インターネットに向かう時間をこちらに来てから減らしました。
この度起こった出来事によるわたしの精神不調と、
そこから自分を立て直すための対策です。
そして、ここからが事務連絡なのですが、
今後は決して「無理しない」ことを優先してアップしていきます。
個人的な興味の範疇であるごく限られた話題について発信し、
それをネットを通して人々と共有することを趣味として
長い間心から楽しんでやってきたブログ運営ですが、
今回のメンタルダウンで、多少なりとも「義務感」が生じたと感じました。
更新の頻度は多少減るかもしれませんが、さはさりながら、
ブログ運営はわたしにとってひとつの精神安定剤である一面もあり、
当分の間は皆様と共有したい未発表の情報もありますので、
今後もどうか長い目でお付き合いいただけましたら幸いです。
■ 「会えなくなった」アメリカの親友
ゴールデンゲートブリッジ近くの海岸は、
サンフランシスコに立ち寄ることがあったら必ず一度は車を停めます。
以前はこの後ろ側に「ザ・クリフ」というレストランがあって、
そこがお気に入りだったわたしたちは、何度となくここで
美味しい料理とデザートを楽しんだものでしたが、疫病流行後、レストランは経営できなくなったらしく閉店し、絶好の立地にも関わらず
この跡地に何かできるという噂も今のところありません。
レストランと売店とカジュアルなカフェがあった頃には
この道路沿いに車を停めるのも大変でしたが、今ではガラガラ。
それもそのはず、この付近は夏でも太平洋からの猛烈に強い冷風が吹くので、
週末海岸にいるのはほとんどがサーファーと物好きな観光客くらい。
しかも、寒さに耐えきれずに皆すぐに車に戻ってしまうため、
飲食店がなくなった今となっては誰もこんなところに車を停めません。
わたしたちも3分後には車に戻り、そのまま少し南下したところにある
MKがサンフランシスコ時代に通っていた幼稚園の前を通ることにしました。
MKが在籍していた頃は周りの目隠しはされていませんでした。
金網越しに中の様子は見えていたと記憶します。
建物の向こう側には広い園庭が広がっていて、その端に
さらに別の教室のある建物があります。
今回来てみて、道路沿いの壁の内側が鶏舎になっていたのに驚きました。
わたしたちが近づくと、特にこの鶏が激しく反応し、
高いところに飛び乗って大歓迎してくれました。
この人懐こい鶏さんがDivaであることがわかりました。
右上の鳥(ダチョウ的な)の名前「ダイアナ・ロス」は、
なんとなく羽飾り的な意味で納得のいく命名というか・・・。
園児の情操教育のために始めたのか、それとも父兄の関係者に
鶏を処分したい業者でもいたのかは謎ですが、これによると
餌やりの様子が配信されているようです。
ディーバさんは人懐こくて最後まで友好的でした。
この幼稚園は、コーポラティブ、父兄家族が積極的に保育に参加することで
経営を行う方式で、具体的には在籍時には1ヶ月に一度くらい回ってくる
おやつ当番、それから「ワーク」といって、朝から子供と登園して
主にお遊びの時のワッチを義務付けられています。
自分の子供が日頃幼稚園でどう過ごしているのか、とか、
園児同士の人間関係?親の人となりを垣間観察できる貴重な機会とあって、
わたしは思いの外この当番を楽しんでいました。
あのうちの親は離婚していて、お迎えには父と母が変わるがわる来るとか、
父と母は白人だけれど娘はアフリカ系で養子らしいとか、だれそれの親の離婚理由は父親がガレージでお薬してたからとか、
まあ、日本では余りない感じの噂話もこういう時に耳にしたものです。
■ アメリカの「親友」
のちに私のアメリカの親友となった彼女と出会ったのも、
この幼稚園の母親同士という(ママ友ですか)縁でした。
彼女はMKの一つ年上の娘の母親で、その時から気が合い、
わたしが帰国後アメリカに滞在する時には必ず一度は会って、
食事をしたり、どこかに遊びに行ったり、長い話をして過ごしたものです。
毎年夏に一度、コロナの時以外はその再会は継続していました。
当ブログにもアメリカ滞在の話題では頻繁に登場しています。
一年に一度会うだけで、その他の時期は特にメールもしなければ
もちろんSNSでのやりとりも全くないのですが、
この何十年かのそんな付き合いの中でわたしは彼女を親友と思っていました。
そんな彼女と、今年、突然連絡が取れなくなりました。
渡米前に今年のスケジュールをメールとテキストで送りましたが、
配信はされたという表示はあるのにも関わらず、返事がないのです。
「〇〇さんと連絡取れなくなった・・・」
と家族に言うと、MKがすぐ「とにかく電話してみたら?」というので、
