マスキーゴンに係留されている戦車揚陸艦、
USS「LST-393」シリーズ、最終回です。
前回に引き続き、タンクデッキを利用した展示を紹介していきます。
周辺在住のベテランから寄贈された「かぶりもの」コーナー。
第一次世界大戦のガスマスクから潜水ヘルメット、
アフガン時代のサファリハットなど、アメリカの戦争を網羅しています。
■ベテラン顕彰のための展示
ジョージ・W・「ビル」・クレメンツ
George W. "Bill" Clements
アメリカ海軍 第二次世界大戦 1943 ~ 1945
朝鮮戦争 1950 ~ 1953
長年グランドヘブン地域に住んでいたビル・クレメンツは
パイロットになるために海軍に志願しましたが、
代わりに海軍の大学コースに送られ、4か月で少尉に任命されました。
彼の写真にほとんど同時期のセーラー服と士官姿があるのはそのせいです。
第二次世界大戦中は駆逐艦と掃海艇に乗務し、
戦後はに占領任務に就きました。
1950年に海上勤務復帰し、
USS「 オーレック」DD886、
USS 「ローワン」DD-782、
USS 「タッカー」DD(R)375
の 3 隻の駆逐艦に乗艦しました。
写真の右側には彼の勤務した艦の写真があります。
おりしも朝鮮戦争で、彼の乗った駆逐艦は三艦すべてが
水陸両用作戦中に北朝鮮砲兵との銃撃戦に巻き込まれました。
なかでもUSS「ローワン」勤務時には3度も砲撃に遭い、
そのうち2度は重症者も出すほどの損傷を受けています。
彼は「ローワン」に乗艦中にその勇敢さにより海軍表彰を受賞しています。
この人物が水兵からわずか4ヶ月で士官任官できたのは、
おそらく大変優秀だったからでしょう。
別媒体で調べたところ(それは訃報でしたが)、彼は退役後
ミシガン大学で土木工学の学位を取って自分の会社を立ち上げ、
93歳まで充実した人生を楽しんでいたことがわかりました。
隣のブースも海軍コーナーです。
艦内のところどころでこの同じ器具を見かけました。
これなんだかわかる方おられますか。
ブルーエンジェルスだった方のサイン入り写真、
右はUSS「ノースキャロライナ」のちょっと変わった模型と、
おそらくこれに乗っていたベテラン。
F6Fヘルキャット模型。
スコット(Scott) SLRM
第二次世界大戦時の海軍士気高揚受信機です。
AC-DC、12本の真空管。
540KHzから18.6MHzの4バンドを一般にカバー。
スコットは、低放射線規格で作られたラジオの好例でした。
第二次世界大戦中、受信機の局部発振器やI.F.から発せられる無線信号が
潜水艦にキャッチされることのを防ぐために、そして
発振器やミキサーをアンテナからさらに分離させることを目的に、
RFアンプを備えたシールドのしっかりした受信機が作られました。
RFアンプ管は、別個にシールドされたコンパートメントに収められています。
SLRMは海軍の受信機として開発されたものでしたが、
後に民間の船舶にも搭載されるようになりました。
1938年製、プロッティングボード。
海軍用ターゲットカイト、Mk1
対空銃撃種の訓練のためのターゲットカイトMark1(Mk2はない)
を開発した対空砲手、ポール・ガーバー。
彼はその後スミソニアン博物館の創立に大きく関わった人です。
■オキナワ・キャンペーン
USS「スウェラー」Swearer DE186
が1945年4月1日〜6月30日の沖縄侵攻のときに掲げていた艦首旗です。
これは当博物館のコレクションの 2 番目の軍旗です。
艦内に掲示してあるもう 1 つの軍旗 (艦首入口にあった) は、
Dデイにオマハ・ビーチで「USS LST-393」が実際に掲揚していたものです。
第二次世界大戦に実際使われた軍旗は時々アメリカの博物館で見ますが、
二旒も所蔵している博物館はまれであると彼らは大変誇りにしているようです。
駆逐艦「スウェラー」は沖縄で零式艦上戦闘機の特攻を受けましたが、
これは砲手が衝突前に撃墜しました。
4月16日にはヴァル(九九式艦上爆撃機)をこちらも砲手が撃墜しています。
