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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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メンフィス・ベル搭乗員の肖像/モーガン機長〜アメリカ国立空軍博物館

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さて、いよいよメンフィス・ベルの搭乗員を紹介していきます。

メンフィス・ベルに配属された若者たちは、
第 8 空軍重爆撃機乗組員の一般的な構成でした。
ワシントン州、インディアナ州、テキサス州、コネチカット州など
米国全土の州から集まった19歳から26歳までです。

第8空軍と同じように、そして一般的な俗説に反して、
彼らは任務のほとんど(すべてではありませんが)を一緒に飛びました。
固定メンバー以外にも上部砲塔砲手兼技師 3名、
 腰部砲手3名、副操縦士は数名がベルで任務を行っています。
【戦時国債ツァーメンバー】
メンフィス・ベルの戦時債券ツアーのクルー。
このうち初期のメンバーは9人です。

カシマー "トニー" ナスタル SSgt(スタッフサージャント) (右下) は、
25回ミッションを終了しており、帰国の資格を持っていましたが、
実際にメンフィス・ベルに乗ったのは1回だけでした。
何か事情があって戦時公債ツアーに追加されたメンバーです。
黒いスコッチテリアのシュトゥーカくんもツァーに参加したようで、
メンバーの「公式マスコット」として左上に抱っこされて写っています。

【初期コンバットツァーメンバー】

こちらは爆撃ミッションツァー初期メンバーです。

日本なら前方で椅子に座り、中央に機長と副機長、
その周りに士官が配置されるところですが、
アメリカ陸軍の規則はあまり厳密ではないらしく、
機長と副機長、航法士と爆撃手が後ろで立っています。

こんな写真もありますし

機長が後ろから顔をだすという帝国海軍にはあるまじき構図

ちなみに写真の名前の横に説明がある4名が士官となります。

下段左下のボールタレット砲手(丸いボール状の下部砲塔)、
セシル・タレットがここぞとばかりにウィンクしています。

【アメリカに帰国前のメンバー】


アメリカに帰国する前にジェイコブ・デバース元帥
(ヨーロッパ遠征部隊指揮官)と握手するモーガン機長。
【機長としてのヴェリニス大尉】

メンフィス・ベルの副機長として名前を残す、ジェームズ・ヴェリニス大尉
(上段左)は、実際に行ったベルでのミッションは5回だけで、
その後は機長として別のB-17を指揮していました。
これは彼が指揮した「コネチカット・ヤンキー」クルーとの写真です。

なぜ帰国メンバーとして5回しか飛んでいないヴェリニス大尉が選ばれたか、
その後のベルの副機長はどうなったのか、一切わかりませんが、
選定については陸軍的に何か「基準」があったんじゃないかと思います。

ところで余談ですが、ベルのメンバーと撮った写真では
背が低いように見えるヴェリニス大尉、この写真だとむしろ大きい方です。

つまりベルにはモーガン機長始め、やたら背が高い人が揃っていたようです。
■ ロバート・ナイト・モーガン
Robert Knight Morgan 機長 指揮官

"どうやって地獄のヨーロッパ遠征を25回もくぐり抜けて
故郷に帰ることができたのかを一言で言うならば・・・
それは『チームワーク』です。”
ロバート”ボブ”モーガンについては、メンフィス・ベルのノーズアートの件で
マーガレット・ポーク嬢のことを取り上げながら少し話しました。

似すぎか

1990年の映画では、マシュー・モディーンが演じました。
「フルメタル・ジャケット」でインテリ新兵のジョーカーを演じ、
「ダークナイト・ライジング」では確かジョーカーにやられていましたよね。
ちなみに、映画では機長の名前はデニス・ディアボーンとなっています。

映画で最後のミッションの時、もし帰国できたらそれぞれ何をしたいか、
わいわいと機内無線で盛り上がっていたら、
「実家が家具会社をやっているんだが、手伝わないか」
と機長自らがいきなり言い出すシーンがあります。

ところが、それに対して、今みたいに命令されるなんて真平だ、
と全員が本音をぶちまけだし、彼は傷つくという苦い展開を、
映画を観た方なら覚えておられるのではないでしょうか。

まさかとは思いましたが、彼の父親は、実際にも
家具製造会社を3つも所有する裕福な実業家でした。
彼はハーバードやスタンフォードと共に世界最高峰のビジネススクール、
アイビーリーグのひとつであるペンシルバニア大学ウォートン校に学び、
卒業後、予備士官として飛行訓練を受け、B-17のパイロットになりました。
彼は車が好きで地元では有名な「走り屋」だったため、
戦闘機を選ぶのではないかと思われていたようですが、
一人でやるよりチームで何かを成し遂げる職種を好み、
結局9人のクルーと組んで任務を行う爆撃機の操縦を選びました。

