さて、国立博物館のメンフィス・ベル展示から、
25回ミッションを達成して帰国後ツァーを行ったメンバーについて
さらっとお話ししていくつもりだったのですが、
機長のロバート・モーガン大佐(最終)という人について
「メンフィス・ベル」のモデル、マーガレット嬢との関係を始め
色々とすごかったので、彼の功績とかメンフィスベルの戦歴とは
全く関係ないことですが、余談としてお話ししておくことにします。
【生涯に6度の結婚】
ベルのミッション25回終了後、帰国して戦債ツァーに参加した彼は、
その後も軍に残り、少佐に昇進して太平洋戦線に赴きました。
彼はサイパンから発進するB-29スーパーフォートレス「ドーントレス・ドッティ」
の機長として日本本土への爆撃任務を行い、
その年の終戦を受けて現役を引退し予備役にとどまりました。
ちなみにこのB-29の愛称、「ドーントレス・ドッティ」は、
彼の4番目の妻
ドロシー・ジョンソン・モーガンにちなんでいました。
4番目!とわたしも最初は驚きましたが、よくよく読むと、
彼は生涯に結婚した相手だけで6人、お付き合いした人は数知れず。
「(自分の人生には)酒と女と歌が多すぎた」
と自ら豪語する、派手な女性遍歴の持ち主だったのです。
いわゆるMMK
■最初の結婚 ドリス
最初の結婚はなんと彼15歳のとき、公立高校の13歳の下級生、
ドリス・ニューマンと駆け落ちしたときにさかのぼります。
駆け落ちながら、正式に婚姻届を出したらしく(出せたんですね)、
結婚日は1931年6月6日、そして9日後の6月15日に離婚。
(見つかって連れ戻され、怒られて諦めたパターン)
このことは公式にはなかったことにされていたのですが、
彼がなまじ有名人になってしまったことでジャーナリストに掘られ、
ゴシップとしてすっぱ抜かれたという形です。
ですから、今でもこの結婚歴は媒体によってはなかったことになっています。
この頃から、彼の実家モーガン家には次々と不幸が連続しています。
まるで息子の15歳駆け落ち事件がきっかけだったかのように。
まず、回復不可能なガンにかかった妻が悲観して拳銃自殺。
まだ若い母を失ったボブは、これに打ちのめされます。
そしてほどなく大恐慌が起こり、父が経営していた家具製造会社は
ほとんど倒産に追い込まれ、父は家を売る羽目になり、
しばらくは自分の会社の倉庫で警備をしながら暮らしていたほどです。
しかし、よほどガッツのある実業家だったのか、モーガン父はその後
頑張って会社を立て直し、復帰どころかなんなら前より事業を拡大し、
息子をアイビーリーグに入れられるほどの生活水準に戻しました。
実業家の鑑(かがみ)、まさに尊敬すべき父親です。
ところが息子ときたら(学業の方はちゃんとやっていたようですが)
またもや、女性関係でやらかしてしまうのです。
■第二、第三の結婚 アリス、マーサ
やらかしというのは、大学在学中となる彼20歳の夏に
アリス・レーン・ラザフォードという女性とまたしてもノリで結婚。
本人の証言によると、
「結婚生活は秋まで続いたが、また離婚になってしまった」
ひと夏の恋ならぬ結婚だったわけですね。
そしてその次の結婚はこのときから3年後、23歳のときです。
少尉に任官したときに、ウィングマークを彼の制服の襟に留めた女性、
ペンシルバニア大学の同級生、マーサ・リリアン・ストーン嬢と
3度目の結婚をしました。
彼がウィングマークを取得したのは真珠湾攻撃の6日後で、
結婚はその2週間後だったということなので、
1941年の12月年末に結婚式を行ったと考えられます。
しかしながら、その結婚は予想に違わず、彼が
第91爆撃隊に配置転換された翌年5月にはもう終わっていたようです。
つまり半年も保たなかったということです。
せめて半年くらい付き合っていれば、戸籍に傷をつけずに別れられたのに。
まあ、アメリカ人に「戸籍に傷」なんて概念ありませんかね。
そんな早く離婚するならなんで結婚する?と問いただしたくなりますが、
当時の男女は「お付き合いイコール結婚」でしたし、なによりこの頃、
ボブはとにかく仕事で怒られっぱなしで、かなりの心労が重なり、
与えられた任務をこなすだけでいっぱいいっぱいの状態でした。
その上、彼は仕事でもやらかしが多かったようです。
「マクディルに駐留している間、よく湾内の対潜哨戒に駆り出された。
潜水艦を見つけたことは一度もないけれど、ある日曜日、
きれいな芝生のある大きな家でパーティーをやっていたので、
僕は飛行機をパンチボウルに落とすくらい低空飛行させてみた。
後からパーティーをしていたのが司令官の家だったと知った。
翌朝、指揮官に呼び出され、散々叱られて、
"あの提督の指揮下にいる限り、昇進はないと思え"と言われた。」
その後、モーガンはワラワラに転勤しますが、そこでも彼は
軍の規則で義務付けられている制帽の着用を拒否し、