当ブログ調べによると、4月16日は菊水三号作戦が行われた日で、戦闘機のみならず艦攻、艦爆が多数上陸阻止のため特攻出撃しました。
資料によると、この作戦では第三八幡護皇隊艦爆隊という99式艦爆の部隊が
22機編隊による嘉手納沖での特攻に出撃しています。
おそらく「スウェラー」を攻撃したのはこの一機だったと思われます。
同艦爆部隊は、指揮官の松葉進少尉(早稲田大)はじめ、
出撃した士官の全員が一流大学出身の学徒からなる特攻隊でした。
サンタクルーズの戦いにおける
USS「エンタープライズ」
1942 年 10 月 26 日、
VF-10のスタンリー・W・“スウェード”・ヴェイタサ中尉
(Swede Vejtasa=VEY tuh suh)は、
USS「エンタープライズ」上空をF4Fワイルドキャット戦闘機で旋回中、
ナキジマ(ママ)“ケイト”雷撃機がアメリカ軍の防空堡に対して
致命的な攻撃を起こす前にこれを炎上させた。
この日、 「スウェード」ヴェイタサは、単一ミッション中に
7 回の勝利を挙げワイルドキャット・パイロットの記録を打ち立てた。
ヴェイタサ中尉は5機の「ヴァル」と2機の「ケイト」を撃墜し、
「エンタープライズ」を損傷から救ったとされ、
サンタクルスの戦いでの戦いに対し海軍十字章を授与された
この通称”スウェード”(スェーデン人)という搭乗員の物語によると、
この「殊勲」の前日、スウェードに率いられた攻撃隊は
キンケイド提督の無能な指揮のおかげでえらい目に遭っていたのです。
このとき初めて機動部隊の指揮官として「エンタープライズ」に乗り込んだ
トーマス・キンケイド提督は、”ブル”・ハルゼー提督から
「ストライク - リピート - ストライク」という指令を受けていました。
このときの「エンタープライズ」の行動は、捜索隊を派遣し、
戦闘航空哨戒を行うだけと制限をされていたため、キンケイドは、
「ホーネット」が索敵して発見した日本艦隊に対し、
経験の浅い搭乗員で構成した攻撃隊を編成させ、スウェードに指揮させて
360マイルも離れた地点への攻撃をさせようとしました。
提督の話を聞き、日本艦隊の位置まで遠すぎると思ったスウェードは、
図面板を投げ捨て、提督の部下たちの耳元で
「提督はバカ野郎(Stupid Ass)」
と大声で宣言しました。
しかし命令は命令。
スウェードの反発も虚しく部隊は出撃することになります。
出撃から1時間後、キンケイドは、哨戒機に気づいた日本軍が北に向かい、
接触する可能性のないところに行ってしまったことを知りました。
しかしそのときには攻撃隊は呼び戻すことのできないところにいました。
そしてスェードの予想通り空振りの索敵を行い、
ただ無闇に海上を飛び続けていたのです。
そんな中、攻撃隊の一人、ドン・ミラー中尉は、薄明かりの中、
不可解にもワイルドキャットから飛び降りて行方不明になっています。
(精神に破綻をきたしたのかもしれません)
スェード隊は低い雲の下、暗闇の中、ポイント・オプションに帰着しましたが、
そこにいるはずの「エンタープライズ」はどこにも見当たりませんでした。
YE-ZBのホーミングセットは何の反応も示しません。
キンケイドは彼の攻撃部隊を見捨てたのでした。
その後もスェード攻撃隊の混乱は続きました。
ドーントレスの一機が、航続距離の延長のため重量を軽くしようと
爆弾を投下したところ、2発が空中爆発してSBDの二人が巻き込まれてしまい、
部隊は彼らの機が墜落していくのをただ見ているしかありませんでした。
ようやく夜が明けたとき、スウェードは海面に油膜を発見し、
空母のものと判断してこれを追跡し、ようやく母艦を発見しました。
ところが狭い空母の甲板に別の部隊が同時に着艦を行ったため、
接触事故で機体は大きく破損し、スウェードは瀕死の状態に陥ります。
そしてその数分後、ドーントレスのパイロットがウェーブオフを無視し、
自分の機体と別の機体を大破させるという大惨事が起こりました。
破片が散乱する甲板では、燃料を使い果たした3機のアベンジャーを
海中に投棄せざるを得ず、この無用の災害により、2人の搭乗員、
