第二次世界大戦中、最初に25回の空爆ミッションを成功させ、
帰国の権利を得ることで国民のアイドルになった爆撃機、
「メンフィス・ベル」の物語、二日目です。
今日ももう少し、パネルの新聞記事から拾い読みしていきます。
帰国してきた「英雄」たち、ことに士官たちは
好むと好混ざるに関係なく、偉い人たちの出席するところに引っ張り回され、
そこで面白くもなんとないおじさんの話を拝聴するのが使命です。
というわけで、どこのかは分かりませんが、
市長という人のともすれば時事放談のような演説を聞くモーガン機長は、
新聞記事の写真でもわかるくらい退屈そうな顔をしています。
「フライング・フォートレスを街に持ち帰った後、
昼餐会の席で搭乗員たちはタイムズ誌に表彰される」
また、10人の搭乗員はそれぞれスターのように注目され、
そのインタビューが事細かく報道されました。
「ベル」には4名の士官が指揮官として搭乗していました。
爆撃機の命令系統としてこれがスタンダードなのか、
4名の階級は全てキャプテン、大尉で、機長と副機長、
そしてナヴィゲーターと爆撃です。
あなたは戦争の英雄というものの構成要件はなんだと思うだろうか?
あるいは、敵国の上空に差し掛かった爆撃手どんなことを考えるものだろう?
背が高くスリムなテキサス生まれのヴィンセント・B・エヴァンス大尉、
帰還した「メンフィス・ベル」の爆撃手である彼は、
B-17爆撃機によるヨーロッパと北アフリカの枢軸側に対する
25回の爆撃任務を成功させ、質問に答えた。(以下欠落)
土曜日、ハートフォード・タイムズ紙がベルの勇敢な飛行士10名を招待した
ハートフォード・クラブの昼食会の席で、若々しい笑顔の機長は、
昼食会の同席者の質問に答えて非公式にこのテーマについて語った。
「面白いですね」と彼は引き気味に言った。
(記事欠落)
20回目の爆撃任務の頃には、もしかしたら生きて帰れるかも、
というような感覚になってきますが、そんな時にはバイオリンの弦を
引き締めるように、気持ちも引き締める用にしました。
「ああ、もし25回任務を達成したら、任務を離れて休めるんだ・・
いやまてよ、後5回、後5回の任務だ、これが大変なんだぞ」と。
そして彼らとその愛機は最初に退役することになった。
(略)
「25回爆撃のフォートレス帰国する」
フライングフォートレス「メンフィス・ベル」のベテランクルーは、
アメリカで最初にヨーロッパにおける完璧な25回の任務を終え、
昨日、ワシントンにおいて、ハップ・アーノルド空軍司令、
陸軍長官であるロバート・パターソン両者と愛機の前で面会した。
「ベル」搭乗員、ハミルトンを訪問、
「我々はベルの品質を高く評価している」
爆撃機ベテラン、プロペラ会社の労働者に謝意を表す
ハミルトンは航空機プロペラの製造会社ですが、
ここで彼らを迎えて行われた例のドキュメンタリー上映と、
セレモニーなどが行われ、その際、搭乗員たちは
工場の労働者にその性能の良さを褒め、お礼を述べたという記事です。
■メンフィス・ベルのアートワーク
今日は前回触れたこのノーズアートについて掘り下げてみます。
同じデザインの「電話中のメンフィスベル」が、機首の右と左で
衣装の色を赤と青と違えてペイントされていますが、
右舷側の女子は赤い服(下着かも)に合わせて赤毛、そして
左舷ひ側はブロンドと髪の色も変えています。
オリジナル原画はこちら。
赤い下着に金髪ですから、「ベル」のアレンジは現場の判断と思われます。
それにしても原画と比べるとノーズアートの画力が・・・
まあそれはいうまい。
特にノーズアートの珍妙なヘアスタイル。
多分ミリタリー男子にはペティ・ガールのヘアースタイルの
構造的仕組みが理解できなかったのだと考えられます。
これはメンフィス・ベルのために描かれたオリジナルではなく、
機長のモーガン大尉はアーティストのジョージ・ペティに
「ペティガール」の使用許可をもらい、一連の画集の中から
これぞというイラストを選んだという経緯があります。
当時発行されていた雑誌「エスクヮイヤ」。
1941年の4月号に掲載された「ペティ・ガール」が、
のちの「メンフィス・ベル」のノーズアートに選ばれました。
それにしても、アメリカでは当時こんなイラストを表紙にしてたんですね。
