アメリカに大恐慌が起こったのは1929年から1933年です。
この間、航空界はリンドバーグの大西洋横断の余波もあって
この恐慌とは関係なく安定して盛り上がっていました。
特にシカゴは、アフリカ系アメリカ人の航空の本拠のようになり、
それは西のロスアンジェルスの隆盛に匹敵しました。
そのシカゴでのブラックウィングスを中心となって率いたのは、
コーネリアス・コフィー
(Cornelius Coffey)1902−1994
とう伝説の黒人アビエイターでした。
■コーネリアス・コフィーのパイロット養成学校
コーネリアス・コフィーは元々熟練の自動車整備士でした。
航空の時代がまさに訪れているのを目の当たりにした彼が
パイロットを夢見たのも当然の成り行きだったといえましょう。
1931年、彼は同じ航空を目指すアフリカ系の同士を集め、
カーチス・ライト航空学校で航空を学ぶために始動を行います。
そして自身が航空技術を身につけた後は、地元シカゴで
アフリカ系が飛行する機会をさらに拡大するため、
「チャレンジャーズ・航空パイロット協会」を組織しましたが、
地元ではなかなかうまくいかず、結局彼らはイリノイ州に出て
「コフィー・スクール・オブ・エアロノーティクス」
という航空養成学校を開設します。
そこが軌道に乗ると、シカゴでも訓練クラスを設立し、
民間パイロット訓練プログラムからフランチャイズを得ました。
彼とその仲間のこの働きによって、黒人飛行家が排出されます。
その中には、後述するショーンシー・スペンサーとデールホワイト、
そしてタスキーギ・エアメンとなる多くのアフリカ系パイロットがいました。
彼の飛行スクールは黒人のみならず白人も排出しており、
航空における人種分離政策の終焉を目指す目的を持っていました。 コーネリウスと女性パイロット訓練生。
連邦政府が資金提供し、コーネリウスがフランチャイズ契約した
シビリアン(民間)パイロット・トレーニングプログラム(CPTP)は、
基本セグレゲートつまり人種分離されたものではありましたが、
それでも黒人に前例のない飛行訓練の機会を提供しました。
コフィーがシカゴのCPTPのフランチャイズを取得したのは
第二次大戦の前夜となる1939年のことです。
政府が、当時の世界情勢から「いざ鎌倉」(って言っていいのかな)のために
航空分野の裾野を広げようとしていたらしいことが窺い知れます。
■ ウィラ・B・ブラウン
ウィラ・ベアトリス・ブラウン(Willa Beatrice Brown 1906 - 1992)
は、 パイロット免許を取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性です。
彼女の先駆だったベッシー・コールマンは、人種差別の壁ゆえ、
免許をフランスまで行って取らざるを得ませんでしたが、彼女は
アメリカで免許を取得し、これが黒人女性初となったのです。
のちに彼女はアフリカ系アメリカ人女性として初めて連邦議会に立候補し、
民間航空パトロール隊の最初のアフリカ人幹部となり、
パイロット免許と航空機整備士免許を同時に持った最初の女性となります。
ウィラ・ベアトリス・ブラウンはケンタッキー生まれ。
インディアナ州立教員学校を卒業しました。
10年後、名門ノースウェスタン大学からMBAを取得しています。
卒業後、秘書、ソーシャルワーク、教師など様々な仕事をするうち
コーネリウスが創設したアフリカ系アメリカ人のパイロットグループ、
「チャレンジャーズ航空パイロット会」に入会することになりました。
【航空界でのキャリア】
1934年、ブラウンはコーネリアス・コフィーのもとで学び始めました。
1938年に自家用操縦士免許[10]、1939年に事業用操縦士免許を取得し、
米国で両免許も取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性となりました。
ウィラ・ブラウンはコーネリアス・コフィーらと共同で
のちに全米飛行士協会となる全米黒人飛行士協会を設立します。
彼らの主な使命は、航空への関心を高め、航空分野への理解を深め、
両分野へのアフリカ系アメリカ人の参加を増やすことでした。
ブラウンは同協会のシカゴ支部長兼全国幹事を務め、広報を担当し、
アフリカ系アメリカ人に飛行機に興味を持ってもらうために、
大学を訪問したり、ラジオに出演して語ったりしました。
彼女は、当時隔離されていた陸軍航空隊と民間パイロット養成プログラム
(CPTP)に黒人パイロットを統合するため政府に働きかけました。
