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メンフィス・ベルになれなかった重爆撃機たち〜 国立アメリカ空軍博物館

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第二次世界大戦中の爆撃機のアイコンだったB-17、「メンフィス・ベル」。
このスーパーフォートレスにまつわるいろんなことを、
国立アメリカ空軍博物館の展示からご紹介するシリーズです。
■ 引退から空軍博物館展示までの道のり



25回の爆撃ミッションを終え、アメリカに帰ってきてから
全米津々浦々を公債ツァーで引き回しされていたメンフィス・ベルですが、
ツァー終了後、訓練機として使用するために、
フロリダのマクディル陸軍飛行場へ向かいました。
人のみならず引退した飛行機にも悠々自適の退役生活が待っているとは、
さすがアメリカという感じです。

戦争末期、飛行機がなくて2枚羽の練習機で特攻させたり、
航空燃料がなくて、代替の松根油を取るため、
予科練の訓練生に松の根っこを掘らせたりという話もある我が国とは
そもそも国力からして雲泥の差であることを思い知らされますね。
マクディル基地で訓練用のプラスティック爆弾を搭載中のベル


戦争が終わると、メンフィス・ベルはは他の余剰爆撃機とともに
オクラホマ州の陸軍飛行場に保管され、1946年に破棄される予定でしたが、
テネシー州メンフィス市が「名前のよしみで」この機体を入手し、
その後、ナショナルガードの兵器庫で雨ざらしのまま展示されていました。

1977 年、数十年にわたる天候や外部衝撃による経年劣化後、
メンフィス・ベルは修復され、米空軍から、新しくできた
メンフィス ベル・メモリアルアソシエーション(MBMA)に貸与されました。
 MBMAの絵葉書、搭乗員のサイン入り

これを見る限り、天蓋といってもほとんどは外に置かれているようです。
1987年から2002年まで、MBMA は、メンフィス・ベルを
メンフィス市マッド島に天蓋をしつらえて展示していました。
しかし、MBMAはメンテのためのリソースに不足してきたこともあり、
2005年に機体をアメリカ空軍国立博物館USAFに貸与することを決定します。

2005年から13年の年月を費やし、博物館の修復スタッフは、腐食処理、
欠落した機器の交換、正確な化粧直しなど機体の修復を完成させました。
博物館で修復を受けているメンフィス・ベル

2018年5月17日、メンフィス・ベルが25回目の爆撃任務を成功させて
ちょうど75年目にあたるこの日、その機体は
国立アメリカ空軍博物館の公式展示品となりました。

■実は25回任務を終えていた爆撃機たち



メンフィス・ベルは 25回の任務を完了した
最初の USAAF 重爆撃機ではありませんでした。

アメリカ軍が宣伝のために選んだのが、たまたまこの機体だったというだけで、
少数の重爆撃機がこれ以前に25回目の任務を完了していたのです。
ここでは、25回任務を達成していながらも、タイミングのせいで
「メンフィス・ベルになれなかった」重爆撃機たちに光を当てています。
【スージーQ / Suzy-Q B-17E】 



 フライング・フォートレスB-17E、愛称Suzy-Q 。

25回の任務を完了して米国に帰還した最初のUSAAF重爆撃機です。
1942 年 2月から 10 月まで太平洋戦争初期に戦闘任務を遂行し、
戦時公債ツアーのため米国に帰国しました。 
ちなみにこのスージーQという名前ですが、オリジナルは
歌手のスージー・クワトロではなく、(そう思っていた人多いと思う)
「デスパレートな妻たち」のスーザン・メイヤーの元旦那が
彼女を呼ぶときに使う名前でもありません。

「スージーQ」は一般的に「ケイクウォーク」「チャールストン」
「ツイスト」「ロコモーション」のような流行したダンスの一つです。

それは1936年と限定的な短期間の流行でしたが、語呂がいいので
スージー・クアトロが自分の愛称にしたり、ドラマに使われるわけです。

B-17の名前の由来はわかりませんが、おそらく
乗組員の誰かの恋人の名前が「スージー」だったんじゃないでしょうか。
【ヘルズ・エンジェルス/HELL'S ANGELS B-17F】

1943 年 5 月 13 日、第 303爆撃群の B-17F ヘルズ・エンジェルスは、
メンフィス ベルの乗組員より 4 日前に、
ヨーロッパ上空で 25 回の戦闘任務を完了した重爆撃機となりました。

しかし、25回を大きく超える48 回の戦闘任務を飛行した後、
戦時公債ツアーのため米国に戻ったのは 1944 年になってからでした。

名実ともに25回任務を果たした最初の爆撃機だったのに、
途中で第303から第358爆撃飛行隊への転勤があり、
結局長い間任務を重ねることになったわけです。

25回目の任務を終えた後、「ヘルズ・エンジェルズ」は
1944年まで戦地に留まり、合計48回の任務の間、
搭乗員の負傷や事故もなく飛行していました。
 1944年1月にようやく米国に戻ることができ、彼らも
「ベル」のようにさまざまな戦争工場を視察しましたが、
当然のことながらそれほど騒がれることもありませんでした。

戦争が終わるとすぐ、1945年8月に「地獄の天使」は
(どうにも厨二病な名前ですね)スクラップとして売却されました。

4日も早く任務を達成していたヘルズ・エンジェルスの搭乗員たちは、
ヨーロッパで粛々と出撃を重ねながら、ベルの国内における
熱狂的な歓迎報道をどのように見聞きしていたのでしょうか。
【ホット・スタッフ/ HOT STUFF B-24
アイスランドに消えた悲劇の爆撃機】