4機のSBD、3機のTBF、1機のワイルドキャットが犠牲となりました。
スウェードにとって、キンケイドの判断は犯罪的な過失でした。
片付けを行う「エンタープライズ」艦上
このときかろうじて無事に帰還した飛行機とパイロットが
翌日の戦闘で大きな役割を果たすことになりました。
人生糾える縄の如し。
スェードがその後キンケイドをどう糾弾したかはわかりません。
■グレート・ホワイト・フリート
グレート・ホワイト・フリートについては、以前このブログでも
「対日本示威行為艦隊」と決めつけてお話ししたことがあります。
この博物館の説明を見てみましょう。
テディ(セオドア)ルーズベルト大統領の時代、
大統領の命令により、1907年12月16日から1911年2月22日まで
地球を一周した米国戦闘艦隊の俗称、それがグレートホワイト艦隊です。
その目的は、アメリカが世界の海軍大国であることを世界に示すこと。
しかし表向きは報道陣に対し、その目的は
多くの港を訪問してアメリカと各国の親善を深めることとされました。
マスキーゴンはこの「グレートホワイトフリート」(以下GWF)の巡航と
深い関連を持っています。
ここにある海軍文書のコレクションは、GWFの駆逐艦
USS「シャーマン」乗組だった、マスキーゴン在住の
チャールズ・エドワード・バーウェルの遺品です。
この中の誰かがバーウェル氏
入隊記録書類
アメリカ海軍名誉除隊証明書
名誉除隊といってもそう特別なことではなく、
アメリカ海軍では、軍人としての勤務成績が概ね良好で、
軍法会議または民事訴訟などの対象にならなければ、
退役時に名誉除隊証書が交付されます。
しかし名誉除隊になると、除隊後の福利厚生・社会保障・年金をカバーする
GI法において普通除隊よりも上乗せがあり、また、
職業訓練や大学進学などの援助などの保障制度も手厚くなります。
さらに、現在では、民間でもローンの金利優遇、手数料無しで
ワンランク上のクレジットカードへ変更などの優待プログラムがあるとか。
名誉除隊書類の続きで、この人の艦歴が記されています。
以前にも書きましたが、GWFはその名の通り、
艦隊の艦体がホワイトに塗装されていました。
これはGWF参加中のUSS「サリバン」の白塗装姿です。
バーウェル氏の艦ではないので、彼が撮った艦隊航行中の写真かもしれません。
上の絵葉書の説明は字が潰れて読めませんが日本語です。
GWFは1910年に日本を訪問しました。
真ん中右に見切れているのは日本女性ですね。
テーブルの死角になった場所には日本で撮った写真があったそうです。
残念。
ここで改めてGWFの旗をみてみましょう。
中央のリボン上にアレンジされた星条旗と錨のマークの外には、
GWFが訪問した国の軍艦の艦尾旗があしらわれています。
フランス、イギリス、中国、日本と、はっきりわかるものもありますが、
訪問国はこれ以外にフィリピン、ニュージーランド、
オーストラリア、コロンボの四カ国、全八カ国となります。
ところでこのバナーを見る限り、アメリカの目的は
各国との親善などではないことがまるわかりではないですか。
🐉=彼らにとっての東洋、を🦅(アメリカ)が鷲掴み。
■ 軍用犬(War Dog)コーナー
艦内に入ってすぐのところに軍用犬トリビュートコーナーがありました。
左上は南北戦争時代の軍用犬の顕彰碑。
(三つの黒い丸はなぜこうなっているかわからず)
右側の写真は、1944年、軍用犬が周囲を警戒する中、
しばしの休息を退避穴に手足を縮めて貪る兵士。
この写真をもとに、本日冒頭の再現模型が作られました。
彼らの後ろにあるのは、グアムで殉職した海兵隊所属の軍用犬、
カート、ヨニー、ココ、ブリンキー、スキッパー、デューク、ルードヴィッヒ。
そんな名前の犬たち24頭の尊い犠牲を顕彰しています。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争・・。
どの戦争にもそのために訓練を受け、出征し、命を失う犬がいました。
ここではK-9(警察犬)の犠牲についても取り上げています。
