TEXACO、という文字を見ると、わたしはどうしても
ガソリンスタンドを思い出してしまうのですが、
テキサコは2005年にシェブロンと統合して名前が消滅し、
いつの間にかテキサス州にしか存在しなくなっていました。
しかし、テキサコという名前は、少なくとも航空ファンの間では
この小型飛行機のことであるようです。
「ミステリー・シップ」
というのは、当博物館に展示されているテキサコ13のことです。
1930年代、大変有名だったホークスというパイロットが、
トラベルエアーモデルR「ミステリー・シップ」を操縦して、
これで世界を回り、航空記録を打ち立てました。
この時点で気が付いたのですが、テキサコ13が愛称で、
「ミステリーシップ」の方は正式な機体の名前です。
フランク・ホークス(1897-1938)は、
第一次世界大戦中、アメリカ陸軍航空隊のパイロットでした。
彼は1920年〜30年代にかけて、テキサコ社をスポンサーとして
アメリカやヨーロッパで214の地点間記録を打ち立てた、
記録破りの伝説の飛行家として知られています。
男前だったことから、映画にも何本か出演しています。
1937年に公開された連続映画『The Mysterious Pilot』では、
「世界最速の飛行士」と称賛されています。
"Don't send it by mail ... send it by Hawks."
(郵便で送るな・・・・ホークスで送れ)
という言葉が当時の流行語になったくらいの「時の人」でした。
■ テキサコ13
1930年8月13日、フランク・モンロー・ホークスは、
カリフォルニア州グレンデールのグランドセントラルエアターミナルから
ニューヨーク州ロングアイランドのカーティス空港まで、
速度記録を更新するフライトに挑戦しています。
彼の飛行機は、正式にはTexaco No.13と名付けられた
トラベルエアーのタイプR「ミステリーシップ」。
このときの中継地と滞在時間は次の通り。
9時16分G.M.T ロスアンゼルス グレンデール
↓ 1,070km
12時43分G.M.T ニューメキシコ州アルバカーキ(17分滞在)
↓869km
15時28分G.M.T カンザス州ウィチタ(7分滞在)
↓966km
18時23分G.M.T. インディアナ州インディアナポリス(13分滞在)
↓135km
21時41分G.M.T.ニューヨーク州ロングアイランド
カーティス・フィールドに着陸
そして、グレンデールからロングアイランドまで、
12時間25分3秒という記録的な経過時間で飛行することに成功。
彼は同じコースでチャールズ・リンドバーグが樹立したそれまでの記録を
2時間20分29秒更新し、新記録を打ち立てました。
各給油地での滞在時間を見る限り、彼はおそらく給油の間、トイレに行って飲食物を受け取ることしかしていないと思われます。
しかし、わたしがそうだったようにほとんどの日本人は
リンドバーグは知っていてもこの名前を認識していないでしょう。
当時のアメリカ人にとって彼は超有名人で英雄でしたが、
それがつまり「最初と2番以降」の違いなのだと思います。
ことにリンドバーグは、この3年前に、既に
人類史上初の大西洋単独無着陸飛行を成し遂げていましたから、
いかにいまさら大陸横断時間を短縮したところで、
それは「ああ機体の性能が良くなったからね」
という注釈付きで語られる程度の「快挙」だったわけで。
加えて、ホークスはその一週間前、同じコースを東から西に飛んでいますが、
この時は14時間50分3秒とリンドバーグの記録に5分及びませんでした。
たまたまというか、西から東に飛ぶことで追い風を受けた機体は
2時間も短縮できたという事情もありました。
■テキサコ13号
ホークスのテキサコ13号は、カンザス州ウィチタの
トラベル・エアー・マニュファクチャリング社が製造した
5機の特別設計・製造のレース機のうちの4機目でした。
設立したのは、我々日本人ですら知るビッグネーム、
ウォルター・ビーチ(ビーチエアクラフト創立者)
クライド・セスナ(セスナ創立者)
ロイド・ステアマン(ステアマンエアクラフト創立者)
が名前を連ねていました。
(ステアマンが主任設計者)
ミステリーシップの「タイプ R」とは、
設計者の一人であるハーブ・ロードンのイニシャルから取りました。
1)カウル
エンジンを覆うことで冷却をよくし、空気抵抗を軽減した
NACA設計による
2)低翼設計
空気抵抗力を減らし速度向上
非常に薄くワイヤーで補強されていた
3)密閉式コクピット
低めに位置するため気流の流れが向上
パイロットの頭の後ろが高い「ホイールパンツ」採用
4)鋼管製胴体
機体の重量は軽くなり、強度も上がった
5)鋼鉄製ワイヤー
翼と着陸装置がより安定するようになった
タイプRは、溶接された鋼管で作られた
モノコックの胴体を持つ低翼単葉機でした。
胴体とリブにスプルース材が使用され、
胴体と主翼は、1/16インチのマホガニー合板で覆われていました。
(機体)
全長6.147m
翼幅9.144m
全高2.362m
(翼)弦1.524m
総面積11.6平方m
空虚重量907kg
総重量1,497kg
(エンジン)
空冷、過給、排気量15.927l 9気筒ラジアルエンジン
300馬力/2,000r.m.