「エスクヮイヤ」誌は男性向けマガジンだったので、イラストも
ノーズアートになりうるようなセクシーな半裸の女性が多めです。
この表紙は、爺ちゃんとミニスカートのお嬢さんが、どんな経緯なのか
フェンシングの突きを解説書を見ながら型の練習をしているのですが、
爺ちゃんの飛び出した眼球はポイントよりちょっと下に釘付け。
今なら漫画にもならないくらい危ないネタが時代を感じさせますが、
イラストのタッチは現代でも十分通用しますね。
元々「メンフィス・べル」という名前は、機長モーガン大尉の恋人、
マーガレット・ポーク嬢にインスパイアされたものでした。
映画「メンフィス・ベル」で彼を演じたマシュー・モディーンは
実にハマり役だったと思わせる写真ですね。
このときモーガン大尉は若干24歳だったそうです。
■コクピットに貼られた「写真」
このマーガレット・ポークの写真は、モーガン大尉がコクピットに持ち込んで
操縦席の前に貼っていたのと同じものになります。
写真使用例:本来は写真入れではないはずですが、モーガン大尉(左)は
写真を少し折り曲げてここに無理に入れていました。
ところでどの作品だったか、アメリカの戦争映画で
日本軍機の操縦席に貼られた恋人の写真が映るシーンがありましたが、
この慣習はすくなくとも日本にはなかったように思います。
恋人なり妻なりの写真を見ながら「仕事」をする文化ではありませんし、
持っていたとしても懐中の写真入れなどにひっそりと納め、
誰も見ていない時に眺めるという感じだったのではないでしょうか。
ただし、同僚のいない戦闘機とか、なかでも特攻機、
特殊潜航艇の乗員がどうしていたかは本当にわかりません。
いかにもヤラセっぽい写真・・・なんて言っちゃいけないか。
撃墜マークをポーク嬢に指し示すモーガン機長。
この下の記述によると、彼女はメンフィスに住む前にはイギリス在住で、
(イギリス人ではない)二人が出会う前にはアメリカに移り住んでいました。
左:25 回目の任務から数週間後、機首の爆弾の列の下に
8 つの鉤十字を含むマーキングがメンフィス・ベルに追加されました。
右:メンフィス・ベルのノーズ アートは、第 25 回ミッションから約 1 週間後、
後に多数の宣伝マークが追加される前のものです。
こちらが現存するメンフィス・ベルと同じペイントになります。
「メンフィス・ベル」のノーズアートを描いた、
トニー・スターサー(Starcer)の他の作品群です。
いずれも第91爆撃隊のスコードロンパッチで、
第91爆撃隊はそれそのものが爆弾のワシ、
第322=爆弾を落とすアンクルサム
第323=爆弾の上で腕組みするガゼル
第324=爆弾とニンジンを持つバックスバニー
第401=爆弾の上で攻防を振り回すビッグフットとインディアンボーイ
というデザインです。
バックスバニーにはやっぱり使用許可をとったんでしょうか。
■ 機長と「メンフィス・ベル」の恋の行方
ところで、ここでとても悲しい報告をせねばなりません。
これだけ写真に撮られ、その恋の経緯があらゆる媒体にさらされ、
すっかり注目のカップルとなったモーガン機長とポーク嬢。
その後結婚してハッピリー・エバー・アフターとなれば、
アメリカ軍としても大変喜ばしいことだったのですが、
やはり男女の仲というのはそう簡単にいかなかったのです。
結論から言うと、このビッグカップルの恋は実りませんでした。
ここで二人が付き合うまでの経緯をお話しします。
メンフィス在住のオスカー・ボイル・ポーク夫人には二人の娘がいました。
長女のエリザベス、そして妹のマーガレット。
(実はもう一人男の兄弟もいますが今関係ないのでその話はなしで)
姉エリザベスは、マッカーシー大尉という軍医と結婚していましたが、
彼がフロリダのマクディル飛行場にある第91爆撃グループに入隊し、
ワラワラへの移動命令を受けたので、彼女も付いていくことになりました。
夫の軍医は移動に列車を使えましたが、妻はたった一人でフォードを
南東部から北西部まで運転していかなければなりません。
家族に会うために途中立ち寄ったメンフィスで、エリザベスは
「一人で長距離ドライブするのは寂しいし心配」
と泣き言をいい、一緒に来てくれと妹に頼みました。
最初、妹は断りましたが、長女を心配した母が、
「わたしも一緒に行くから!
