当空挺館の展示は、主に第一空挺団の前身であるところの
挺進連隊、つまりかつてドキュメンタリー映画「空の神兵」で語られた
落下傘部隊についての資料が展示されていますが、
その前にこの空挺館が「御馬見所」、つまり騎兵学校の施設であったことから、
陸軍騎兵についての資料、そして現在の自衛隊の資料、空挺館そのものの建築的資料、
そのようなものが展示されています。
館内に入り、もし一階の右室から見学を始めたら、目に入ってくるのは・・・・・。
そう・・・・、海軍旭日旗。
ん?
なんか変だと思ったら、実は見学順路は左室からで、
つまり自分が順路を逆行していたということに気づきました。
間違えてこの「海軍落下傘部隊」のコーナーから見てしまったのは、
わたしが表示板を全く見ずに見学路を逆行する粗忽者だったからというよりは、
きっと海軍好きの血がこの旗の存在を前もって鋭く察知したせいに違いない。
と相変わらず我田引水のエリス中尉です。
「もう一つの落下傘部隊」
もう一つの・・・・・・って、わたしは海軍落下傘部隊のことを先に知ったんですけどね。
その理由はこの人物。
旧兵学校である第一術科学校が管理している教育参考館を見学すると、
この堀内豊秋大佐の巨大な油絵が非常に目を引きます。
目を引くのは、その絵が大きいからだけではありません。
一目見て、なんというか・・・これを描いたのは絶対に日本人ではない、という印象。
それだけ日本人らしくない変わった風貌にこの人物が描かれているせいだと思われました。
描かれているのは、メナド降下作戦で指揮官自ら降下し、
メナドのカラビラン飛行場に降り立った堀内大佐。
大作戦の隊長として真っ先に降下し、これから戦闘を指揮するところだというのに
その飄々とした表情、不思議なくらい闊達な様子・・・。
おそらくバリ島に在住していたドイツ人画家ストラッセル・ローランドは、
堀内大佐と実際に面識があり、その人物の穏やかで万人に慕われ、
またユーモアもあったという人格をこのように捉えていたのだろうと思わされます。
実際堀内大佐(当時中佐)が部下を率いて降下作戦を行なったのは41歳のとき。
実に世界最高齢の空挺隊長でした。
しかし、その気力、体力、俊敏性、何よりも判断力は、親子ほども年の違う部下を
時としてしのぐほどで、さすがに「海軍体操」の発明者であると思わされます。
前にも書きましたが、堀内大佐はデンマーク体操を元にした
「海軍体操」の創始者としても名前を残しています。
ちなみに今の海上自衛隊体操は第一から第五までがあり、それは全て
この堀内大佐の「海軍体操」を戦後も改変したもの、ということです。
検索ついでに海自第一体操とこれもついでに自衛隊体操、フルでやってみました。
海自体操では「体が伸びて気持ちがいい」程度ですが、自衛隊体操は結構ハード。
最後まで全部真面目にやったら終わったとき少し、いやかなり息が弾んでいました。
って何やってんだわたし。
ランゴアンとは堀内隊が降り立ったカラビラン飛行場の別名です。
このときの降下ではオランダ軍の狙撃により、
昔「笹井中尉がMM(モテモテ)だった話」というエントリで、当地メナドには
「今はオランダ人に苦しめられているが、必ずそのうちに
天から白いものを被った天使が降りてきてわれわれを救ってくれる」
という伝説があったため、日本海軍軍人である笹井中尉はその予言の通り、
オランダの暴虐から解放してくれた恩人扱いで大いにモテたという話をしたのですが、
この言い伝えは「ジョボジョボ伝説」といい、
”ミナハサ地方には古くから、
「わが民族が危機に瀕する時、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる」
という言い伝えがあった”
という説もあります。
いずれが本当かはともかく、「白い落下物」が落下傘部隊を表していた、
とインドネシア人はこの伝説を解釈したため、日本軍を喜んで受け入れました。
特に堀内大佐の元にはたくさんの現地住民が集まりました。
もともとオランダの傭兵となっていたインドシナ兵ですら、投降して、
その後日本軍に協力するようになったということです。
さて、日本に於ける挺進隊の創設についてですが、
陸軍と海軍、殆ど同時にそれを作戦に取り入れるため動き出したようです。
案の定お互いを敵視する体質のせいで、全く別々に落下傘部隊の設立と実験、
そして導入は並行して行なわれました。
昔ある海兵66期の海軍軍人の日記を紹介したことがありますが、その中に
「落下傘部隊が元で陸軍との仲が悪く、全く困る。
そのうちスリアワセ良好となる」
という記述があり、戦地においてさえ陸海軍の間でこんなことをやっていたのでは
とても戦争には勝てないのではないか、と思ったものです。
まあ、勝てなかったんですけどね。
こんなことからも、おそらくその開発に於いてはさぞかし陸海共に火花を散らし、
先を争うようにしてその導入を勧めたのであろうと予想されるのですが、
そこでふと興味を持って日付を確認したところ、降下実験についての進捗状況は
【海軍】
当初ダミー人形を使った落下傘試験にはじまり、
民間人に変装しての読売遊園落下傘塔体験、ブランコによる飛び出し訓練などを経て、
1941年(昭和16年)1月に最初の有人降下実験に成功した。
【陸軍】
浜松陸軍飛行学校に練習部を設置して機材や人員を徐々に整えた。
読売遊園落下傘塔での練習を経て、
1941(昭和16年)2月20日に初の有人降下に成功した
惜 し い 〜 っ ! ()
一ヶ月海軍が早かったんですね。
しかしこの陸海の「落下傘事始め」を読んで何か異質な雰囲気に気づきませんか?
