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エクスプローラーIIの挑戦、グレイ大尉の悲劇〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「気球で高度の限界に挑戦コーナー」から
前回、高度の限界に挑戦した一般、海軍、陸軍代表の
三組のアメリカ人バルーマー(気球飛行士)を紹介したわけですが、
そのコーナーの近くの窓際には、こんなものがございます。



スミソニアンを訪問してすぐご紹介したことがありますが、
この気球のレプリカの元ネタ?が見つかりました。
1783年、ジャン・フランソワ・ピラトル・ド・ロジエと
アルランド侯爵の操縦によって人類史上初の有人気球飛行を行なった、

熱気球「ラ・フレッセル」( La Flesselles)
です。


気球は、航空黎明期にはモンゴルフィエと呼ばれていました。
「ラ・フレッセル」と名付けた熱気球を開発した
ジョセフ・モンゴルフィエという人の名前です、

モンゴルフィエは1784年、リヨンで「ラ・フレッセル」を打ち上げます。
幅22フィートの籐製のかごに7人を乗せて
3,000フィート以上上昇させ、乗客は皆、大喜びだったとか。

しかし初期の熱気球は、空気が温かいうちしか飛ばせませんでした。
空気を再加熱するための火が気球の布に引火し、危険だったのです。

熱気球用のプロパンバーナーが発明されるのは、
なんと第二次世界大戦以降のことになります。
モンゴルフィエが熱気球を開発したほとんど同じ時期に、
「シャルルの法則」(覚えてますか?気体を熱した時の膨張の法則です)
で有名なフランスの物理学者、
ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルルが、
無人の水素気球を打ち上げています。
この時、ちょっとした面白い事件が起こっています。
当事者は決して面白くなかったと思いますが。

シャルルが4日間かけて十分な水素を作り、打ち上げた気球は
高度3000フィートまで上昇し、1時間以上浮遊していましたが、
やがて風に流されてパリから24kmの地点に落下。

空からいきなり降ってきた「恐怖の大王」に恐れ慄いた農民たちが、
一斉に手に手に武器を持って襲い掛かり、気球は切り刻まれました。


犬も巻き込んで気球をやっつける人々(笑)

これを嘆いた国王ルイ16世は、風船とは何か、どのようなものかを啓蒙させ、
二度と襲撃しないように、と民衆におふれを出したということです。
おふれ出すの遅すぎ。


ところで、基本的なところに立ち返りますが、なぜ人々は
飛行機が発明されていた頃になっても、高度を目指す、
つまり宇宙の端を探索するための手段に気球を選んだのでしょうか。
■ 放射線研究と気球の関係
まず、なぜ人類が近代になって宇宙を目指したかを考えてみます。
その意図は、まず放射線にありました。

福島第一原発の事故の後、ベクレルという言葉は
我々日本人の誰もが知ることとなりましたが、
皆さんは放射線を発見し、放射能の単位にその名を残している
フランスの物理学者、アンリ・ベクレルをご存知でしょうか。
(マリ・キュリーは放射線元素の発見、X線の発見者はレントゲンです)


アンリ・ベクレルが1896年遭遇した偶然。

それは、さっくりというと、
数十年後に人類が月面に降り立つ
という出来事にまで帰結するという、人類史上における大事件でした。
長年放射線の存在を突き止めるための研究を重ねていた彼は、
ウラン塩が太陽光に照らされるとX線に似た放射線を出す、
という仮定を立てており、その説を学会でも発表しようとしていました。

1896年2月の終わりのその週、パリは陽が射さない曇天が続いたため、
この天候では十分な実験結果が得られないと思い、ベクレルは
実験を中止して、ウランと写真板を引き出しの中にしまい込みました。

そして運命の1896年3月1日、翌日に会議を控えていたベクレルは、
サンプルに光は当たっていないが何となく見てみよう、と思い(多分)、
引き出しから写真乾板を取り出し、これもなんとなく現像してみると、
なんと、プレート上にはウランベースの結晶画像が確認されたのです。

翌日の会議でベクレルはX線とは違うこの放射線の存在を発表し、
ウランが放射線を出したと結論づけ、その2年後、
マリ・キュリー夫人が "放射能 "という造語を作り、名づけました。

そこから、世界の科学者の間で放射線の解明競争が始まったのです。

今日の話と関係なくね?って?
ここからなんですよ。
これこそが、高みを目指した理由です。

1920年代になると、アメリカの科学者たちは、
宇宙線を研究し、原子の秘密を解き明かすためには、
宇宙の境界を突き破ればいいと考えたのでした。

気球はそのための理想的な道具と考えられるようになったのです。

1920年代には無人の気球が5万フィートの高さまで飛ばされ、
1931年にはスイスのオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)
によって、有人飛行で高度9.81マイルの高度まで到達しました。

