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成層圏への挑戦〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアンの一角に、「The Race to the Stratosphere」(成層圏へのレース)

というコーナーがあります。
今日は、この展示をご紹介していこうと思います。
■高みを目指すレース
高みだけを目指した場合、その方法は「気球」一択です。

1931年から1939年まで、ベルギー、ソ連、ポーランド、スペイン、
そしてアメリカは、当時の技術で絶対高度記録を獲得し、
保持するため、熾烈な戦いを繰り広げていました。

「熾烈な」というのは決して大袈裟でも盛ってもいません。

この戦いによって、二つの高高度気球に挑戦したソ連の飛行士が、
なんと7名もその命を失っているのです。

アメリカでは3人のアメリカ人がこれに挑戦しました。
【ジャネット・ピカール夫妻】



そのうちの一人がジャネット・R・ピカール(Jeanette Ridlon Piccard)。

ちなみに自衛隊で磨きに使われるピカールという商品名は、
このフランス名から来て・・・おりません。
あれは「ピカっと光る」から来ているそうです。

彼女はアメリカ初の女性気球パイロットとして、1934年、
夫のジャンと共に高度57,500フィート、
つまり成層圏に達した最初の女性にもなりました。
そのタイトルは、1963年にソ連の宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワが
宇宙飛行祖する瞬間まで破られることはありませんでした。

大学時代に知り合った夫と共にスポンサーを募って気球を作り、
その「センチュリー・オブ・プログレス号」で高高度挑戦を公言し、
彼らは4万5千人の観客に見送られてミシガン州を出発。

彼らはペットの亀「フルール・ド・リ」(百合の花)も載せたそうです。
小さなバンドの演奏するアメリカ国歌の後、飛び立った彼らは、
エリー湖を横断しながら硬度を上げていきました。

なんでも、新聞連合は、彼らが無事高高度記録を達成したら、
1000ドルの賞金を出すと約束したので、
家財を売り払ってでも?ひたすら高度を目指したのです。

ゴンドラは17.5kmまで上昇し、最終的にオハイオ州に着地しましたが、
楡の林の中だったので、気球はゴンドラから離れ、裂けてしまい、
ジャンは肋骨と左足首を軽く骨折してしまいました。

彼女はこのことについてこうインタビューに答えたと言います。

「なんてことなの!ホワイトハウスの芝生に降りたかったのに」


ところで「宇宙飛行士」と呼ばれる人になるのには、
定義があるというのをご存知でしょうか。

0−12km Troposphere 対流圏
12-50km  Stratosphere 成層圏
50-80km Mesosphere 中間圏80+km Thermosphere 熱圏

この図の、80km、サーモスフィア、熱圏より上に行けた場合、
その人は「宇宙飛行士」アストロノーまたはコスモノーとなるわけです。

ジャネットたちはその時代人類最高となる
成層圏まで達することができましたが、そこから上は
気球というようなものでは限界でした。
【トーマス”テックス”セトル海軍中将】

三番目の気球チーム、セトルとフォードニー

トーマス・グリーンハウ・ウィリアムズ・セトル中将Vice Admiral Thomas Greenhow Williams "Tex" Settle
は、1920年代から30年代にかけての飛行黄金時代に、
気球、飛行船、グライダー、飛行機を操縦し、
飛行船を指揮した最初の人物として世界的に有名になった海軍軍人です。
セトル中将は、多くの航空レースで優勝し、
耐久性と高度に関する数々の航空記録を持ち、
成層圏に与圧キャビンで飛び立った、最初のアメリカ人でした。

