スミソニアンの「ミリタリー・ウィングス」のコーナーにある
とても印象的な版画です。
「ラウンデル」と呼ばれる、イギリス空軍のマークを翼にあしらった
航空機のパイロットが愛機のプロペラの向こうに見る美しい女性。
彼女は果たして彼の空戦を勝利に導く女神なのか、それとも
彼の運命そのものを見守る死の天使なのか・・・。
と言うわけで、今回取り上げるのは、まだ人種差別が行われていたアメリカで
パイロットとなったアフリカ系アメリカ人の記録です。
「ブラック・ウィングス」と言う言葉はこれまでにも何度か
アメリカの航空博物館の展示をご紹介する過程でこのブログでも使いました。
内容も、取り上げる人物も重複することは避けられないのですが、
そこは「スミソニアンでの展示」という違う視点をお楽しみください。
飛行機の発明は、現代の技術に革命を引き起こしました。
大衆の心の中で、新しい航空時代は冒険とヒロイズムに結びついていきます。
アフリカ系アメリカ人は飛行に対する熱意を幅広く共有しましたが、
当時のアメリカではパイロットや整備士としての訓練を行うにも
その導入の段階で拒否されると言うのが通常でした。
1920年代以降、少数の固い決意を持った空を愛する黒人たちが
人種差別に異議を唱えました。
白人でも簡単なことではなかった当時の航空界。
その並ならぬ困難と障害にもかかわらず、彼らは空を飛ぶと言う夢を
決して諦めず、それを実現させていったのです。
モニターにちょうど映し出されている航空機は、
イタリア戦線に出撃した第332戦闘機群のP-51マスタング。
当時最新鋭とされた戦闘機です。
第332戦闘機群は、通称「タスキーギ・エアメン」と呼ばれた
黒人パイロットで構成されていました。
このパネルでは、ここからブラックウィングスの展示が始まることを
予告しており、6名の名前が記されています。
ベッシー・コールマン
ウィリアム・J・パウエルJr.
ジェイムズ・ハーマン・バニング
コルネリウス・コフェイ
ノエル・F・パリッシュ
ベンジャミン・O・デイビスJr.
ここの説明によると、「初期のパイオニア」は
アフリカ系女性として初めてパイロットになったベッシー・コールマン。
彼女以降、同族の航空愛好家が増えていくことになります。
ウィリアム・パウエルJr.は「ブラック・ウィングス」の著者です。
彼は飛行家としてロスアンゼルスで飛行クラブを組織しました。
またジェームズ・ハーマン・バンニング、
C・アルフレッド・アンダーソンとアルバート・E・フォーサイスは
長距離飛行で記録を樹立する飛行家になりました。
コルネリウス・コフェイは、シカゴに黒人飛行士のための
新しいセンターを設立するという働きをしています。
それでは最初に、このパネルの横に立っている
革コート、革ブーツに皮のヘルメットといういでたちの女性、
ベッシー・コールマンからでご紹介しましょう。
■ベッシー・コールマン
「初のアフリカ系女性パイロット」
「The Pathfinder」パスファインダーは「道を切り拓く人」、
または開拓者という意味があります。
彼女のタイトルには敬意を込めてこの言葉が掲げられています。
コールマンは1920年代の航空ショーで、
バーンストーミング(barnstorming)パイロットとして活躍し、
人種偏見の逆風に逆らって飛び続けました。
バーンストーミングとは、チャールズ・リンドバーグの時に説明しましたが、
つまりエアショーなどで技を披露するアクロバット飛行パイロットです。
1920年代という、彼女の人種と性別に最も不利だった時代に、
彼女は誰よりも早く地位をベンチマークすることに成功しました。
バーンストーマーとして認められた彼女は国内をツァーで周り、
全米の航空ショーで曲技飛行を行いました。
しかし、彼女の飛行キャリアは短命でした。
1926年、彼女は飛行機事故によって34歳で亡くなりましたが、
その事故の様子は次のとおりです。
「1926年4月30日、フロリダ州ジャクソンビル。
彼女はカーチスJN-4(ジェニー)をダラスで購入したばかりで、
彼女の整備士ウィルズはダラスから飛行機を飛ばしたが、
整備不良のため、途中で3回強制着陸をしなければならなかった。
関係者は彼女にこの飛行機に乗ることを危険だと忠告したが、
彼女は拒否し、整備士の操縦する機のコクピットに乗り、離陸した。
