Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

ジミー・ドーリトルとスマイリング・ジャック〜スミソニアン航空博物館

$
0
0

スミソニアン博物館のミリタリーエア、陸軍航空のコーナーには、
歴史的なカーティスの水上機R3 C-2が展示されています。

これは、かつてあのジェームズ”ジミー”・ドーリトル大尉が乗ったものです。



機体の下には当時のジミー・ドーリトルの飛行服姿が
パネルになってお出迎えしてくれます。

東京空襲=ドーリトル空襲で有名な彼ですが、若い時は
エアレース常連の航空パイロットとして名前を挙げました。
今日は、スミソニアン航空博物館の展示から、
若きドーリトル飛行士についてお話しします。

1925年、アメリカ陸軍航空隊のパイロット、ジミー・ドーリトルは、
このカーティスR 3C-2で、シュナイダー・トロフィー水上機レースに出場、
見事一位を獲得し、翌日には世界記録を打ち立てました。

パネルには、「ジミー・ドーリトルとは?」として、

1920年代、1930年代のアメリカ最高のレースパイロット

航空エンジニア

初めて「ブラインド」フライトを行った恐れ知らずのパイロット

第二次世界大戦の国際的英雄

とそのキャッチフレーズが書かれています。
■ シュナイダー・トロフィー・レース


ノーズがハシブトガラスそっくりな(笑)カーティスR -2C3。

1925年10月26日、アメリカ陸軍中尉ジェームス・H・ドーリトルが
このカーチスR3C-2で参加したシュナイダートロフィーレースの記録は、
平均時速374kmというものでした。

翌日に樹立した世界記録は、直線コースで時速395kmというものです。
R 3Cは純粋にスピードを追求するために設計されており、
水上飛行機から地上用に転換することが可能でした。

そのため、ドーリトルはのちに陸上機としてもレースで結果を出しています。

多くの革新的な機能を持った機体でしたが、
中でも翼に組み込まれたエンジン冷却のためのラジエーター、
そしてフロートに燃料タンクを組み込んだ点が特に先進でした。


これがコクピット。
まあよくぞこれで新幹線並みの速さに人体が耐えたなと。
ちなみにレースには他にも2機同じカーティスの機体が参加しましたが、
そのどちらもゴールラインに到達することもできなかったそうです。



レースの時のカーティスR 3C-2とドーリトル。
レースはメリーランド州のチェサピーク湾で行われました。

メリーランドの天候については詳しくありませんが、
11月のレースは気候的に上空は厳しかったのではないでしょうか。

大恐慌時代のアメリカ航空界のポピュリズムは、1930年代、
エアレースという目に見える形に集結されることになります。

資金さえあれば、容易に入手できる技術を利用し、エアレーサーを投入して、
それだけで名声と富を手に入れることができた時代でした。
国際レースはコンスタントにクリーブランドで行われましたが、
他の主要なアメリカの都市もこぞってレースをホストしています。




シュナイダー・トロフィーレースというのは、1913年から1931年まで
欧米各地を持ち回りで開催された水上機のスピードレースです。

主催者のフランスの富豪、シュナイダーの名前を取ったレースで、
彼自身が水上機の将来性を見込んで、航空技術を発達させるため
私費を投じてレースを始めることにしたようです。

第1回大会、第2会大会は1913年14年と連続して行われましたが、
第一次大戦が始まってしまい、その次は1919年と間が空いてしまいました。

この後の経過が、なんというか第一次世界大戦後の世界の航空界を
ある意味描写している部分もあると思うので書いておきます。

1919 開催地イギリス 優勝:イタリア
1920 開催地イタリア 優勝:イタリア
1921 開催地イタリア 優勝:イタリア

3回連続優勝すればトロフィーを永久獲得できるというルールだったが、
他の国の準備体制が不十分であったという事情を鑑み、
イタリアは紳士的にトロフィー永久保持の権利を放棄

1923 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

アメリカ、陸軍の総力を挙げて参戦したため、他国から批判される
1924 開催地アメリカ(中止) 優勝:なし

アメリカの圧倒的な技術力に対抗出来ず、フランス、イタリアは欠場、
イギリス機も予選でクラッシュしてしまったため、
アメリカはスポーツマンシップに則って開催の延期を申し出る
1925 開催地アメリカ 優勝:アメリカ