そう、『読売遊園」という共通のワード。
読売遊園の跡地にあった「ねこたま」「いぬたま」には、
日本帰国当初遊びにいったことがありますが、二子玉川に遊園地があったとは知らなんだ。
ずっと関東在住の方ならご存知なんですね。
1985年閉園といいますから。
どうもそこに、戦前には絶叫ライド?として「落下傘塔」があったらしいのです。
これ、調べてみたのですが、こんなことがわかりました。
二子玉川園の前身は,大正時代に玉川電気鉄道が開設した「玉川第二遊園地」でした。
その後1937年(昭和12年),読売新聞社が敷地と施設を借り受け「読売遊園」と改称します。
当時建設された「大落下傘塔」は,地上50メートルから
パラシュート降下が楽しめる超大型遊戯施設として,
パラシュート降下が楽しめる超大型遊戯施設として,
パラシュート降下が楽しめる超大型遊戯施設として,
人気を集めました。
上級コースは実際のパラシュート降下に近く,
陸軍の飛行学生たちがお忍びで通ったほどだといいます。
戦後「二子玉川園」として営業を再開。
遊戯施設を充実させたり「ウルトラセブン」のロケ地になるなど,人気遊園地となりますが,
土地の再開発の関係などから,1985年(昭和60年)に閉園します。
人々の注目を集めた「大落下傘塔」は,戦後江の島に運ばれ,平和灯台として生まれ変わります。
そして,2002年の江の島展望台のリニューアルに伴い,62年にわたる役目を終えました。
(創世社HPより)
HPの写真を見ていただければ分かりますが、これはまさしく落下傘降下棟。
「空の神兵」で見た、落下傘をつり上げて開いた状態で飛び降りる、
あの訓練何段階か目の、あれと全く同じものが遊園地にあった、というのです。
信じられん。
しかも、写真を見るかぎり、客は本当に落下傘降下、やってますよ。
こんなものが遊園地のアトラクションとして許されていたのか・・・。
というか、こういうものを禁じる法律や、事故が起こったときの管理責任どーたら、とか、
下半身不随または死亡事故で訴えられるかもしれない、などということを、
当時の日本社会というのは全く企業としても想像してもいなかったって感じですね。
まあ実際訴える人などいなかったんでしょうけど。
今の超過保護社会から見ると、とんでもない(遊園地の)蛮勇にすら見えてきます。
ここで注目すべきは、陸海軍どちらの降下実験、並びに降下訓練も、
この読売遊園のお世話になった、ってことなんですね。
そこでもう一度開発事情をみると、「海軍 民間人に変装して」って・・・。
市民の皆さんが普通に楽しく、キャーキャーいいながら(多分男性だけだからワーワーかな)
落下傘降下をしているところに紛れ込み、降下訓練。
陸軍も特に記述はないけれど、遊園地の案内には「陸軍の飛行学生がお忍びで」
なんて書いてあるところを見ると、こちらもおそらく民間人に変装したんでしょう。
真剣な顔をした男が何人もずらずらと現れて、 にこりとも笑わずに何度も降下していたのなら、
おそらく遊園地にもまわりの客にもバレバレだったと思うがどうか。
そして、この陸海両軍の進捗状況を見ても、読売遊園で陸海降下員が
バッティングして火花を散らしていたことはほぼ間違いないのではないでしょうか。
「あいつら、また来ているな」
「あれ・・・・陸さんだろ?わかりやすっ」
「あれは海さんだな」
「あいつらいいなあ。坊主刈りしなくていいからこんなとき目立たなくて」
なんて互いにこそこそ言いながら、遊園地のアトラクションに黙々と並ぶ軍人たち。
シュールです。
降下作戦成功後、海軍落下傘部隊に感状が出されたというニュースです。
さりげなくこの東京日日の第一面には、
「マレー語大辞典」「上級マレー語」
の広告があるのにご注目。
欄印作戦が成功したので、これからかの地に進出しようとする人が増えるかも!