彼女は翌日にパラシュートジャンプを計画しており、
コックピットから見える地形を調べようと思っていたのである。
離陸から約10分後、飛行機は地上1000mで不意に急降下し、その後スピン。
コールマンは610mの高さで機体から投げ出され、地面に激突して即死。
ウィルズは機体の制御を取り戻すことができず、地面に落下し死亡。
飛行機は爆発し、炎に包まれた。
後にエンジンの整備に使ったレンチが操縦桿を詰まらせたことが判明した。
葬儀はフロリダで行われた後、彼女の遺体はシカゴに送られた。」
彼女が死亡したのは、チャールズ・リンドバーグが
「スピリット・オブ・セントルイス」で歴史的な大西洋横断を行う
わずか一年前のことでした。
活動期間はわずか5年だけだったにもかかわらず、
彼女は最初のアフリカ系アメリカ人女性の才能ある飛行家として、
同じアフリカ系のコミュニティにとっては、航空界でのキャリアを模索する
ロールモデルとなり、永続的な一つのシンボルとなったのです。
フランスで取得したベッシーコールマンの航空ライセンス
彼女がフランスのコードロン・ブラザーズ航空スクールで
国際的に認可されたパイロット免許を取得したのは1921年6月15日です。
免許には航空帽に航空眼鏡をつけ、パイロット姿の彼女の写真の下に
彼女自身のサインがされています。
彼女がフランスにわざわざ行かねばならなかった意味がお分かりでしょうか。
それはもちろん、彼女の人種と性別にその理由がありました。
当時のアメリカではアフリカ系の女性を受け入れる
航空の訓練施設はまずあり得なかったのです。
そこで彼女はまずフランス語の読み書きを勉強することから始め、
フランスに渡ってパイロットの国際免許を取得して、
それでアメリカ国内を飛行する手段を得ることを選んだのです。
説明はありませんが、おそらくこれは
フランスの航空学校の学生証というものではないかと思われます。
まだ学校に入る前なので、航空とは無縁の服装で写っていますが、
その表情も気のせいかかなり不安そうで自信なげに見えます。
学校に入って翌年、彼女は見事ライセンスを取得しました。
結果、彼女は男女問わず、史上初めて認可された
アフリカ系アメリカ人パイロットになりました。
しかしいくら彼女自身にガッツがあっても、フランスへの旅費や
学校の授業代、生活費など、アフリカ系の若い女性が
どうやって用意することができたのでしょうか。
ネイリストだった彼女は、第一次世界大戦から帰還した航空兵から
戦時中の飛行の話を聞き、すっかり空に魅惑されました。
そこでパイロットになることを決意した彼女は、レストランで働き、
マネージャーにまでなって必死でお金を貯めたのです。
彼女を支援したのは、まずアフリカ系の弁護士で、
「シカゴ・ディフェンダー」紙(現在もオンライン配信で継続中)の創立者、
ロバート・S・アボットで、彼女に留学を勧めたのもこの人です。
そしてやはりアフリカ系の銀行家、ジェシー・ビンガ(多分写真の人)
とディフェンダー紙などが金銭的な支援を行いました。
いわば彼女はアフリカ系の希望の星として、フランスに発ったのです。
自分を応援するコミュニティのためにも、猛烈に勉強したのでしょう。
1922年9月4日、ロングアイランドのカ=ティス・フィールドで、
エアショー終了後、彼女にブーケを渡すのは、
エディソン・C・マクヴェイ(Edison C. McVey)
というアフリカ系のスタントパイロットだった人です。
シカゴに当時あった「エリートサークル」(なんて名前だ)と、
「ガールズ・デルーズ・クラブ」が、コールマンに敬意を表して
「エアリアル・フロリック」(空中散歩)の出資を行いました。
彼女はこんな風に航空を目指したその動機を語っています。
「空は偏見のない唯一の場所です。
アフリカ系の男性にも女性にも飛行士がいないのを知っていたので
この最も重要な分野で人種を代表する必要があると思いました。
だから、命をかけて航空を学ぶことが、私の義務だと考えました」
■「ザ・ビジョナリー」〜ウィリアム・J・パウエルJr.
The visionaryとは、「先見の明」とでも言いましょうか。
先を見通す目、またそれを持つ人という感じです。
ウィリアム・J・パウエルJr.(William J. Powell Jr.)