その数ヵ月後、初めて密閉式ゴンドラで飛行し、10マイルの壁を破り、
より高い飛行が可能であることを証明したという流れです。

その方法がなぜ飛行機ではなく気球だったか。

それはよく考えると当たり前のことのようですが、熱気球、
または空気より軽いガスが満たされた気球は、空気よりも軽いため、
飛行機よりも純粋に高く飛ぶことが可能と考えられたためです。
現に、本日トップの写真、エクスプローラーIIは、1930年代当時、
飛行機で達することができる高さをはるかに凌ぐ上昇が可能でした。

その高さまで人間が乗っていくわけですから、
当然ながら、特別なゴンドラというか、キャビンが必要となるのですが、
それすらも知識の及ばなかった初期には殉職者も出ました。


■グレイ少佐の悲劇

エクスプローラーIIについて話す前に、第一次世界大戦後の
気球乗り、ホーソーン・グレイ陸軍少佐の事故についてお話しします。

創設されたばかりの陸軍航空局で気球飛行士になったグレイは、
1927年に3回気球で高度記録に挑戦しています。

これは、高度4万フィート(12km)以上で飛行隊が生存し、
各種機器が機能するための条件を探る実験として行われました。

この研究実験に抜擢されたグレイ少佐は、第一回目、
高度8.69kmの非公式高度記録を達成しましたが、
すでにこの時空気が薄く低酸素症で気を失っています。

このときは、自然落下していく気球の速度を
バラストで落とすことのできるギリギリに意識を取り戻し、
なんとか生還することができました。

二ヶ月後の第二回目飛行では、さらに12.94kmの記録を出しますが、
この時も気球が急降下してパラシュートで脱出しています。

2回ともこんな状況だったのに、
なぜか陸軍は同じグレイ少佐を使って3回目の実験を行います。
3回目実験の実行日は、11月4日でした。



スミソニアンには、グレイ少佐が乗ったゴンドラ実物が残されています。
アメリカ北部の11月、高度12キロに上昇しようという気球に、
よくまあ生身の人間をこんなバスケットに乗せただけで打ち上げたものだ、
とその無謀さに、心胆震撼とせしむるを禁じ得ません。

その日グレイ少佐は、午後2時23分、イリノイ州のスコット基地を離陸して
彼の生涯最後の飛行に飛び立ちました。

午後3時13分、気球はどんよりとした曇天の中を上昇し、視界から消え、
翌日、テネシー州付近の木の上に引っ掛かっているのが発見されましたが、
グレイ少佐はバスケットの中ですでに死亡していました。

発見されたときのグレイ少佐(カゴの右側下向き)
グレイ少佐に何が起こったのでしょうか。

高度4万フィートで、グレイ少佐は報告書に
”shaky”「震えている」と書きこみましたが(でしょうね)
不思議なことに、記録用気圧計によると、
書き込みを行ってから気球はさらに上昇を続け、
前回のフライトと同じ42,740フィートの高さにまで到達し、
それから降下を始めていたことがわかりました。
彼は混乱したのでしょうか。
それともさらに記録を伸ばそうとしたのでしょうか。
有力な説は、彼は公式記録を作ろうとして、高度9kmから10.4kmの間で、
バラスト用の空の酸素ボンベを空中に廃棄した際、
ボンベ缶が無線アンテナを折ってしまったというものです。

さらに、高度が高く気温が低すぎて彼は凍え、疲労困憊して、
酸素タンクのバルブを開けなくなったところで地上との通信が断たれ、
非常事態を全く通信できないまま意識を失ったともされます。
「凍えている」の直前のレポートには、

「空は深く青く、太陽は非常に明るく、砂(バラスト)はすべてなくなった」

と書かれていました。

解剖による科学的な原因追求がなぜ行われなかったのかも不思議ですが、
グレイの死を調査した委員会は、彼の死因は時計が停止してしまい、
酸素摂取時間が分からなくなって、供給量を使い切ってしまったことによる、
窒息死と状況証拠から結論づけています。


この悲劇的なフライト以降、剥き出しのバスケットによる
気球の高高度飛行は行われることは2度とありませんでした。

ってか当たり前だろ!(激怒)

グレイは少佐に昇進し、死後に授与された殊勲十字章には、
このように記されているそうです。

「彼の勇気は酸素の供給量よりも大きかった」

うーん・・・・・・微妙。

スミソニアンの「ミリタリーエア」のコーナーには、
航空界に貢献したレジェンドがパネルにされて並んでいますが、
ここにグレイ少佐(下段左から二番目)の写真もあります。