なんだったらサンバレーとイエローストーンも行きましょ!
きっと楽しいわよ。ね、ね?」
と妹を説得し、愛犬のスコッチテリアを加えて旅行することになったのです。
そしてマーガレットは、ワラワラで、
ロバート・K・モーガンという若い少尉と出会うことになったのです。
マーガレット・ポークは1922年12月15日、テネシー州ナッシュビルの
第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークの子孫として生まれました。
(サンフランシスコには彼の名前をとったポークストリートというのがある)
名家のお嬢さんだったわけです。
彼女の父親は弁護士であり、木こりであり、南部の伝統的なプランター、
オスカー・ボイル・ポーク、母はベッシー・ロブ。
マーガレットは私立の女子校に通っていたにもかかわらず、
おてんばな女の子に育ちました。
スカートをたくし上げて、走って、どんな遊びでもするような。
しかし、「運命の」といわれるわりには、二人とも
最初の出会いをはっきりと覚えておらず、たくさんいる誰かの一人、
という認識だったようです。
事態を「特別なもの」に変えたのは、ある口論でした。
彼女はそのころボブ(モーガン)の誕生パーティに呼ばれたのですが、
他の若い男性とデートの約束をしていました。
このとき彼女が気まぐれと好奇心からモーガンの誕生日を優先して
デートをキャンセルしようとしたら、
なぜか姉と義理の兄から猛烈に叱られてしまいます。
「もう大学生じゃないんだから。今は男の世界なんだから」
(意味不明。今軍人相手に勝手なことをして彼らを振り回すな、的な?)
しかし、なんと女心とは不思議なものでしょう。
ボブ・モーガンの誕生日パーティに行きたいとゴネたことが、
今まで彼のことをなんとも思っていなかったはずの
マーガレットの関心を彼に向けてしまったのです。
そうなるとボブの方も彼女が気になり出し、
若い二人はあっさりとつきあいはじめることになったのでした。
そうなると、モーガンはとにかく一途でした。
彼女にアピールするために、爆撃機に乗って近所を徘徊?し、
朝の5時からモーニングコールよろしく爆音を撒き散らす。
低空で彼女の家を目掛けて飛ぶものだから、
家にいると建物全体が揺れて飛行機が窓から入ってきそうでした。
まあ、血気盛んな男子の示威行為というのは加減を知りませんからね。
このときのことはマーガレット自身がこう述べています。
「ボブは悪魔かというくらいパイロットとしては最高でした。
彼はあの飛行機を本当に飛ばすことができた。すごく興奮したわ」
今の日本でこんなアピールを彼女にできる飛行職種なんて、
ブルーインパルスの隊員くらいしか思いつかないなあ。
1942年9月12日、B-17F 41-24485は初めてメンフィスに着陸しました。
ボブ・モーガンは、マーガレット・ポークに "彼の "飛行機を見せるために
軍に特別な許可を願い得たそうです。
そして彼女の宝箱に終生残されたその日の思い出の品は、以下の通り。
メンフィスのピーボディ・ホテルでのダンスのチケット
;半券番号782「Us, September 12 1942」記載
蘭のコサージュのドライフラワー
スイートハート・リング
ゴールドの結び目にダイヤモンド
そしてほどなくして、イギリスへ出発モーガンから小包が届きます。
中にはダイヤモンドの婚約指輪が入っていました。
■マーガレット・ポークへのインタビュー
「ベル」が無事に25回のミッションを終えて帰国してきたあと、
マーガレットはマスコミのインタビューを受けています。
インタビュアー: ”メンフィス・ベル "を見たとき、さぞ興奮したでしょう。
「メンフィス・ベル」が第4フェリー・グループ・フィールドの
格納庫の手前で停車し、モーガン大尉が降りてきたときには。
フライング・フォートレスがほぼ垂直にバンクしながら
飛行場を旋回するのを見ながら、あなたがこう言っていましたね。
『垂直のバンク!!あれが彼の飛行機よ!』と。
これが皆の待ち望んでいたフライング・フォートレスだと、
あなたはどうしてそう確信できたのですか?