は、初めて「ブラック・ウィングス」という言葉を世に生んだ人です。
彼はアフリカ系がパイロットや整備士としてこの航空の時代に
あるべき場所を見つけることができる世界を夢見ていました。
それこそが、彼のブラック・ウィングスというビジョンそのものでした。
これはいわゆる販促用リーフレットとでもいうもので、
「Black Wings」の発行を宣伝しています。
パウエルJr.は黒人が飛行を行う能力を欠いているという決めつけを
永遠に終わらせるため、若いアフリカ系アメリカ人の若者を
航空業界に採用させることを目標にしました。
「黒人のための100万の仕事」
ブラックウィングスを読む
黒人は南部で分離されて鉄道やバスに乗ることを止めるつもりか?
ブラックウィングスを読む
黒人は飛ぶことを恐れているか?
ブラックウィングスを読む
なぜごく少数の黒人しか産業やビジネス界に携われないのか?
ブラックウィングスを読む
こんな感じの宣伝です。
これがその「ブラックウィングス」実物。
扉裏にはベッシー・コールマンの写真が。
パウエルJr.は、1920年代、ロスアンゼルスにおいて
黒人ばかりの航空愛好家の小さなコミュニティを設立し、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」
と名付けます。
そして最初の黒人によるエアショーを後援しました。
彼はアフリカ系がパイロット、メカニック、あるいはビジネスリーダーとして
航空の世界に参加していくことを目標に、運動を行います。
その一つが、「ブラック・ウィングス」と題された本を出版することであり、
ドキュメンタリー映画を制作するなどの広報活動を通じて
アフリカ系アメリカ人の若者を航空の世界で羽ばたかせるために
弛まぬ努力を続けました。
当時は大恐慌で経済的に困難な時期だったのにもかかわらず、
パウエルは航空を志す者のための奨学金の基金を作り上げました。
パウエルがアフリカ系コミュニティ内の航空への進出を促進するために
1930年代後半に発行した「クラフツメン・エアロニュース」。
この雑誌では、黒人航空愛好家を対象に、パイロットや整備士を育成する
訓練の機会についての最新のニュース、メカニックに関する記事、
そしてさまざまな通知や情報などを提供しました。
空の世界を夢見る黒人少年の図。
多くのアフリカ系アメリカ人の若者はパイロットや整備士を志し、
航空に対して憧れと熱意を持っていました。
これはクラフツマン・エアロニュースに掲載された挿絵です。
■ 黒人ばかりの航空映画「フライングエース」
1927年には大変希少な、全てアフリカ系キャストによる航空映画、
「The Flying Ace」
は、陸軍航空部隊を背景にしたメロドラマです。
ポスターには「オールカラードキャスト」
(全て有色人種による出演)
となっているのが異様な感じです。
本作は、リチャード・E・ノーマン監督がアフリカ系キャストだけで製作した
1926年の白黒サイレントドラマです。
本作のように、アフリカ系観客のために黒人キャストだけで撮った映画を
「人種映画」(race films)と呼びます。
ノーマン・スタジオはこの時代多数の人種映画を制作しています。
黒人映画の市場は未開拓な上、本流で仕事がもらえない
才能ある黒人パフォーマーが多数いたことで需要と供給が成り立ちました。
ストーリーは、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
主人公のストークス大尉(ローレンス・クライナー)が帰国し、
故郷で鉄道警察という戦前の仕事に戻って、活躍する中で、
駅長の娘ルース(キャサリン・ボイド)が飛行機で攫われたり、
ストークスがそれを助けたりして、最後は恋を打ち明けるというものです。
ちなみにヒロインのルースという役柄は、女性パイロットで、
ベッシー・コールマンをゆるーくモデルにしています。
自分をモデルにした映画が撮られることを知っていたコールマンは、
ぜひ映画に出演したいと制作元に希望を表明していたのですが、前述の通り、
1926年4月30日に航空機から落ちて命を落としてしまいました。
この頃の「レース・フィルム」で現存するのは本作ただ一つであるため、
現在でも無声映画祭や映画館でも上映が繰り返されており、
さらについ最近となる2021年には、
「文化的、歴史的、また美学的に価値がある」
として、アメリカ議会図書館によって国立映画レジストリに保存されるよう
選定されたばかりだそうです。