1925年、アメリカ陸軍士官学校の研究はこう結論づけました。
「アフリカ系アメリカ人は飛行に適さない」
どういう研究の結果こう結論が出されたのかはわかりませんが、
彼女らはこの結果に反証せんと務め、そして
アフリカ系アメリカ人のパイロットを養成する
CPTPの契約を結ぶよう連邦政府に働きかけました。
その努力が実り、1940年、彼女はまずCPTPのシカゴユニットの
コーディネーターに任命されます。
彼女が知的で優秀だったことはもちろんですが、この結果には
その美貌も手伝ったのではと思うのはわたしだけでしょうか。
穿ったようなことを言いますが、彼女の顔貌は黒人といっても、
鼻筋が通り、唇が薄く、いわゆる現代のハリウッド映画に
ポリコレ配慮で出てくる主役級黒人女性と同系統のものに見えます。
彼女が自分の美貌を十分に認識し、それを十二分に活用していたのだろう、
と思われるこんな記述があります。
「スタイル抜群の若くて褐色の肌をしたウィラ・ブラウン(Willa Brown)、白い手袋、体にぴったりした白い上着を着て、白いブーツを履いた、そんな彼女が1936年、私たちのニュースルームに足を踏み入れたとき、全員が息を呑み、すべてのタイプライターが突然静かになったほどだった。
他の訪問者とは違い、彼女にまったく怖気付く様子がなかった。
自信に満ちた態度で、そのハスキーな声には決意が感じられ・・・」
彼女がこれほどの、つまり白人にも通用する基準の美人でなければ、
ウェストポイントの研究結果を一夜にしてひっくり返したり、
ここまで話をうまく運べただろうか、とふと考えてしまいます。
まあ、いつの時代も圧倒的な美は時として歴史を変えるってことでしょうか。
当時の黒人航空界が彼女を得たことは、一つのチャンスでもあったのです。
この記述をしたのは、シカゴ・ディフェンダー紙の編集者かもしれません。
彼女は宣伝のため、アフリカ系アメリカ人パイロットの航空ショーに
編集者を招待し、実際に彼をフライトに乗せたことがあるからです。
この時のフライトと彼女の魅力が、この編集者によって忘れ難いもので、
その筆によって大いに宣伝されたのはいうまでもありません。
さて、彼女のおかげかどうかはわかりませんが、その後
コフィー・スクールはアメリカ陸軍航空隊のパイロット養成プログラムに
黒人学生を提供するための供給校として選ばれました。
この結果、同校から約200人の学生がタスキーギ飛行隊に送り込まれ、
「レッドテイルズ」として活躍し、黒人の将官を生むまでになります。
彼女自身ももちろんその後、黒人女性として栄光を手にします。
コカコーラを飲むブラウン中尉(マニキュアもしてます)
1942年、彼女は民間航空パトロール隊613-6で中尉の階級に達し、
民間航空パトロール隊で最初のアフリカ系アメリカ人将校となり、
その後、民間航空局の戦争訓練任務コーディネーターに任命されました。
彼女は生涯、航空分野と軍における男女平等と人種平等の擁護者でした。
1945年にコフィー・スクールが閉鎖された後も、ブラウンはシカゴで政治的、社会的な活動を続けました。
1946年と1950年には連邦議会予備選挙に出馬し、
2回とも白人男性に敗れましたが、出馬自体がアフリカ系女性初となります。
その後は1971年に65歳で引退するまでシカゴ公立学校で教鞭をと理、
退職後、1974年まで連邦航空局の女性諮問委員会の委員を務めました。
上から;
航空での彼女の多くの業績は認められ、
ケンタッキー州ルイビルにゲストとして招待されました
注意、市民航空パトロール副官、全国空軍協会事務局長、
市民航空管理のための戦争任務コーディネーター。
ブラウンはまるで今でも飛行機に乗り空中回転をしているようです
彼女の飛行学校は空軍への黒人の試験的受け入れを実地するため、
陸軍と市民航空局によって選定されました
このムーブメントに、多くの黒人パイロットが参集してきましたが、
その中には女性もいました。
ジャネット・W・ブラッグ(Janet Bragg)1907-1991
は、シカゴで看護士をしていたとき、航空に魅せられ、
コフィーの航空プロモートに加わりました。
彼女の財政的支援は、シカゴの飛行クラブが
最初の飛行機を購入することができるほどでした。
彼女が資金提供できたのは、看護師として働きながらさらに大学院に進み、
キャリアアップしていくつかの病院で正看護師として働き、
十分なお金を貯めていたからでした。
苦労して商業免許を取得し女性航空隊WASPsに入隊しようとするも、