裸で飛び回っていたため、ウェストポイント出身で
予備航空士官を毛嫌いしていた士官に連日叱責され、
あらゆる汚れ仕事を押し付けられるという目に遭っています。
「訓練中の飛行機が山中に墜落し、搭乗員全員が死亡したとき、
彼は遺体を回収しに行く仕事を私に命じた。」
士官学校卒が「本チャン」ではない大学出の士官、
正規軍と対等に飛行できるようになったパイロットを虐める、
というのはアメリカでもあったことなんですね。
その頃、彼は「メンフィス・べル」マーガレット・ポークと出会いました。
彼女とは婚約指輪を贈るところまで行ったはずなのにどういうわけか、結婚には至らなかったのはお伝えした通りです。
これまでの3回、ほとんど脊髄反射で付き合うと同時に結婚してきた彼が、
なぜマーガレットとはあれだけ騒がれていたのに結婚しなかったのでしょうか。
写真を見てもわかるように、モーガンはMMでした。
背が高く(おそらく185cmくらい)すらっとして端正な顔立ちにブルーの瞳、
育ちの良さそうな物腰にアイビーリーグ出身の学歴。
しかも今一番ホットな職業であるミリタリーパイロットです。
こんな優良物件、女の子が放っておくはずがありません。
彼自身が言うように、彼の周りには常に女の子が群がりよりどりみどり。
おそらくマーガレットは、そのうちの一人として
たまたまつきあっていただけの女性だったのではないでしょうか。
映画でも到着後機長がコクピットの写真を手に取るシーンがあります。
任務の間、彼がマーガレットを思っていたのは嘘ではなかったでしょう。
帰国したモーガンは迎えにきていたマーガレットにキスし、
その写真は翌日新聞の第一面を飾りました。
後ろの士官の無関心なこと(笑)
そして、その後、彼女は6月から始まった戦時公債ツァーに同行しましたが、
わずか2ヶ月後には彼らの恋愛は終わっていたといいます。
まあなんだ、勢いで結婚しなくてよかったね、としか・・・。
■第四の結婚 ドロシー
モーガンは、帰国後のツァー途中でボーイングの工場を見学し、
そこでB-29に魅せられてこの爆撃機に乗るキャリアを選択しました。
彼が4度目の結婚をしたのはB-29指揮官となる頃のことです。
相手は、彼のB-29の名前となったドロシー・ジョンソンでした。
ドロシーとは1979年に離婚していますが、彼女との間には
ロバート・ナイト・モーガンJr.という男児始め、
4人の二男二女を設けています。
ドロシー・ジョンソン・モーガン逝去のお知らせ
彼がB-29でサイパンから出撃した回数は26回で、
1944年の11月から1945年の3月にかけてのことです。
そして戦争が終わると、予備役に籍を置いたままかれは
一般人としての生活に戻りました。飛行時間は2,355時間、引退の正式な日は1945年9月9日でした。
■マーガレットとの再会
父の遺した家具会社を経営しながら民間パイロットを目指しました。B-29についてきてくれた爆撃手のヴィンス・エバンスは
ウィリアム・ワイラーの伝手で映画の脚本家になっていたため、
彼の人脈からTWAのパイロットの仕事を紹介されたのですが、
どう言う理由か、就職にはつながらなかったようです。
そこで実家の家具会社を存続させつつ、VWビートルの販売をしていました。
ドイツの工場に爆撃を落として英雄になった男がドイツ車を売るというのは
なにやら皮肉に思えますが、本人的にはなんともなかったのでしょうか。
そしてドロシーとの結婚生活ですが、専業主婦の彼女とのあいだに子をなし
生活に追われるうちに、モーガンの悪い癖が頭をもたげてしまいました。
ドロシーはモーガンが初めて半年以上結婚生活を持続させた相手ですが、
それは彼女を特に愛していたからとかではなく、子供も生まれたこと、
そして彼がその頃すでに「制服マジック」が解けたただの男となり、
以前ほど女性が群がってこなくなったからだったんだろうと思います。
現に、50年代、彼らの夫婦仲は崩壊と修復の繰り返しだったそうですし。
そんなとき、かつてのパイロット時代の栄光の残渣というか、
残光が、彼の男心?に火をつけてしまうのです。
あるとき、出張でボブはメンフィスに行き、
モーガン・マニュファクチャリング社の関連工場を訪れました。
その際、下心満載でボブはマーガレットに電話をかけて連絡をとり、
独身だった彼女もそれに応じ、
二人は再会してしまいました。
それではご本人の自伝から、このときのことを語っていただきましょう。
『束の間の悲しい時間、
私たちのロマンスは再び燃え上がった。
私たちは何度か会った。
いろいろな場所で会う約束をした。
手紙を書き、愛し合い、議論した。
それはすぐに終わった』。
・・・まあそうなるでしょうな。
言うてこの頃はまだどちらも30代ってところですから、
焼け木杭に比較的火もつきやすかったんでしょうけど、
ボブ、これ不倫ですよ?