モデルが制作されているのはいずれも実在の犬で、
彼らの首には彼らが授与されたメダルが掛けられています。
沖縄戦で海兵隊のK-9だったスパークは軍曹の位を与えられています。
■海兵隊の爆博物探知犬セナ
セナという名の爆弾探知犬が彼の最初のハンドラーと再会してから
3年1カ月と3週間が経ちました。
マスキーゴンのジェフリー・デヤング伍長とセナは、米海兵隊で
2009〜2010年の約半年間、一緒にアフガニスタンに従軍しました。
その間、デヤングがセナを担いで川を渡るような場面もあれば、
砂漠ではセナがデヤングを温めてくれる寒い夜もありました。
タリバンの激しい銃撃を受けたとき、デヤングは
自分の体をセナの上に投げ出して彼をかばったことすらあります。
デヤングが3週間の間に7人の友人を失ったときには、
彼にとってセナの存在はどんなにか慰めとなったことでしょう。
しかし、その後彼らは別れをいうまもなく離れ離れになり、
いつの間にか4年が過ぎ去りました。
その後、引退したセナはデヤングと再会し、彼と一緒に
幸せな余生を送るはずでした。
しかしある日、セナが左前足に体重がかけられないことに気づいたデヤングが、
病院に連れて行ったところ、進行性の骨がんと診断されました。
末期がんはあまりに激しい痛みをセナにもたらし続けたため、
デヤングはセナの安楽死を選択しました。
そして、2017年の7月26日を最後の日と定め、
彼を名誉ある海兵隊員として見送ることにしました。
以下、デヤングのツィッター投稿です。
"セナとの最後の夜 "
"言葉では伝えられない、私が感じていること、考えていること。
やらなければならないことに向き合わず、逃げ出したい。
でも、彼は私が強くなって、自分を解き放してくれ流ことを望んでいる。
彼は私の人生を愛と賞賛で祝福してくれた。
彼のおかげで、私は家族を持つことができた。
彼のおかげで、私は生きることができたのです。
明日の私の行いを許してくださいますように。
そして、主が両手を広げて素敵な耳を掻く動作で彼を迎えてくれますように。
おやすみなさい 、友よ。さようなら 、弟よ。
君が今夜自分がどれほど愛されていて、
君がいなくなることがどれほど惜しまれるかを知りながら眠れますように。
最後にセナはバケットリストの一つを叶えました。
オープンのジープ・ラングラーに乗ることです。
そのことを知った各地のジープオーナーが、セナのために
ジープ隊を結成し、各地から駆けつけることになりました。
また、州内各地からパトリオット・ガード・ライダーが集結し、
セナの功績を称え、静かに旗を並べました。
そしてすべての隊列はマスキーゴンのUSS LST 393前に集合し、
そこでセナの功績を称え、米国海兵兵隊連盟の主催により、
「タップス」の演奏を含む軍歌のセレモニーが行われました。
セナは、自作の海兵隊のドレスブルーで式典に出席し、
セレモニー終了後、警察の護衛付きで護送車に乗って
ジェフ・デヤングとともにUSS LST 393に乗り込み、
そこで彼は安楽死させられ、「Taps」が演奏されされました。
アフガニスタンでの6カ月間、2人はほぼ毎秒一緒に過ごしただけでなく、
アフガニスタンでの最大規模の合同軍事作戦「モシュタラク作戦」に向けて、
お互いの命と健康に責任を持つという緊密な関係でした。
デヤングとセナは、タリバンを拠点から追い出す作戦で、
マルジャに足を踏み入れた最初の海兵隊員でした。
デヤングも再会してから一緒にいる間、決して平穏だったわけではなく、
デヤング自身の離婚、失業、ホームレス(!)、PTSD、
バスタブで泣きながら目を覚ますなどの日々がありましたが、
いつもセナはそこにいてくれた、と語りました。
Watch A Marine Give His Beloved Dying Dog A Touching Final Ride | TODAY
Celebration of life for military service dog Cena
Family says goodbye to Marine war dog
LST-393シリーズ終わり