■ エクスプローラーII


前回、陸軍のアルバート・スティーブンス大尉と、ケプナー少佐、
アンダーソン大尉が命からがら帰還した「エクスプローラー」の後、
陸軍とナショジオは早速次の気球打ち上げを計画し始めたけど、
今度は一体誰を乗せるつもりなの?というところで終わりました。

ここからは、翌年となる1935年打ち上げられた気球、
「エクスプローラーII」についてです。

エクスプローラーIIは、1935年11月11日に打ち上げられた米国の有人高高度気球で、高度22,066mの記録を達成しました。

サウスダコタ州のストラトボウルから打ち上げられたこのヘリウム気球には、
アメリカ陸軍航空隊のアルバート・W・スティーブンス大尉と、
オーヴィル・A・アンダーソンの2名(最初のコンビですね)が、
密閉した球形のキャビンに搭乗していました。
乗員は午後4時13分にサウスダコタ州ホワイトレイク付近に無事着陸し、
2人は国家的英雄として賞賛されることになります。

そして、ゴンドラに搭載された科学機器からは、
成層圏に関する有益な情報がもたらされることになりました。

【ソ連の気球事故】

1934年に打ち上げられたエクスプローラー(1号)は、
ほぼ記録的な高度18,475kmを達成しましたが、
ほぼ墜落状態で、乗員は命からがら脱出したことは前回お話ししました。

カプセルは衝撃でほぼ完全に破壊されてしまったわけですが、
スティーブンスはこれで恐れ慄くどころか、リベンジを誓いました。

この墜落事故は国家的な恥として語られたので、乗員としても
このままで終わるわけにはいかん!とファイトを燃やしたわけです。

そして改良型気球での再挑戦を働きかけたのですが、その時ちょうど、
1934年にロシアが成層圏飛行に挑戦し、事故で死者が出ました。

このニュースを受け、関係者はその危険性に身構えて、
事故原因の究明をまず待つことにしました。

事故の検証では、上昇中に気球が対称に開かなかったため、
応力(外力を受けた部材内部に発生する内力)
で布が裂けたことが明らかにされました。

つまり打ち上げが予定より1カ月遅れたため、ゴム引きの綿がくっつき、
気球の膨らみが不均等になってしまい、
袋の中のガスが大気中の酸素と混ざり合い、水素の爆発が起こったのです。
【準備】

しかし、1935年、陸軍航空隊は再挑戦することを決定します。

ソ連の事故に鑑み、水素の危険性を排除するため、
米国が独占しているヘリウムを使用することになったのですが、
ヘリウムガスは揚力が弱いため、より大きな気球が必要となりました。

そこで、グッドイヤー・ツェッペリン社は気球の容積を増やし、
ダウ・ケミカル社は、マグネシウムとアルミニウムの合金である
「ダウメタル」でできたより大きくて軽いゴンドラを組み立て、
科学機器の量を減らし、2人の乗組員を乗せることにしました。

キャビンは直径2.7m、質量290kgで、680kgのペイロードを輸送できます。
球体は一枚の大きな金属板を裁断して、溶接して成形されました。

キャビンはこれで密閉されることになりましたが、
非常時の乗員の脱出を容易にするため、
舷窓はエクスプローラーIよりも広く、大きく設計されました。

カプセル内部の雰囲気は、火災の危険を減らすため、
液体酸素の代わりに液体空気から供給されることにします。

改造気球は1935年の春までに準備が整い、1935年7月10日に、
最初の打ち上げが行われたのですが、残念ながら、
これも打ち上げ時に気球が破裂してしまい、失敗に終わりました。



その後、NBSの調査結果を受けて、グッドイヤーが気球の材質を強化し、
再挑戦するべく準備が整いました。

ここでようやく重視され始めたのが、実験を行う季節です。
過去15年間に収集されたストラトボール付近の気象データを調べたところ、
10月は例年、気球を飛ばすのに最適な好天が続くということがわかりました。

そこで9月上旬に気象学者チームがストラトボールに集められ、
臨時の気象観測所の設置から準備が始まりました。
もうアメリカの科学技術陣総力戦の様相を呈しています。
しかし、この実験は、結果としてそれだけの労力に値する結果を
アメリカという科学技術後進国(当時)にもたらすことになります。


打ち上げに必要な気象条件は、飛行期間中、降水量のない晴天が続くことと、地表風速が23km/h(14mph)を超えないこと、とされます。

寒冷前線の接近に伴い、1935年11月10日の夜、
気球はいよいよ打ち上げの準備に入ります。
一晩で-14℃まで気温が下がったため、気球の布地をストーブを使って暖め、しなやかな状態が保たれたままにしておく注意が払われます。