一つ言えることは、あのとき結婚しなかったことが
このときの焼け木杭に火をつけたということでしょうか。
■ 第五の結婚ーエリザベス
ドロシーと1979年5月24日に離婚したモーガンは、
6月には5番目の妻エリザベス・スラッシュと結婚していました。
これエリザベスと不倫してたってことだよね?
ときにボブ・モーガン60歳。
彼らのハネムーンは、航空アーティストのロバート・テイラーが描いた
メンフィス・ベルの版画にサインをしに行くことでした。
エリザベスとの結婚は、彼女が1991年肺がんで他界するまで続きました。
彼女の死のおよそ1年前、彼らは1990年公開の映画
「メンフィス・ベル」の撮影を見学に行き、宣伝活動もしました。
そのとき出席していた8人の元クルーとともに、モーガンは
映画スタッフに本物の台詞やディテールに関する提案をしたにもかかわらず、
監督のマイケル・ケイトン・ジョーンズは彼らの協力を断っています。
その結果、映画はボブ・モーガンが見事に控えめに言ったように、
『歴史的に不正確な』ものになってしまいました。
このことは元クルーたちにとっては苦い記憶となったことでしょう。
■ 第六の結婚ーリンダ
エリザベスが亡くなってわずか3ヶ月弱後の4月、モーガンは
航空講演会の広報担当だった47歳のリンダ・ディッカーソンと知り合い、
4ヶ月後には25歳の歳の差結婚式を挙げていました。
相変わらず切り替えと結婚に至るまでの時間が短か過ぎ。
このとき二人は、よりによってメンフィス・ベルの前で結婚式を挙げました。
エノラ・ゲイの機長だったポール・ティベッツ准将が司祭役となり、
副機長だったジム・ヴェリニスがベストマンを務めるという演出です。
しかし、この企画には批判も多くありました。
「有名な爆撃機の翼の下で開催されるこの結婚式は、
今は亡きマーガレット・ポークの記憶への侮辱であると強く感じる。
モーガン大佐の宣伝のための安価な策略であり、極めて悪趣味だ。
ましてやマーガレットがそのアイデアを喜ぶなどと誰が思うだろうか。」
彼らの結婚を報じるシカゴ・トリビューンの記者に、モーガン自身が
「ポークさんとは結婚しませんでしたが、
戦時中のロマンスを共有した間柄ですので、自分がモデルの
グラマー・ガールを描いた爆撃機の機首の下で行われる結婚式を
認めてくれるでしょうし、喜んでくれると思います」
ぬけぬけと?こう語ったのが反発を呼んだようです。マーガレット・ポークは1990年に68歳でがんのため亡くなっていました。
■ マーガレット・ポークとメンフィス・ベルの銅像
冒頭の写真は、メンフィス、オーバートン・パークの退役軍人プラザにある
マーガレット・ポークと「メンフィス ベル」の乗組員の記念碑です。
ポークとモーガンは結局結婚することなく終わりましたが、
だからこそ?彼女が死ぬまで二人は良い友人だったそうです。
戦時ツァーの終了とともに別れた後、彼女は航空会社の客室乗務員になり、
28 歳で結婚して数年後離婚しています。
弁護士だった父親の財産を相続し他彼女はその後結婚せず、
さまざまな慈善団体、特にアルコール乱用に対処する団体を支援し、
「メンフィス・ベル」の存続のためにも寄付を惜しみませんでした。
退役軍人プラザの記念碑は、ベルというより彼女を称えるためのもので、
それはあたかも彼女の名を冠した爆撃機が飛ぶのを見上げているかのように、
頭を空に向けて傾け、右手で目を太陽から守っている彼女の姿です。
像の石灰岩の台座の裏側には、彼女の「愛の物語」を伝える銘板があります。
続く。