海軍兵学校を次席で卒業後、駆逐艦で海軍軍人のキャリアを積み、
「あの」飛行船USS「シェナンドー」に通信士として配置されました。

「シェナンドー」についてはここでも説明しましたね。
墜落し、海軍乗員13名全員が犠牲になるという事故を起こしています。

しかし、「シェナンドー」がオハイオに墜落したとき、セトルは
捕獲用のカイトバルーンで単独訓練を行なっており、
たまたま勤務から外されていて命拾いをしたのでした。

「シェナンドー」の悲劇を知っても彼は怯むことなく、
飛行船の操縦訓練を志願し、操縦士のウィングマークを獲得しました。

当時の飛行船がいかに危険な装備であったかは後世の知るところですが、
彼は軍人としてそれに立ち向かおうとしたのです。

しかし、そんな彼に運命は過酷でした。
USS「ロスアンゼルス」に乗り組んだ彼は、
この飛行船でも事故を経験するのです。

これですよ

この時、セトルは最先任として「ロスアンゼルス」に乗っていました。

突然の寒冷前線が遅い、その結果、日光によって温められた飛行船の
浮力が増加し、機体は上方に押し上げられてしまいます。

セトルはその時地上にいた船長に「総員退船」許可を求めますが、
船長、これを拒否。
いくら自分が乗っていないからって、これあまりに酷すぎないか。

退去を禁止された彼は、浮き上がる船尾の錘にするため、
部下を後方に移動させようとしますが、時すでに遅し。

このとき船体はほぼ直立しようという勢いでした。

セトルは船尾から部下を呼び戻し、ゆっくりと船体を回転させながら
尾部が地面に激突することのないよう、地上に下ろしていきました。

彼の冷静な判断と操作が功を奏し、後尾はゆっくりと高度を下げ、
最終的には一人の怪我人も出すことなく事態は収集しました。

この後1932年まで彼は飛行船の乗務を続けますが、
この事故を含め、彼はその任務で一度も事故も死者も出さず、
331回にわたる飛行任務を全て成功させています。
その後、USS「アクロン」USS「メイコン」の建造に携わり、
テストパイロットとして飛行教官も行いました。
なんでも、生徒には心底恐れられるほど厳しい指導だったそうです。

気球で名を上げた彼は、その後、軍に所属した状態で
気球の高度挑戦レースなどに次々と挑戦していきます。

ナビはその都度軍から目ぼしい人材が選ばれ、タッグを組みました。
セトルが参加した気球レースの結果は。

【気球レース】

1927年、セトルはジョージ・N・スティーブンスとともに
初めて気球レースに出場し、この時は天候不良で着陸し、敗退

これ以来、セトルは海軍の気象機関に協力を求めるようになりました。

1928年のピッツバーグでの国内レースでは落雷により3機の気球が落下し、
パイロット2名が死亡、4名が負傷したため、セトル早々に棄権
1929年、ウィルフレッド・ブシュネル少尉と国際レースに出場し、
1532kmの記録で優勝し、3つの気球カテゴリーで世界記録を樹立、
世界大会への出場権を獲得

1931年、セトルとブッシュネル中尉2度目の国際大会優勝

1932年、1,550kmの記録で国際大会に優勝、ハーモントロフィーを獲得

1933年、セトル-ブッシュネル、耐久レースで世界耐久記録を達成
フォードニー(左)セトル(左から二番目)

海兵隊のチェスター・フォードニー少佐をナビに指名、
オハイオのレースに出場するも沼地に軟着陸

この着陸地点は、恐るべき偶然で、ジャネット・ピカールの家から
ほんの数キロのところだったということです。
世界記録18,665km、
エクスプローラーIIが1935年に飛行するまで公式記録の保持者であった
海軍人生のほとんどを気球に捧げたセトルですが、
こんな写真が残されています。


巡洋艦「ポートランド」上でのセトル艦長(双眼鏡を持つ人物)

ちなみにセトルはその後海上勤務へと戻りました。

その理由は簡単、海軍が気球を運用するのをやめたからですが、
海軍士官として海の上に戻った彼は、
USS「パロス」「ポートランド」の指揮を執ります。

第二次世界大戦では「ポートランド」でコレヒドールの空挺部隊を支援し、
その後沖縄攻略の支援を行なっています。

沖縄では潜水艦からの魚雷を11回回避することに成功しましたが、
攻撃には失敗したという記録が残されています。



■ 陸軍トリオ
スティーブンス少佐、ケプナー少佐、アンダーソン少尉
さて、次なる気球挑戦者は、陸軍軍人三人のチームです。
1934年、ナショナルジオグラフィック協会と陸軍航空隊の共催で、
成層圏を調査するための気球飛行が行われました。

水素を充填した巨大な気球の下には「エクスプローラー1号」と名付けられた
3人乗りの密閉型ゴンドラが吊り下げられていました。

1933年、アメリカ陸軍航空隊のスティーブンス大尉は、
気球による成層圏探検を上層部に働きかけました。

陸軍はこの計画に賛成したものの、
「人員と施設は協力するが、資金の提供まではちょっと」
という態度だったので、スティーブンス、
このような事業を支援する意思と手段を兼ね備えた組織、
ナショナルジオグラフィック協会に目をつけたのです。

スティーブンスは、この飛行を、高高度撮影技術、高層大気の特性、
宇宙線などを研究する機会として提案し、また、
75,000フィートという高度の新記録に挑戦するという目標を立てました。
ナショジオの他、ユナイテッド・エアクラフト・アンド・トランスポート社、
(現在のユナイテッド)イーストマン・コダック研究所、
フェアチャイルド・アビエーション社、スペリー・ジャイロスコープ社など
スポンサーが集まり、(スティーブンス、凄腕?)
また、スティーブンス自身も私財を数千ドル投じています。