(ホークスのR-975は、2,400r.p.m.で450馬力)
巡航速度 1,950 r.p.m.で時速322km
海面走行時最高速度 時速402km
巡航速度での航続距離1,609km
■ 「ミステリーシップ」の由来
なぜタイプRが「ミステリーシップ=謎の船」だったのか。
わたしも真っ先にそれを疑問に感じましたが、この名前は
主に新聞などメディアが呼び出した「アオリ」的ネームだったようです。
それは創業者のビーチが極端な秘密主義だったからでした。
1929年にクリーブランドで開催されたナショナル・エア・レースに、
タイプRが2機が参加したことがありました。
パイロットは着陸するなり格納庫に直接タキシングしてエンジンを止め、
すぐに中に押し込まれて姿を消しました。
ご丁寧にも格納庫は施錠され、見張りをつけるという有様です。
これによって何が守られたのかは謎ですが、
少なくともこれでキャッチフレーズが決められることになりました。
■ フランク・ホークス
フランク・ホークスは、陸軍航空隊時代大尉まで昇進し、
記録的な大陸横断飛行の際には、陸軍航空隊の予備役でした。
記録を打ち立てたことで世間から人気を博し、
彼自身も"ミステリー・パイロット "を任じていました。
彼の肩書きは、
パイロット、デザイナー、作家、俳優、スポークスパーソン
となっています。
1897年アイオワ州に生まれ。
両親共に俳優だったそうです。
彼はロングビーチの高校高校生時代、飛行機に興味を持ち、
新聞記事を書いて飛行場の宣伝したことがありました。
この感想文で飛行への関心が高まり、飛行場のビジネスにつながると、
オーナーを説得して、体験と称し何度も無料でフライトしていたそうです。
カリフォルニア大学卒業後、1917年に第一次世界大戦が始まると、
宣戦布告されると、ホークスは陸軍に入隊しました。
【第一次世界大戦】
パイロットを目指して陸軍に入隊した彼は、
信号士官予備隊少尉の任に就いた後、飛行教官となり、少尉に昇進。
この頃彼は空中のデモ飛行で僚機と衝突する事故を起こして、
相手共々危険飛行の叱責を受け、
1週間の禁固刑という処分を受けています。
1919年に現役を退き、予備役大尉に昇進しましたが、終戦となったので、
しばらくバーンストーミングをしていました。
この頃、彼は、ロサンゼルスのフェアで
当時23歳のアメリア・イアハートを乗せて「初飛行」体験させています。
彼は10分間の体験飛行の賃金として、
イアハートの父親から10ドルを受け取りました。
【パイロットとしての成功】
ホークスはゲイツ・フライング・サーカスに参加し、
この頃珍しかった空中給油を行なって世間の注目を浴びるようになりました。
当時、アメリカはリンドバーグの「リンディーブーム」でしたが、
彼はそんな中自前の飛行機で賞金稼ぎで全米を回り、
「リンディが飛んだように」航空機に乗ることを売り込んでいました。
熱心に自己宣伝を続けた甲斐あって、彼はスポンサー
(マックスウェル・ハウス・コーヒー)を獲得し、その後ろ盾で
愛機「ミス・マックスウェルハウス」に乗ってレースの速度部門で優勝。
また、1927年テキサス社(Texaco)は、航空製品を販売するため、
ホークスを自社の航空部門の責任者に採用しました。
そこで彼は「テキサコ・ワン」と名付けた飛行機でテキサス代表団を
ヒューストンからメキシコシティまで往復させる仕事をしました。
彼は飛行機による全国親善ツアーで150以上の都市を訪れ、その間
「テキサコ・ワン」を見た人は50万人にのぼると言われています。
彼は自伝『スピード』の中でこう書いています。
「ツァーでは175の都市を訪れ、7,200人の乗客を乗せ、
56,000マイルのクロスカントリー飛行をした。
そして飛行機と乗客にその間一度の事故もなかった」
【テキサコ・イーグレット】
