空挺館の「空の神兵」についてまず書こうとしたところ、
いきなり「陸海軍読売遊園対決」という、エリス中尉好みのネタを掘り当ててしまい、
つい順序が後になってしまいましたが、今日は王道の「空の神兵」についてです。
ところでいきなり余談です。
空挺館初回で、「降下塔と跳出塔を見たい」と書いたのですが、検索の段階で、
習志野駐屯地の夏祭りに行けば、降下塔広場にお店が並び、
自衛隊員手作りの焼きそばを食べながら施設見放題、ということが分かりました。
ただし、例年夏祭りは8月第一週頃。
まずそのころ日本にいないわたしには当分無理なイベントです。
それにしても、写真を見て「跳躍塔」とやらが飛行機から飛び出すための訓練施設で、
見たところビルの三階位の高さは裕にありそうなのにびびりました。
下にクッションとか敷くんでしょうけど、生身で飛び降りるんでしょうか?
昔の空挺団の映画によると、跳出塔の下は砂地で、せいぜい(といっても高いけど)
2メートルくらいの高さから姿勢を正しく飛び出す訓練をしていましたが、
クッションの素材の開発に伴って跳び出し訓練の高さも上がっていた、ってことなんでしょうか。
さて、冒頭写真は空挺館の階段踊り場にある「空挺隊員の像」です。
だれの作品なのか、いつ作られたのか、どこを探しても見つからないのですが、
実際はとても小さなものです。
入り口にある「空の神兵の像」がポーズといい雰囲気といい勇ましいのに比べ、
この像は落下傘の器具を付けた降下兵は小さいでなく、
おそらく航空機のシートに座って降下の瞬間(とき)を待っているにしては
あまりにも穏やかな、まるで仏像のような佇まいをしています。
この像を作った作家の名と、なぜこのような像を造ったのかを知りたい・・。
空挺館一階の階段下部分には、こんな模型がありました。
これはどうやら旧軍の挺進連隊時代の訓練設備を、
空挺団OBなどが模型にして寄贈したのではないかと思われます。
4つまでの落下傘が降下きる塔に・・・、
映画で観た跳出塔。
そして・・
あれ?
今習志野駐屯地にあるのと同じ高さの跳び出し塔がある。
ということは、クッションを敷いて飛び降りるためのものではなさそうです。
そこでよく見ると、この模型には日の丸のはちまきを付けたキューピーさんが、
なにやら紐を付けていまにも跳ぶ姿勢ですね。
・・・・・いや、 これがキューピーの基本姿勢なんですが、それはともかく、
紐を付けて飛び降りる?
バンジージャンプなら分からないでもないけど、1941年当時、バンジーに使えるような
弾力性のある素材はなかったはずだし・・・。
この疑問にたまたま(というかこのために)観たDVDが答えてくれました。
空挺団の訓練で、腰に紐を付けてこの跳出塔から隊員が 飛び降りると同時に
そのロープの端が二股につながれており、二方向から他の隊員たちが引っ張る、
というものをやっていたのです。
下にはクッションも網も何も敷かれていませんから、もし隊員たちが縄を放したら、
両手両足を開いて空中に跳び出した者は確実に地面に激突して死亡です。
事故のないようにロープを二本に分かっているのでしょうが、
跳び出す方はかなり最初は度胸が要るものだと思われます。
おそらく戦時中に描かれた戦争画の一つでしょう。
なんだか銃はさっき空挺団の訓練で見たのに似ているぞ。
挺進隊の銃は分解可能な二式小銃だと思っていたのですが、
ここでは九九式軽機銃を使っているようですね。
陸軍挺進隊の武装は、この九九式と、重機関銃では92式が基本でした。
官品の降下用帽子。
鉄兜では降下するのに重過ぎる、しかし降下後戦闘行動があるので防御性も必要である。
という観点から制作された革製の降下帽。
ラグビーボールのような縫い目で、なかなか凝っています。
今なら日本製・ハンドメイド・天然皮革で超高級品ですね。
この降下帽が最初に支給されたときの様子が、映画「空の神兵」にありました。
多分「やらせ」だと思うのですが、訓練のあと練習生が休憩室で
思い思いに過ごしているとき、
「降下服一式支給」
の号令がかかります。
この兵隊はそれまで髪を刈ってもらっていたので、肩にケープをかけていますが、
さっそく貰ったばかりの降下帽をかぶり、それまで使っていた鏡を覗き込み、
皆には
「おお、よく映るぞ」
と声をかけられています。
展示してある降下帽には耳当てもついているのですが、折り込んでいるので見えません。
「模範的な跳び出し」
飛行機を模した跳出口から跳び出す訓練。
降下の際の「よい姿勢」の見本は
「くの字状になるまで背をそらし、足はまっすぐ」
であることがわかります。