ヘリウムは1,685本のスチール製シリンダーから注入されましたが、
それが完了するまで8時間かかってしまい、しかもその間、
布地に5.2mの破れができてそれを修復するなど、次々と問題が起こります。

膨らんだ後の気球の高さは96m。
ゴンドラは、100人以上の陸軍兵士で構成されたチームが
ケーブルを抑え、まず地表に固定しました。

翌朝7時1分に準備が完了、打ち上げに適した状態に漕ぎ着けました。
準備完了!
【エクスプローラーIIの打ち上げと飛行】
指揮官、アルバート・W・スティーブンス大尉と最初にバディを組んだ
オーヴィル・アンダーソン大尉が、いよいよ気球に乗り込みました。
(オーヴィルって名前、絶対ライト兄弟から取ったよね)

午前8時ちょうど、34kgの細かい鉛の弾丸でできたバラストが放出され、
離陸が始まりました。

離陸後しばらくして、風の影響で気球は渓谷に突き刺さり、
見ている者をヒヤッとさせますが、その後は正常に上昇していきました。

エクスプローラーIIは午後12時30分に
高度22,066mに達し80分間もの間そこに留まっていました。

これは人類が達成した高高度では世界新記録であり、
この記録はその後20年近く破られることはありませんでした。

この快挙によって、スティーブンスとアンダーソン大尉は、
地球の湾曲を目撃した最初の人類となります。

ゴンドラは自転するためにファンを搭載していたのですが、
その高度では全く意味がないことも、初めてそこに達してわかりました。

しかしこのため乗員はゴンドラを回転させることができず、
直射日光をまともに受けることになってしまい、そのため、
カプセルの片側からの観測はほとんど不可能となってしまったのです。
これは予想外でした。
それでもスティーブンス大尉は、上空から、
数百マイルに及ぶ地表の細部を見ることができたと報告しています。

彼らの到達した高度は地上で起こっていることを見るには高すぎましたが、
撮影した写真は、その後の高高度偵察気球の可能性を予感させました。


エクスプローラーIIには通信機器が搭載されており、
飛行中交信された無線信号は、米全土とヨーロッパで放送されました。

また、気球に搭載された機器で、宇宙線、
異なる高度でのオゾン分布と大気の電気伝導率、成層圏の大気組成、
太陽・月・地球の光度に関するデータを収集することができました。

また、成層圏での微生物の採取や、宇宙線被曝の影響を調べるため、
カビのサンプルを携行するなどもしています。

また、スティーブンスは映画用カメラも持っていって、
成層圏から撮影した初の動画も公開しています。

そして、彼らが収集したデータによって、高層大気のオゾンが
太陽からの紫外線の大部分を遮断する効果があることが突き止められました。

また、最高高度での酸素の割合が海面とほぼ同じであることも、
この時取得したデータからわかってきたことです。


さて、いよいよ降下が開始され、正常に気球は高度を下げていきます。

高度300mに達したとき、クルーは科学機器を梱包し、
パラシュートをつけて投下する作業を始めました。
これは、たとえゴンドラが不時着してもデータを保護するための準備です。

しかし、気球は午後4時13分、サウスダコタ州の野原に静かに着陸したため、
これらの予防措置は必要なかったことがわかりました。

【ミッション成功!】
このミッションの成功はマスコミで大きく取り上げられ、
飛行士たちはフランクリン・D・ルーズベルト大統領の謁見を受けました。

「国家の恥」とまで自嘲していた前回の失敗から捲土重来、汚名返上すべく、
チーム一丸となって目標に邁進して得られた栄光です。

二人の気球飛行士は、その年の最も功績のあった飛行に対して与えられる
マッケイ・トロフィーを授与されました。

また、軍人として、エクスプローラーII、そして失敗したエクスプローラーの
各飛行に対する殊勲十字章を授与されました。
IIが成功しなかったら、失敗した1号への功労章も当然なかったでしょう。

エクスプローラー号での科学観測は大成功を収め、
多くのデータを収集し、その成果は科学雑誌に掲載されました。

データと乗組員の経験は、この後起こる第二次世界大戦で、
高高度戦闘作戦の飛行隊員の装備や方法に用いられることになります。

エクスプローラー号に用いた気球は、100万ものピースに切り刻まれ、
記念の栞としてミッションを支援したNGS会員に配られました。

100万人もが所持していたのなら、もしかしたら今日も
ebayあたりで売買されているのかもしれません。

そして、その時のゴンドラは、ここ、
スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館に展示されています。

勇敢な挑戦者だった悲劇のヒーロー、
ホーソーン・グレイ少佐の籐のバスケットと共に。


続く。


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