そこで動き出した陸軍航空隊は、3人の乗組員を任命しました。

パイロットはウィリアム・E・ケプナー少佐、
代理パイロットはオーヴィル・A・アンダーソン少尉、
そして科学観察官としてスティーブンス大尉の3人です。

気球とゴンドラを作り、3人の人間と実物大の実験室相当の機器を
宇宙の果てに送り込むための作業がすぐに始められました。

ゴンドラはダウ・ケミカル社が「ダウメタル」を使って作り、
気球はグッドイヤー・ツェッペリン社が綿布で制作する手筈も整えました。

彼らの搭乗した気球ゴンドラの正式名称は

「The National Geographic -
 Army Air Corps Stratosphere Expedition」

ですが、長いので一般には「Explorer」の名で知られており、
さらにのちにエクスプローラー2が登場することになったので、
こちらを遡及的にエクスプローラー1と呼ぶこともあります。


スティーブンス(左)とアンダーソン大尉

機材の組み立てと同時に、打ち上げに適した場所を確保する必要があります。

気球を保護するためのシェルターと、戻ってきて着陸が可能な
比較的平坦で見通しの良い場所でなくてはいけません。
そこで選ばれたのがブラックヒルズという国有林でした。

近隣住民の、土地の賃貸、道路の整備、整備の敷設などへの
資金協力も漕ぎ着け、準備は着々と進んで行きました。

ケプナー少佐とスティーブンス大佐、気球研究中
1934年7月27日、ようやくエクスプローラーI打ち上げの準備が整います。

第4騎兵隊の部隊がマンモス気球を梱包箱から取り出し、
気球を保護するために地面に敷かれたおがくずの上に並べました。

夕暮れが近づくと、夜から早朝にかけて作業が行われるため、
発射場の周囲にスポットライトの輪が点灯されました。

6時間かけて1,500本の水素ボンベを気球に充填し、
午前2時頃に完全に膨らませた後、ゴンドラを車輪で運び出し、
3時間かけて気球に取り付けていきます。


午前5時45分、いよいよ「エクスプローラー号」が打ち上げられました。

パイロットのケプナー少佐、副パイロットのアンダーソン大尉、
科学観測員のアルバート・W・スティーブンス大尉の3人のクルーは、
最終高度11.5マイルまで上昇を開始する予定でした。

午後1時頃、約7時間の飛行の後、気球は60,613フィートに到達。
それまで活発にデータを収集し、地上に送信していましたが、
しかし、それもピタリと止んでしまいます。

ゴンドラの上でカタカタという音がして、3人が外を見ると、
気球の底に裂け目ができていたのです。

それでもスティーブンスとアンダーソンは計測を続け、
ケプナーは、緊急パラシュートのレバーに手をかけて待機していました。
エクスプローラー気球はいったん下降を始めると、
あっという間に下降を始め、45分で2万フィートまで落ちました。

ゴンドラの中にいても気球の生地が破れ続ける音が聞こえ、
さらに30分後、さらに2万フィート降下。

さすがの彼らも、そろそろパラシュートを装着しようと考え、
ゴンドラのハッチを開けると、バッグの底が全部抜け落ちました。

なんのことはない、気球がパラシュート代わりになり、
地上への落下速度がわずかに遅くなっていただけだったのです。

しかし、転んでもただでは起きないというのか、この間も、
クルーは地上と無線で連絡を取り合い、
世界中の観客とドラマを共有し続けました。

自分の危険も顧みず実況をやめないユーチューバーみたいなもんですかね。

高度5,000フィート付近で、3人のクルーはゴンドラから脱出を開始。
最初に飛び降りたのはアンダーソンでしたが、
飛び降りた瞬間に気球が爆発し、ゴンドラは地上に落下しました。

次にスティーブンスが脱出を試みますが、しかし、
2度も強風にあおられ、ゴンドラの中に戻ってしまいます。

そこでケプナーがスティーブンスを押し出し、その後に続こうとしますが、
ケプナーは、パラシュートを開くのがやっとでした。
その時ゴンドラがゴツンと音を立てて地面に突き刺さりました。

もし外に飛び出していたら、ケプナーは高度が足りずに
地面に激突していたと思われます。

というわけで、奇跡的に3人とも無事着陸することができたのですが、
すぐに気球の後を車で追ってきた人たちが、3人に群がってきました。

当初は全損かと心配されるほどの事故でしたが、
データこそ失われたものの、救出できるものがたくさんあり、
幸運なことに、気球とゴンドラ、そして観測機器に
多額の保険がかけられていたのです。

このため、陸軍とナショナルジオグラフィック協会は、
すぐに再飛行の計画を立て始めたということですが・・。

うーん・・・・次に誰を乗せようというのか。




続く。




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