ただし、彼の爆撃機の操縦は「まるで戦闘機を扱うよう」だと言われたとか。


メンフィス・ベル帰国後叙勲されるモーガン機長。



左上から:
大尉の階級章
少佐階級章
シニアパイロット航空章
コマンドパイロット航空章

■ 東京大空襲〜B-29の機長として



ツァーの途中、ボーイングの工場に立ち寄った時、モーガンはそこで
アメリカ空軍が新しい航空機を開発したことを知りました。

B-17よりも、B-24よりもはるかに大きく、強力で、高く速く飛ぶ飛行機、
そう、ボーイングB−29スーパーフォートレスです。

すっかり魅せられたモーガンは、志願して日本本土攻撃部隊に加わります。
ちなみに「ベル」のクルーで彼と一緒の進路を選んだのは
爆撃手のヴィンス・エヴァンスだけでした。
(爆撃オリジナルメンバーで機長の左で肩を抱かれている人)
エヴァンスがモーガンについてきたのには実はちょっとした
「訳」(というかエヴァンスにとっての利得的理由)があったのですが、
そのことについてはエヴァンス大尉の項でお話しします。


左:第8航空隊のパッチ
左:第20航空群B-29部隊のパッチ


このアメリカ人は中国の味方です
中国軍民で救護してください 航空委員会
と刺繍された太平洋戦域で携帯されたモーガンの「救護要請章」。

英語の説明には、これが血液型を知らせるものであり、かつ
助けた人には褒賞が出ると書かれている、とありますが、
少なくともこの面にはそういった情報は見られません。

彼の指揮するB-29「ドーントレス・ドッティ」は、
1942年4月18日のドーリットル空襲以降、
日本の首都への初めての爆撃となる東京空襲を指揮しました。
モーガンが指揮する爆撃群が日本本土に最初の空襲を行ったのは
1944年11月24日のことです。

そのとき「ドッティ」に同乗していたのは「ベル」時代の爆撃手、
ヴィンス・エバンスと爆撃総司令官エメット・オドネルJr.准将でした。

モーガンはサイパンから東京に出撃し、
日本上空で26回のミッションを完了しています。
彼の自伝から、そのうち一回のミッションに関する記述によると、

「マリアナ諸島から1,500マイルも離れていた。
ドーントレス・ドッティを駆るエメット・オドネル准将は、
111機のB-29を率いて武蔵島エンジン工場に向かった。

飛行機は30,000フィートから爆弾を投下し、
精度という多くの問題の最初のものに出くわした。
B-29は優れた爆弾照準器(ノルデン)を装備していたが、
低い雲を通して目標を確認することができなかった。

また、30,000フィートで飛行するということは、
時速100〜200マイルのジェット気流の中を飛行するということであり、
爆弾の照準はさらに複雑になった。
空襲に参加した111機のうち、目標を発見したのはわずか24機だった」

ドッティはまた、1945年3月9日、10日の東京大空襲にも参加し、
初の夜間低空火器爆撃(ミーティングハウス作戦)を行っています。

この空襲は第二次世界大戦における単一の空襲で最も死者の多いものであり、
単一の軍事攻撃としては、ドレスデン、広島、長崎を上回るものでした。

■ ドーントレス・ドッティの謎の墜落

東京空襲の後、ドーントレス・ドッティは帰国することになりました。
このときのドッティはモーガンではなく別の機長が操縦していました。

1945年6月7日、フェリーに乗るためにクェゼリンから離陸したのですが、
離陸してわずか40秒後、機体は太平洋に墜落、沈没しました。

これにより、乗員13名のうち10名が即死し、
残骸から投げ出された3名は、その後救助艇によって救出されましたが、
ドッティの残骸は現在に至るまで発見されていません。
残骸は、機内に閉じ込められた10名の乗員の遺体とともに
水深約6,000フィートにあると考えられています。

機体が見つからないのでこのときなぜ墜落したのかも解明していません。

ボブ・モーガンは8月15日の終戦を受けて中佐で現役を引退し、
予備役に留まって最終的に陸軍大佐のランクを得ています。

■ 死去


モーガン 1990年代

モーガンは2004年4月22日、彼が85歳の時、フロリダ州レイクランドの
レイクランド・リンダー国際空港で開催されたエアショーに出演して帰宅中、
アッシュビル・リージョナル空港の外で転倒し、首の椎骨を骨折して入院。

2004年5月15日、肺炎を含む怪我による合併症のため死去しました。

■受賞と勲章
殊勲飛行十字章第3位
航空勲章第11章 空軍大統領部隊賞 アメリカ国防功労章
アメリカ・キャンペーン・メダル アジア太平洋キャンペーン・メダル 3欧州・アフリカ・中東キャンペーン・メダル 5
第 2 次世界大戦勝利勲章 空軍永年勤続勲章 第 4 勲章 陸軍予備役勲章 10 年分




続く。



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