The Flying Ace (Norman, 1926) — High Quality 1080p
高画質の本作フィルムがYouTubeで見られることがわかりました。
全部は無理でも、一部雰囲気だけでもぜひご覧になってください。
攫われたルースの救出方法が、別の飛行機から縄梯をおろし、
それを登らせて脱出させるというのも非現実的ですが、
これは実際に飛行機を飛ばして撮影していないのでできることです。
また女性のヘアスタイルが、当時最新流行の「フラッパーヘア」なのに注目。
黒人女性もフラッパーにしてたんですね。
映画といえば、パウエルJr.は1935年、ドキュメンタリーフィルム
「ベッシ・コールマン・フライングクラブ」の制作もおこなっています。
映像には、フライングクラブに所属した黒人フライヤーたちが総出演。
アメリカ人であればおそらく誰でも知っている(と思う)、
「褐色の爆撃機」(The Brown Bomber)こと、
史上二人目の黒人ヘビー級ボクシングチャンピオン、
ジョー・ルイス(左)夫妻が、
1938年パウエルJr.の航空教室を訪れた時の写真です。
パウェルJr.は大変宣伝上手で、飛行クラブを有名にするために
こうやって他にもデューク・エリントンなどを招待し、宣伝を行いました。
■ パウェルJr.という人
アフリカ系アメリカ人のパイロット、エンジニア、企業家である
ウィリアム・パウエルが若かった1934年当時、米国では
パイロット18,041人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか12人、
整備士8,651人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか2人だったそうです。
しかも航空会社はアフリカ系を乗客として認めませんでした。
パウエルはこの状況を変えようと、飛行の黄金時代(1920年代と1930年代)
高い意志を抱いて活動しましたが、早世し、
航空業界のパイオニアとしてのキャリアを閉じることになります。
パウエルは1897年シカゴの中流アフリカ系アメリカ人居住区で育ち、
イリノイ大学で電気工学の学位取得を目指す優秀な学生でしたが、
第一次世界大戦が勃発します。
彼はアメリカ陸軍に入隊し、人種隔離された第317工兵連隊、
そして第365歩兵連隊に中尉として従軍しました。
戦地で毒ガスを浴び帰国し、工学の学位を取得しています。
第一次世界大戦中、アメリカ陸軍の軍服とロングコートを着用した
ウィリアム・J・パウエル。
卒業後、彼はシカゴでガソリンスタンドや自動車部品店を持ち、
成功する傍ら、やはりリンドバーグに夢中になり、
空を飛ぶことを夢見てパイロットになることを目指します。
しかし、それは簡単なことではありませんでした。
飛行学校では、人種を理由に断られ、陸軍航空隊にも断られ、
ようやくロサンゼルスの多国籍学生のための飛行学校で
パイロット免許を取得することに成功します。
しかし彼の夢はパイロットになることだけではなく、
アフリカ系アメリカ人のために航空業界の機会を作ること。
彼は飛行機事故で亡くなったベッシー・コールマンに敬意を表して、
「ベッシー・コールマン・エアロクラブ」を創設し、1931年に初めて
アフリカ系パイロットによる初航空ショーを開催し成功させました。
パウエルの『ブラック・ウィングス』は、パウエル自身が、
また他のアフリカ系アメリカ人がパイロットになるまでの苦闘を、
ビル・ブラウンという架空の人物の目を通して描いた自伝です。
彼は、アフリカ系アメリカ人の若者たちに、
「空中を黒い翼で埋め尽くそう」
と呼びかけ、パイロットだけでなく、飛行機の整備士、航空技術者、
航空機設計者、そして産業界のビジネスマンになるよう奨励しました。
パウエルは、空はアフリカ系アメリカ人の若者にとって
新しいチャンスに満ちていると確信していたのです。
その理由は、航空はちょうど成長期を迎えており、
まだあまり人がいない今のうちに参入すれば、航空の成長とともに
黒人たちも成長することができるからというものでした。
しかし、彼は1942年、わずか45歳で早世しました。
第一次世界大戦で毒ガスを浴びた後遺症
のためとも言われています。
しかし彼は、何百人ものアフリカ系アメリカ人が
航空界に参入する道を最初に切り開いたのです。
彼の死後も黒人差別は全くなくなりはしませんでしたが、
タスキーギ・エアメンと呼ばれる黒人飛行士が
第二次世界大戦で活躍するのを、彼は死ぬ前に目撃したことでしょう。
続く。