しかし彼も無事故のままいられたわけではありません。
1930年1月17日、フロリダ州ウェストパームビーチから離陸時、
滑走路が水溜りだったせいで「テキサコ・ファイブ」を破壊し、
駐車していた3機の列に激突するという壮絶な事故を起こしました。
しかし、ホークスは全く怪我もしませんでした。
1930年、ホークスはテキサコを説得し、
グライダーの有効性を実証するための試験飛行を支援することになりました。
当時、アメリカ陸軍航空隊の予備役だったホークスは、
グライダーの軍事的有用性を予見し、
政府の支援不足やベテランパイロットからの批判にもかかわらず、
大陸横断飛行を計画したといわれています。
テキサコ・イーグレット
1930年3月30日、サンディエゴを出発し、
ドイツのグライダーパイロットたちが飛行を危ぶんだロッキー山脈も、
予測されたすべての障害を乗り越え、時折乱気流に遭遇しただけで、
ホークスはニューヨークに到着し、
長距離グライダー曳航の実現可能性を事実上証明しました。
【テキサコ13の誕生】
1930年、ホークスはテキサコに、
失われた「テキサコ・ファイブ」の代わりに、革命的な新しいレース機
「トラベルエア タイプR ミステリーシップ」
を提案しました。
そして、完成後、一連の展示飛行やアメリカ横断の記録達成に乗り出します。
次々と記録を打ち立てながら、ホークスは、
記録的な飛行で集めたメディアの注目を利用して航空振興を図り、
特に高速の宅配便が実現可能であることを実証しました。
たとえば、フィラデルフィアでワールドシリーズ最終戦が終了したとき、
ホークスはクイーンズのノースビーチに飛び、
当時の電報サービスよりも速い20分後に試合の写真を届けたりして、航空機のスピードと安全性と利便性をアピールしたのです。
1930年には、彼の人生と航空キャリアを記録した
自伝『スピード』も出版されましたが、これはなかなかの名著で、
今日でも普通に著作として読み継がれているほどです。
【事故からの回復】
マサチューセッツ州ウスターに訪れ、
現地のボーイスカウトに「安全な飛行機を開発する必要性」を説いた
その翌日、ホークスはぬかるんだ滑走路で飛行機を転倒させ、
鼻と顎を骨折し、歯が抜けるほどの重傷を負いました。
現在MSIに展示されている飛行機は、
この時の事故で損傷した機体を修復したものになります。
怪我の回復後もホークスは新型機で記録を更新し続け、1933年、
「テキサコスカイチーフ」で西から東への大陸横断飛行速度を記録し、
その後はノースロップ社でデモパイロットを務めました。
そして、映画やショーに出演、著作を通じて
常に航空について関わっていました。
【死去】
1937年、ホークスはエアレースからの引退を表明し、
グウィンエアカー社で営業担当副社長になっていました。
もはや彼はレーサー絵はなく、気楽なデモンストレーターとして
飛行機で全米を回る生活をしていました。
彼自身は、
「自分はおそらく飛行機で死ぬことになると思う」
と話していたということですが、その通りになりました。
1938年、自らの操縦する飛行機で墜落死したのです。
顧客に機体を宣伝するためニューヨーク州イーストオーロラに着いた彼は
ポロ競技場に着陸し、そこで顧客予定のキャンベル候補、
その他としばらく過ごした後、キャンベルを乗せて飛び立ちましたが、
直後に機体は墜落し、炎上しました。
残骸の中からホークスが、燃え盛る翼の下からキャンベルが
引き出されましたが、二人の怪我は致命的でした。
飛行機は着陸直後頭上の電話線に引っかかったとみられています。
MSIのテキサコ13は、博物館展示の炭鉱の上を、
イーストコーストに向かって素早く急激なバンクターンをしています。
その機上には、かつて時代の寵児であったパイロット、
フランク・モンロー・ホークスの姿が再現されています。
続く。