現在の空挺においてもこれは踏襲されているのでしょうか。
それとも、これはこのころの落下傘の仕様に則した、
「もっとも事故の少ない」
跳び出し方なのでしょうか。
「空の神兵」より。
高さはやはり2メートルというところでしょうか。
見ていると簡単そうですが、二メートルの高さから全く下を見ずに跳ぶ、
というのはなかなか最初は怖いことのように思われます。
旧陸軍空挺部隊に使用されていた落下傘の装具一式が展示されていました。
落下傘にも制式名がついていて、一式落下傘といいます。
予備傘がついていて、これで高い安全性を誇りました。
落下傘の操作は、肩に吊り帯が二本着いており、
これを操作して落下傘を操縦したり進行方向を変更しました。
この習志野駐屯地の地図を先日上げたときに、
敷地内に「落下傘整備場」があって、どうやら自衛隊では、
傘のメンテナンスや調整は専門の部署が行なうことになっているらしい、
と書いたのですが、映画「空の神兵」でも描かれていたように、
当時の落下傘兵は、一人一つ、自分の落下傘を与えられ、
それを自分で包装(たたむことをこういうらしい)したのだそうです。
傘を揃えるのにきっちりと定規を使ったり・・・
吊索は確実に絡まずにほどけるように、細心の注意を払って包装しています。
こういう話を聞くとつい考えるのですが、
飛行機の事故における整備のように、もし空挺団で落下傘の事故が起きた場合、
やはり傘の調整をする部署は原因がどうあれ責任を感じるのではないでしょうか。
割と最近、フリーフォールの訓練で傘が開かなかったという事故があったようですが、
これもなぜ予備傘までが開かなかったのか、などと考えると、
傘の整備調整に果たして不備はなかったのか、と整備する部署(部隊?)では
きっと気が気ではなかったでしょう。
その点旧軍は兵士一人に負担も責任も負わせていたということで、
良くも悪くも自己責任、で終わってしまっているあたりが凄い。
しかも、この傘、やはり開発当初の欠陥もいろいろとあったようです。
一式落下傘は、輸送機から跳び出すと真っ先に傘が開く、
「傘体優先方式」
だったため、傘が開いたときに受ける衝撃が大きく、また、後から放出される紐、
吊索(ちょうさく)が人体に絡まり、訓練中に死亡事故が起きました。
「空の神兵」より
これは最初の訓練生の降下訓練ですが、この写真を見ると、
背中からはまず真っ先に落下傘本体が出て来ていることがわかります。
この映画の頃はまだ傘は開発前で、事故も起こっていた頃だと思われます。
この事故は、2009年に自衛隊第一空挺団で起こったものそのままです。
死亡した隊員はヘリから飛び出した際、
ロープが首に巻き付いて宙づりになってしまっています。
ロープの端はヘリに固定されており、通常は飛び出した際の重みで傘が開き、
ロープもヘリから外れる仕組みであるはずなのですが・・・。
いずれにせよこの事故の原因は「先に傘が開いたこと」ではなく、なぜか
自動索が切り離されなかったことにあります。
現代の科学技術によって安全性を考慮された落下傘でもこんな事故が起こるのですから、
もしかしたら、黎明期の挺進部隊ではこのためかなりの殉職者を出したのかもしれません。
いずれにせよこの死亡事故を受けて、傘の開発は重ねられました。
それがこの図の「吊索優先方式」です。
最初に傘ではなく吊索が引き出されることによって、
体に索が絡まる可能性を減らしたものです。
この落下傘を作っていたのは女性たちでした。
女子報国勤労隊と呼ばれる彼女らは、製造を一手に請け負った藤倉航空工業で、
24時間ノンストップ体制による作業による落下傘製造に携わっていました。
この藤倉工業という会社は昭和14年に創立されたばかりで、
翌年の15年に、陸軍からの依頼で落下傘の大量生産を始めました。
戦後は民需品の生産に転換していましたが、昭和26年からまた落下傘生産を再開。
現在はその名を「藤倉航装株式会社」として、第一空挺団の使用している
696MI(フランスのエアルーズ社のライセンス生産)、60式空挺傘(ろくまるしきくうていさん)
はいずれもこの会社によるものです。
さて、昭和17年3月、パレンバン空挺作戦が大成功を収め、世間は彼らを
「空の神兵」と讃えました。
そのニュースを見て、ある意味一番驚いたのは、藤倉航空工業で連日連夜、
パラシュートの製作にあたった女子報国勤労隊の女性たちだったにちがいありません。
何しろ、彼女らは、自分たちが作っていたものが南方作戦でこのように使用された、
ということを、そのニュースを見て初めて知ったのですから。