わたしはその言葉に背中を押されるように、電話をかけてみました。
電話番号は健在でしたが、ワンコールもしないうちに
彼女自身の声でメッセージが流れたので、わたしはとりあえず、
もしこれを聞いたら電話ください、と言って電話を切りました。
しかし、それから何日経っても、2ヶ月経った今現在に至るまで
やはり彼女からの連絡はまったくないままです。
去年、彼女とはサンマテオで会って一緒に食事しました。
その約束を取り合っているとき、彼女が、
「体調を崩していてとてもしんどいので、今整体や鍼に通っている」
と言っていたのが気になっていました。
会った時、TOと一緒に精密検査を勧めたのですが、
「診てもらったんだけど、何も悪いところはないって言われた」
と言う返事。
アメリカの医療制度では日本のように精密ドックを受けることは難しいので、わたしたちは、
「なんなら旅行も兼ねて、日本に来て、
成田の近くの総合病院が外国人の医療ツァー向けに組んでいる
精密ドックで検査してみたら?」
と、案内をメールで送り、彼女もそれに興味を示していました。
そのときわたしは、「腰が痛い」という彼女のことばから
自覚症状なく進む最悪の病気の可能性を思い、不吉な予感がしたのですが、
一緒に食事をしているときの彼女の様子には何の変わりもなく、
普通に食べ、笑い、顔色も特に悪い様子はありませんでした。
そのとき、いつものように一年後の再会を互いに約束して別れ、
いつものようにそれっきり音沙汰のないまま、一年が経ちました。
そしてなんの疑いもなく、今年も彼女と会えるものだと思っていました。
しかし、何度電話をしてもワンコール鳴らないうちに始まるメッセージ。
あれこれと最悪の結果を考えるうちに、精神状態は落ち込んでいきました。
起きていて手にデバイスを持っている時間のほとんどを、
彼女の行方と状況を知れる手がかりを探すことと、そして
wiki(彼女はあるジャンルでバイオグラフィーが公開されている)に
書き換えられたことがないか確認すること、そして、
彼女の娘がSNSで何か発信していないか探すこと(見つからなかった)、
彼女が罹っているかもしれない病気について情報を漁ることに費やし、
その結果、見事にメンタルダウンし不眠症になってしまったのです。
そうなると今度は、自分の体の状態さえあれこれと気になり出し、
最悪の予想をしては落ち込む、というスパイラルに陥る始末。
そしてある日、一睡もできずに朝を迎えてしまったわたしは、
これではいけないと、自分で自分を立ち直らせることにしました。
まず、友人のことは一旦「忘れる」。
メールも携帯も解約されていないのだから、
何かの都合で忙しいだけで、(最悪でもファミリートラブルとか)
とにかく彼女は元気に「生きている」と信じる。
そして、ネットで病気についての情報を検索しない。
ついでに、ネガティブな内容のニュースも極力見ない。
ネガティブな内容のYouTubeの動画を一切見ない。
見ていいのは動物ものと音楽関係、映画などに限定。
寝る1時間前にはゆっくりお風呂に浸かり、精神を休めるお茶を飲む。
朝起きたらニュースではなく音楽を聴く。
できるだけ家族と楽しい時間を積極的に過ごす。(一緒に料理することはとても効果的)
昔のアメリカの友人に連絡を取る。(セントルイスの旧友とは連絡が取れ、今メールで情報交換中)
これだけのことを積極的にやった結果、
かなりリカバリーし、マシになりかけていたのですが、
そんなある日の明け方4時半に、実家からの電話が鳴りました。
その電話で母からおじが亡くなったことを知らされたのです。
どうしてこういうことは続けざまに起こるのでしょうか。義母と大学の恩師が2週間違いで亡くなった時のことを思い出しました。
しかし、おじはいわば大往生の部類で、母も、葬式に列席不要、
ということを伝えるためだけに電話してきたのであって、
このことは結果として立ち直りにそれほど障害とはなりませんでした。
遠いアメリカの空の下から、記憶に残る、長身でハンサムだった
(現役時代の阪神の江本豊にそっくりだった)おじの冥福を祈った次第です。
そして今、わたしはようやく元のわたしに戻ったようですが、
悲しいことに、西海岸一帯のどこにいっても、どこを訪ねても、
そこには長い期間にわたり、彼女と訪れて過ごした場所があります。
かつて知った場所に行けば、必ずそこで過ごした彼女との思い出が蘇り、
それがわたしをなん度もなん度も打ちのめしそうになるのです。
しかし、その都度、
「またいつか会おうね」
と心の中で彼女に呼びかけてみます。
すると、携帯に残っている彼女からの最後のメッセージと同じ、
「オッケー」
という返事が、記憶に残る彼女の声で脳裏に蘇ります。