マーガレット: ボブのフォートレスの扱い方はとてもスムーズでしたから。
インタビュアー :キャプテン・モーガンを見るのは何カ月ぶりですか?
マーガレット: ええ、正確には9ヶ月ぶりです。
インタビュアー キャプテン・モーガンに初めて会ったのはどこですか?
ワシントンでしたよね?
マーガレット: 去年の7月にワシントンのワラワラで。
インタビュアー :どのようにして知り合ったのですか?
マーガレット: 姉と義理の弟のところに滞在していたのですが、
その頃ボブが家に来て、そこで会いました。
インタビュアー:キャプテン・モーガンはアッシュビルの出身ですよね?
アッシュビルの予備校に通っていたのですか?
マーガレット:いいえ、バージニア州のエピスコパル高校です。
インタビュアー:彼はどこの大学を "母校 "と呼んでいますか?
マーガレット:ペンシルバニア大学です。
インタビュアー:モーガン大尉はいつから空軍にいるのですか?
マーガレット:2年半です。
インタビュアー: 飛行訓練はどこで受けましたか?
マーガレット: ルジアナ州のバークスデール飛行場です。
インタビュアー: あなたとモーガン大尉が婚約したのはいつですか?
マーガレット: 去年の9月です。
インタビュアー :結婚式の日取りについて教えていただけますか?
マーガレット: まだ決まっていません。
インタビュアー :モーガン大尉は、現在の全国的な戦時国債ツアー、
メンフィス・ベル "のツアーが終わったら、国内に滞在するのですか?
マーガレット: はい、少なくとも半年は。
インタビュアー :今回の戦時国債ツアーで何都市を訪問されますか?
マーガレット:21かそれ以上です。
インタビュアー: その都市のいくつかを教えていただけますか、
マーガレット?
マーガレット :ナッシュビル、ニューヘイブン、デトロイト、
クリーブランド、サンアントニオなどです。
インタビュアー:彼らはいつメンフィスを離れましたか?
マーガレット: 昨日の午後です。
インタビュアー:モーガン大尉がメンフィスを訪れている間、
あなたは彼の公の場に何度も同行しましたね。
マーガレット: ええ、ほとんどです。
インタビュアー :土曜日にコート・スクエアで開かれた会合で、
群衆があなたを呼び続けたときはスリリングだったでしょうね。
スリル満点だったでしょうね。
マーガレット:とてもスリリングで光栄なことでした。
いやー・・・・なんというか・・。
二人が破局した理由というのをわたしはこの時点で何も知りませんが、
こんな扱いをあっちこっちでされたら、本人同士がどうでも
ずっとこんな騒ぎに巻き込まれるのかと思って嫌にならないかな。
なんでそんなことを聞く?
予備校とか大学とか、インタビュアーなら前もって調べるか本人に聞けよ、
と言いたくなるようなことまで婚約者に聞いていますよね。
二人の「お別れの原因」については、そのうち
何か調べていてわかったらここでご報告するかもしれません。
わたしとしては「世間に騒がれすぎでどちらかが嫌になった」に10モーガン。
ただ、二人は結婚することはありませんでしたが、
マーガレット・ポークは1990年に亡くなるまで、
メンフィス・ベル・メモリアル協会の資金集めに協力していたそうです。
続く。