→マレー語習得の必要性があるかも!→マレー語の辞書発売、ちう流れですね。
分かり易い。
ところで、このメナド侵攻作戦は海軍単独で行われ、海軍落下傘部隊によって決行されました。
堀内中佐指揮の横須賀第一特別陸戦隊が、降下隊員334名が飛行場に空挺降下。
(うち銃撃による戦死20名、味方による誤掃射による墜落で22名殉職)
これは日本軍としては史上初の空挺作戦でした。
しかし、この作戦は、大成功であったにもかかわらず報道されませんでした。
当時のマスコミの「報道しない自由?」
それとも特定秘密保護?
これは、他でもない
「陸軍への配慮」
であったと言われております。
落下傘部隊をほぼ同時に創設し、おそらく互いに相手の様子を窺いつつ、
少しでも早く空挺部隊を形にしようとしのぎを削り、
読売遊園ではおそらく互いの降下をこっそり確かめ合って、
「うむ。こちらの方が皆ちゃんと降下しておるぞ」
と(たぶんですけど)頷き合っていた両軍。
ところが陸軍、
「初降下こそ一ヶ月遅れを取ったものの、我が軍こそが戦陣切って」
と勇んでいたら海軍に先を越されてしまったと・・・。
もし陸軍が先だったら報道はどのようになっていたのか、
当時の陸海軍の力関係、そして報道との関係を知るべくもないので
想像しかねますが、なにしろ、そういうことです。
メナド降下の1月11日からほぼ一ヶ月経った2月14日バレンタインデー。(関係ない?)
もともと予定されていた第1連隊は移送中の船火災で装備を失い、パラチフスが蔓延したため
陸軍挺進連隊第2連隊がパレンバンに空挺降下作戦を決行しました。
このとき、空挺隊の直掩隊の総指揮官であったのがあの
加藤建夫・加藤隼戦闘機隊長ですね。
パレンバン作戦についてはまた別の日にお話ししようと思うので、
このときの大本営発表を記します。
「大本営発表、2月15日午後5時10分。
強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、2月14日午前11時26分、
蘭印最大の油田地帯たる、スマトラ島パレンバンに対する奇襲降下に成功し、
敵を撃破して、飛行場その他の要地を占領確保するとともに、更に戦果を拡張中なり。
陸軍航空部隊は本作戦に密接に協力するとともに、
すでにその一部は本15日午前同地飛行場に躍進せり。終わり」
この大作戦の成功は、メディアなどでも大々的に宣伝されました。
またのちに公開、発表された映画、軍歌と合わせ、
空の神兵・陸軍落下傘部隊として国民に広く知られるようになります。
あらあら。
これじゃきっと海軍空挺隊の皆さんはかなりオモシロくなかったのでは。
前述の海軍軍人の回想記で、マカッサルにおける陸海軍が互いに
「仲が悪く本当に困った」
というのも、もともとのライバル意識に加えてこういう報道への不満なんかがあったのでは。
さて、海軍落下傘部隊の勲功者であった堀内大佐ですが、戦後オランダ軍による軍事裁判で
部下の罪を一人で被り、銃殺刑に処せられました。
残虐行為の責任を取らされて、という報はたちまち付近住民に広がり、
かつて涙で別れを惜しんだほどこの人物を敬愛していた彼らは、
皆で助命嘆願までしたのですが、しょせんオランダ人に取って「奴隷」である
インドネシア人の嘆願が聞き入れられることはなく、刑は執行されました。
裁判は形だけで、裁判官となったのが、なんと日本軍の攻撃で逃げ出した後に降伏し、
捕虜になったオランダ軍の守備隊長でした。
この戦犯裁判も連合国のそれと同じく、徹頭徹尾オランダの「報復」でしかなかったのです。
堀内大佐はその最後、目隠しを断り、銃殺隊の砲列を見据えつつ、
堂々とした態度で銃殺刑に服したということです。