肌の色を理由にあっさり断られています。
戦後も彼女は飛ぶことを諦めず、自費で飛行機を購入し、
クロスカントリー飛行で多くの記録を打ち立てました。
ここに、「チャレンジャーズエアパイロット協会」の集合写真があります。
ここに写っているのが当時のシカゴ黒人航空界の主流メンバーです。
右上の写真はおそらくベッシー・コールマンでしょう。
真ん中にいるのがブラッグ、その左か右がブラウンでしょうか。
■黒人によるエアショーの開催
「エア&グラウンドショー」
第二回有色人種空中&地上ショー
9月24日日曜日午後2時より
出演 ドロシー・ダービー嬢(クリーブランド)
アメリカ唯一の女性パラシュートジャンパー
ジョージ・フィッシャー少佐
シカゴ、デアデビルのベテラン
1万フィート上空巨大飛行機からのセンセーショナルなパラシュート降下
アクロバット飛行
ピーター・コンスドルフ
燃えるような木製の火の壁をオートバイで通り抜ける決死の挑戦
レイ・ブリッチャーズ(チャタヌガ)
トンプソンブラザーズ・バルーンアンドパラシュートカンパニー
場所:(省略)
ご来場はお早めに 軽食付き
演奏:キャプテンカリーズ・コンサートバンド
入場料:大人35セント 小人10セント
「マンモス・エアショー」
特別出演;ウィリー’自殺’ジョーンズ
世界記録に挑む 飛行機からのパラシュート降下
どちらも、バイクによるスタントを加えて飽きさせないよう
イベントを色々見せようとしている感じです。
最初にも書いたようにこの頃アメリカは大恐慌に見舞われていましたが、
ロスアンジェルスとシカゴの黒人飛行クラブは
観客を動員するエアショーを後援し開催させることができていたのです。
■シカゴの名パラシューター、
ショーンシー・スペンサー
シカゴの黒人エアショーでパラシュートジャンプを決めた
ショーンシー・スペンサー(Shauncey Spencer)の勇姿。
スペンサーはシカゴで最も有名なバーンストーミングパイロットでした。
1939年、フロイド・ベネットフィールドで
シカゴからニューヨーク、ワシントンD.C.と飛ぶデモ飛行中のスペンサー。
スペンサーはこの時ワシントンD.C.で、当時
ミズーリ州の上院議員だったハリー・S・トルーマンや、
その他の政治指導者と会っています。
このことも、航空における人種差別に終止符を打つためでした。
スミソニアンにはスペンサーの飛行スーツとメガネ、
航空帽が展示されて今でも見ることができます。
これらの装備は、当時オープンコックピットの飛行機で飛行するために
必要不可欠なものでした。
ショーンシー・スペンサー(1906-2002)は
バージニア州リンチバーグに生まれたアフリカ系アメリカ人の飛行家です。
母親はハーレムルネッサンスの詩人アン・スペンサーでした。
スペンサーは11歳の時に初めて飛行機の飛行を見ました。
家族の友人で、再建後初の黒人下院議員であるオスカー・デ・プリーストは、
スペンサーにシカゴの彼の選挙区に移動して飛行訓練を受けることを提案し、
彼はアフリカ系の飛行士たちと全米飛行士協会(NAAA)を組織しました。
彼はシカゴのレストランの厨房で働きながら、
週給のほとんどを飛行訓練に充てていました。
その後、数人の仲間とともに旧式の飛行機を購入し、フライトを行います。
スペンサーとホワイトの飛行が黒人新聞に掲載されたことは、
第二次世界大戦前の民間人パイロット養成プログラムに
黒人を加えるよう議会を説得するための布石となったのです。
1939年、スペンサーが行った飛行は
民間と軍の航空界における人種平等を推進する一つのきっかけでした。
スミソニアンはなぜかデール・ホワイトとスペンサーが
鳥になって木に止まっているクリスマスカードを保存しています。
枝に止まっている本物の小鳥が『?』となっているのが可愛い。
そしてそのカードの中身です。
シカゴ-ワシントンD.C.フライトが書かれています。
1939
シカゴーオハイオークリーブランドーピッツバーグーニューヨーク
フィラデルフィアーボルチモアーワシントンD.C.ーバーモント
コロンバスーフォルテウェインーシカゴ
「つがいの『鳥』が飛び回っています・・
地上で多くの時間を過ごしていますが、
風が変わり、陽気な季節がやってくると、私たちは囀ります
『メリークリスマス、そしてハッピーニューイヤー』
スペンサー ホワイト
・・・・・1940?」
1940年にはまた別のフライトを予定していたのでしょうか。詩的な言葉が、やはりなんというか、詩人を母に持つ息子っぽいですね。
続く。