イタリア、イギリス両国、満を持して臨むも、
ジミー・ドーリトルのカーチス R3C-2が圧勝
アメリカのトロフィーの永久保持の権利3勝まであと1勝と迫る
1926 開催地アメリカ 優勝:イタリア
アメリカは軍が手を引いたところ、イタリアが国民の盛り上がりと
ファシスト党のムッソリーニ自らがこれを国家プロジェクトとして
「いかなる困難にも打ち勝ってトロフィーを獲得せよ」
と大号令をかけたのが後押しをして、その結果、
空軍少佐のマリオ・デ・ベルナルディの操縦するマッキ M.39が優勝

この大会を最後にアメリカは不貞腐れて参加を取りやめ、
以降はイギリスとイタリアの一騎討ちとなる

1927 開催地イタリア 優勝国イギリス

イギリスがレジナルド・ミッチェルの設計によるスーパーマリン S.5で優勝
これ以降イタリアはイギリスに勝てなくなる

この間主催者であったシュナイダーは、戦争で資産を失い、
1928年、貧困のうちに死去していた

1929 開催国イギリス 優勝国:イギリス

1931 開催国イギリス 優勝国:イギリス

イギリスに勝てなくなったイタリア、やる気をなくして、
これ以降のシュナイダートロフィーは行われなくなる

っていうか、もうこの頃は水上機の時代は終わっていたのかもしれません。

1925年のシュナイダートロフィーレースで
カーチスR3C-2レーサーに乗るドーリトル


■ 戦間期

第一次世界大戦中、ドリトルは飛行教官として米国に留まり、
その後飛行隊に所属しましたが、大学で本格的に航空工学を学び始め、
1922年、カリフォルニア大学バークレー校で学士号を取得します。
翌年、テストパイロットと航空技師を務めた後、
ドーリトルはMITに入学して航空機の加速試験で修士論文を書き、
MITから航空学の修士号を、続いて博士号を取得しました。

彼はこれでアメリカで初めて航空工学の博士号を取りました。

卒業後、ドーリトルはワシントンD.C.の海軍航空基地
アナコスティアで高速水上機の特別訓練を受け、また、ニューヨーク州ロングアイランドの海軍試験委員会に所属し、
ニューヨーク地区の航空速度記録挑戦でおなじみの存在でした。

また、1922年、初期のナビ計器を搭載したデ・ハビランドDH-4で、フロリダからカリフォルニア州サンディエゴまで一度の給油で
21時間19分という初めての横断飛行を成功させました。

この功績によりアメリカ陸軍は彼に殊勲十字章を授与しています。
当時の国際レースで最も注目度の高かったのは、
トンプソン・トロフィー(クローズコースのレース)と、
彼の出場した大陸横断レース、ベンデックストロフィーでした。

トンプソン・トロフィーは2つのシリーズに分かれていて、この写真は
「国際陸上機フリー・フォー・オール」(無制限クラス)の様子です。
スピードを競うレースですが、

ドーリトルは1931年に、

Granville Gee Bee Model R Super Sportster
という飛行機で優勝しています。

犬は飼い主に似るというけれど、この飛行機も
なんとなくドーリトルに雰囲気がそっくりな気がします。



「ベンデックス・トロフィー」は実業家、
ヴィンセント・ベンデックスの名前を冠したレースで、その第一回大会となる1931年のバーバンクークリーブランド間を、
少佐だったドーリトルはスーパーソリューションに乗って出場し、
優勝して賞金7500ドルを獲得しています。


ちなみにベンデックス・トロフィーは、その後、
何人かの有名な飛行家が出場しています。

それがここでも何度となく扱ったお馴染みのメンバー、
ルイーズ・セイデン、ジャクリーン・コクラン、
そしてアメリア・イヤハート。
女性も男性と肩を並べて出場し、優勝できるレースだったんですね。

この後の1925年に行われたシュナイダーカップレースで
ドーリトルは優勝することになります。


1926年、ドーリトルは陸軍から休暇をもらったので、
カーチス航空機のデモフライトを行うために南米に行ったところ、
チリでアクロバット飛行の実演中に両足首を骨折し、このことは
「ピスコ・サワーの夜」と呼ばれる事件にもなりました。

彼は両足首にギブスをつけてカーチスP-1ホークで空中飛行を披露し、
周りを驚かせましたが、帰国するなり入院を余儀なくされました。
アクロバットパイロットとしての彼の探究心は止まず、
その後1927年には、オハイオのライト・パターソン基地で
それまで不可能とされていたアウトサイドループを初めて成功させました。


