時、「ネバダ」は「アリゾナ」の後部に係留されていましたが、
単体だったため、他の7隻の戦艦とは異なり、操艦することができました。
司令官フランシス・W・スキャンランドが攻撃開始時不在だったため、
甲板士官であるジョー・タウシグ少尉(同名の提督の息子)が
再先任として攻撃と対処を指揮することになりました。
あれ?こんな話どっかの映画で見ましたよね。
ジョン・ウェインのアレだったかな。
「ネバダ」は91式改2魚雷1本が爆発し、継ぎ目からの漏水により、
傾斜を始めましたが、艦を出港させることに成功しました。
しかしタウシグ少尉は攻撃で脚を失うことになります。
第二波攻撃がやってくると、「ネバダ」はヴァル急降下爆撃機
(九九式)の主要なターゲットとなります。
日本軍のパイロットは、水路で「ネバダ」を沈めて
港を封鎖しようと考えたのです。(それなんて旅順港閉塞作戦)。
しかし、常識的に考えて250kg爆弾で戦艦を沈めることは不可能。
この時の戦術的目標選択は大いに間違っていました。
というか、もし日露戦争の記憶がなければ、日本軍の搭乗員は
このようなことを考えなかったんじゃないかと思われますがどうでしょう。
攻撃は「ネバダ」にいくつもの穴を開け、火災を起こすことに成功。
しかし、沈めることはできず、当時「ネバダ」の主弾倉は空だったので、
被害は最悪を免れることになりました。
その後「ネバダ」は深い海での沈没を防ぐために、
移動しながらも航空機を何機か撃墜し続けています。
午前中に合計60名の死者と109名の負傷者を出し、
翌年2月7日になって行われた引き揚げ作業中には、
腐敗した紙や肉から出た硫化水素ガスに侵されてさらに2名が死亡しました。
(この人たちも戦闘による戦死と認められたんでしょうか)
【原爆実験を生き延びて、退役】
着底した「ネバダ」は引き揚げられて大改装を施され、
アッツ島攻略作戦、ノルマンディー上陸作戦、につづき、硫黄島、沖縄攻略作戦に参加しました。
沖縄では特攻隊による攻撃を受けて死傷者を出しています。
戦後、「ネバダ」はビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)で
標的艦に供用されることが決定しました。
「ネバダ」は同作戦中の、空中投下実験における目標とされ、
視認性を高めるために全体を赤く塗装されて実験に投入されましたが、
2回にわたる核爆発(エイブル実験/ベーカー実験)を生き残ったため、
結局真珠湾へ戻って、8月29日に静かに退役しました。
■ アリゾナ
「アリゾナ」では、7時55分ごろ空襲警報が発令されました。
「加賀」と「飛龍」隊のそれぞれ5機ずつ、計10機の九七式艦攻が「アリゾナ」に襲いかかります。
「加賀」搭載機は高度3,000mから爆撃を行い、
その直後、「飛龍」の爆撃機が艦首部を攻撃しました。
爆弾は命中4発、ニアミス3発で、うち1発は砲塔の表面で跳ね返り、
甲板を貫通して艦長用食料庫で爆発し、小火を引き起こし、
もう1発はメインマストの横で命中し、対魚雷隔壁の付近で爆発、
次の爆弾は左舷後部の5インチAA砲付近に命中しました。
【弾倉爆発】
最後の爆弾は08:06にII砲塔付近で命中し、
艦の前部にある弾倉付近の装甲甲板を貫通したと言われます。
命中後約7秒で弾倉は大爆発を起こし、前部内部構造の大部分が破壊されて、
前部砲塔とコニングタワーは下方に、マストと煙突は前方に倒れ、
艦体は事実上真っ二つになりました。
その爆風は凄まじく、横付けされていた修理船「ヴェスタル」は
火災を起こしていましたがこの風で消し止められたほどでした。
この爆発によって当時の乗組員1,512人のうち1,177人が死亡、
真珠湾攻撃時の犠牲者の約半数を占める数です。
「アリゾナ」爆発の原因は、艦体がほぼ壊滅状態で沈んだため、
検証のしようがなく、いまだに議論されているようです。
【アリゾナ・メモリアル】
よく知られているように、「アリゾナ」は生きた墓として
現在も沈没時の姿のまま真珠湾でメモリアルとなっています。
ここでちょっと耳寄りな情報を。
「アリゾナ」の真珠湾攻撃の生存者は、希望すれば、自分の死後、遺灰を戦友と一緒に艦内に納める権利を有しており、
また、「アリゾナ」に勤務したことがある退役軍人は、
その遺灰を艦の上から海中に撒くことを許されています。
ちなみに沈没した艦体からはいまだに1日に2リットル以上の油が
港に漏れ続けているため、海軍は、港のさらなる環境悪化を避けるために、
油の継続的な漏れを軽減する非侵入型の手段を検討しているところです。
(ロボットに作業させるのだと思われ)
これを知って写真を見ると、確かに記念館の上の海面に
油が作り出している膜のようなものが確認できますね。
「アリゾナ」は永久に就役しない(できない)艦ですが、
いまだに米海軍の所有権下にあり、永久的に、
現役で就役中の海軍の艦艇と同様、合衆国旗を掲揚する権利を保持します。
■ パールハーバーの「最後の犠牲者」?
このコーナーには、
The Last Victims of Pearl Harbor?
として、二人の軍人の名前と写真が掲げられています。
ハズバンド・エドワード・キンメル提督、
そしてウィリアム・キャンプベル・ショート将軍。
どう「犠牲者」なのかと言いますと。
真珠湾攻撃について、多くは誰が責任を負うべきかを知りたがった。
海軍と陸軍の司令官だったキンメルとショートは、
議会の調査によって、非難を受け、降格され、引退を余儀なくされる。
今日、歴史家は、キンメルとショートが攻撃への備えがなかったのか、
それとも(真珠湾攻撃そのものが)意図的に仕組まれていて、
適切に準備できるような情報が得られなかったのか、意見が分かれている。
戦後、海軍上層部は、その指揮下における施設や装備が
非常に限られていたことを考えると、キンメルは
できる限りのことをした有能な指揮官であったと主張した。
チェスター・ニミッツ提督はキンメルを擁護し、
もしキンメルが艦隊を出撃させて日本軍を捜索する指令を出していたら、
空母6隻とその護衛艦38隻からなる聯合艦隊によって、
おそらく米艦隊は壊滅させられていたかもしれない(だから彼の判断は
リスクマネージメントの点からベストではないがベターだった)と述べた。
実際、パールハーバーでは、被害こそ大きかったものの、
すぐに活動を再開し、わずか数週間でほぼ平常に機能を取り戻している。
1995年になって、議会は、真珠湾攻撃の責任を負うべきは
この二人だけにあらず、他の高級将校も同じである、と結論づけたが、
キンメルとショートの名誉が挽回されることはなかった。
1999年、議会はついに二人の無罪を証明する決議を行い、
post humously(死後)階級を復活させようというところまでいったが、
当時の大統領ビル・クリントンは署名を拒否。
ジョージ・ブッシュも、それ以降の歴代大統領も
悉く署名を拒んでいるため、
この問題は未解決のままである。
さて、なぜでしょうか。(意味深)
続く。