第 93 爆撃群のB-24 「ホット・スタッフ」は、1943年2月7日、
第二次世界大戦のヨーロッパで多くの飛行機が撃墜される不利な状況の中、
25回目のミッションを終了した第8空軍初の重爆撃機と搭乗員、
そして初めての任務達成B-24となりました。
この達成日も、メンフィス・ベルより3ヶ月も前でした。


そして25回を終えてもしばらく出撃を続け、
結局約30回の戦闘任務のうち約半分はヨーロッパ上空を飛行し、
半分はアフリカでの攻撃と地中海での哨戒任務をこなしました。

陸軍は、ホット・スタッフを31回目の任務を完了させ次第帰国させ、
戦時国債の宣伝ツァーを大々的に行う予定をしていました。

つまり最初の「爆撃機のアイコン候補」だったわけです。

ところがここで、彼らをさっさと帰国させておけばよかった、
と陸軍関係者が歯噛みするような事故が起こってしまうのです。
アイスランドでの墜落

ホット・スタッフの帰国が具体的になったころ、
ヨーロッパ作戦地域の司令官であり、空軍の父として知られていた
フランク・M・アンドリュース中将はワシントンD.C.に戻るため、
かねてより知己であったパイロット、シャノン大尉の爆撃機、
ホットスタッフに同乗し、一緒にアメリカへ戻りたいと考えました。

チャーチルと握手するアンドリュース元帥
この元帥の思いつきは、ホットスタッフのクルーにとっては
ある意味「いい迷惑」だった可能性があります。

実はホットスタッフは、何もなければあと一回、潮流作戦、
=プロスティ襲撃に参加するために南に行くはずだったとも言われています。

しかし、ペンタゴンで4つ星大将に昇進をするため、
急ぎで帰国したかったアンドリュースにゴリ押しされたようで、
アイスランドを経由して帰国することが決まりました。

しかし、給油のためアイスランドを経由したホットスタッフは、
1943年5月3日、悪天候の中、ファグラダルスフィヤル山に墜落し、
アンドリュース元帥を含む乗員14名が死亡してしまいます。




墜落した機体から乗員の遺体を回収する

このとき、尾部砲手のジョージ・アイゼルだけが生き残りました。


博物館にはホットスタッフの機体の一部が展示されています。

アンドリュース元帥の事故死は、その後の歴史を変えたかもしれません。

7ヵ月後の1943年12月に連合国最高司令官に指名されたのは
あのドワイト・アイゼンハワー元帥、つまり、もしこの事故がなければ
彼が戦後大統領になる未来もなかった可能性は高いからです。
運命が変えられたのはアイゼンハワーだけではありませんでした。

「ホットスタッフ」を事故で失った陸軍は、士気の低下を懸念し、
25回帰国をこの際大々的に宣伝することを決めた(にちがいない)のです。

任務達成後速やかに帰国させて戦債ツァーを回らせる役目は
こうしてメンフィス・ベルに回ってくることになり、
25回ミッションに到達した最初の爆撃機として、
彼らを事故や被撃墜で失う前になんとか無事に帰還させ、
英雄として讃え、大いにこれを祝うことにしたのです。


陸軍省が急遽ヨーロッパにウィリアム・ワイラーを派遣し、
ドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル:空飛ぶ要塞の物語
(Memphis Belle: A Story of a Flying Fortress)』
が彼らの宣伝のために撮影されたのは前述のとおりです。


■ なぜ「ベル」だったのか

さて、ご紹介してきた3機の爆撃機は、それぞれ「ベル」よりも先に
25回任務を終え、帰国の権利を持っていたにもかかわらず、
結局主役になることはありませんでした。

その理由は単純に「タイミングが合わなかった」というものです。

このほかにも、25回任務達成の一番乗りは、4機のどれでもなく、
「デルタ・レベル2」だったという話もありますが、
とりあえず墜落してしまった「ホットスタッフ」を除く2機についていうと、
まず、「スージーQ」は、

任務達成がメンフィス・ベルより半年早かった

ので、陸軍省が宣伝目的でこれを持ち上げようとした頃には
すでに帰国して国内の戦債ツァーを終えていました。

事故で墜落したホットスタッフはいうまでもありませんが、
ある意味最も気の毒だったのは「ヘルズ・エンジェルス」かもしれません。
なんと、

ワイラーら映画スタッフが撮影準備している間に
25回任務を達成してしまった

という理由でベルにお株を奪われて主役になり損ねたばかりか、
彼らは25回で帰国というルールすら執行を先延ばしされてしまったのです。

メンフィスベルを一目見るために集まった人々
完全に陸軍の宣伝の都合ありきで、それにちょうどタイミングが合ったのが
たまたまメンフィス・ベルだった、ということになりますが、
いかに戦争中のこととはいえ、当事者同士にとっては
この苦々しい真実はかなり戦後も尾を引いたのではないかと思われます。

ことに、英雄は一機だけでいいと言わんばかりに、25回任務を終えても
いつまでも帰国させてもらえなかった「ヘルズ・エンジェルス」の
搭乗員たちの心中は、果たしていかなるものだったでしょうか。



続く。




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