この時の彼は、カーチス戦闘機を操縦し、高度1万フィートから
時速280マイルで急降下、逆さまに降下した後、上昇し、
ループを完成させています。
しかし、怖いもの知らずの無鉄砲ゆえ、
こんなこともありました。
ってかよく生きてたな。不死身か。

クリーブランドのナショナル・エアレースのデモで見事墜落。

パイロットとしての彼は、幾つものトロフィーを獲得し、
そして契機飛行を最初に行った「パスファインダー」というべき存在でした。
前列左から三番目、ドーリトル

1934年、ドーリトルはオハイオ州デイトンのマコックフィールドにあった
陸軍航空部のエンジニアリング部門に、テストパイロットとして加わります。

この写真は当時のテストパイロット仲間と撮った記念写真です。

彼らは実験用航空機で高高度、高速飛行を行い、
エンジンターボスーパーチャージャーや可変ピッチプロペラなど、
新しく生まれてくる技術を次々と評価しました。
彼らの前にあるアヒル🦢の正体は謎です。


■ スマイリング・ジャック



ドーリトルコーナーにあった、当時人気のカートゥーン、
「スマイリング・ジャックの冒険」をご覧ください。

「やあ、カート、レースで会えるとは嬉しいね」

「スマイリン・ジャック!ははは、君うちに帰れば?」

「僕の素晴らしい飛行テクとラッキーラビットにかかっちゃ
君のチャンスはないぜ?」

「それはどうかな?」
「最後のラップとダーツはリードしている・・
彼のラビットの足が役に立ってるな」

「彼は確実に勝つ・・いや、何か変だぞ。
彼は着陸しようとしている!」
Dart`s Dart号墜落「おおおっと」
「コントロールができなくなって・・・何が何だかわからない」

「なんだ?何かがポケットから滑り落ちて
コントロールジョイントを吹き飛ばしたぞ」
「君の『ウサギの足』だよ!」

「????」
はっきり言って何が面白いのかさっぱりわからんのですが、
40年間掲載され、最も長く続いた航空漫画と言われています。

この流れから、スマイリン・ジャックのモデルはドーリトルなのか?
と誰でも思うわけですが、そうではなく、モデルは
エアレースの有名スターだったロスコー・ターナーという人だそうです。

似てるかも

流石にドーリトルはバリバリの陸軍軍人だったので、
漫画のモデルにはしにくかった、に1ドーリトル。



なぜかこんな写真も残っています。
どれがドーリトルかわかりませんが。
左上の一番楽そうな人かな?


そして、若い頃はこんなにシュッとしていたドーリトル。
この後、第二次世界大戦初期に東京空襲を指揮し、


こんな貫禄たっぷりに・・・。

戦後彼はアメリカが宇宙開発時代に突入すると、
NACA (国家航空諮問委員会)の中の人というか委員長に就任し、
米国の宇宙計画への貢献の可能性と、NACAの人への教育を期待して、
陸軍弾道ミサイル局のヴェルナー・フォン・ブラウン博士、
ロケットダインのサム・ホフマン、海軍研究所のエイブラハット、
アメリカ空軍ミサイルプログラムのノーマン・アポルド大佐など、
委員会メンバーの人選に携わっています。

そしてアメリカ軍の人種撤廃を提唱しました。
この時彼は、

「この状況の解決策は、彼らが有色人種であることを
忘れることだと確信している 。
産業界は統合の過程にあり、それが軍にも押し寄せようとしているのだ。
あなた方は必然を先延ばしにしているだけに過ぎないのだから、
潔くそれを受け入れた方がいい」
と語っています。
ちなみに彼はフリーメイソンのメンバーでもありました。

彼の二人の息子はどちらも空軍パイロットになりましたが、
第524戦闘爆撃機飛行隊の司令官として、F-101ブードゥーを操縦していた
長男のジェームズJr.(少佐)は、わずか38歳で拳銃自殺しています。

調べてみましたが遺書などは見つかっておらず、
理由は明らかにされていません。

ジェームズ・H・"ジミー"・ドーリトルは1993年9月27日、
カリフォルニア州ペブルビーチで96歳で死去し、
アーリントン国立墓地に妻と共に眠っています。

ドーリトル将軍の葬儀では、彼の栄誉を讃え、
1機のB-25ミッチェルと、空軍の爆撃機がフライオーバーし、
墓前で死者に捧げる言葉が述べられると、ドーリトルの曾孫である
ポール・ディーン・クレーンJr.がタップスを演奏したそうです。

続く。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

Trending Articles