今回アメリカ陸軍航空隊が枢軸国の資源供給を断つべく、
ルーマニアのプロイェシュチ貯油所に対して行った爆撃、
タイダルウェーブ作戦についてお話ししてきましたが、資料を見るうち、
本作戦に日系アメリカ人の搭乗員が参加していたことを知りました。
国立アメリカ空軍博物館の展示には、このベン・クロキという
日系二世の存在については触れられていなかったので、
今日は少し寄り道ということで、日系アメリカ人として生まれ、
アメリカを祖国として戦ったこの人物についてお話ししたいと思います。
■ 陸軍入隊まで
ベン・クロキ(1917年5月16日 - 2015年9月1日)は、
第二次世界大戦の太平洋戦域での戦闘作戦に従軍した
アメリカ陸軍航空隊唯一の日系アメリカ人でした。
ベンは日本人移民の黒木庄助とナカ(旧姓横山)の間に生まれました。
黒木一家はネブラスカ州ハーシーで農場を経営しており、
地元のハーシー高校で成績優秀な彼は副委員長を務めています。
多分左から2番目がベン
1941年12月7日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した後、
ベンの父親は彼と弟のフレッドに米軍に入隊するよう勧めました。
日本との開戦後、日系人への反発と差別が起こるのを見据えた彼は、
たとえ自分の祖国に矛を向けることになっても、
息子たちは自分が骨を埋める国に忠誠を示すべきと考えたのです。
さっそく陸軍の募集事務所に赴いた兄弟二人。
日系人ということで門前払いになるかもという懸念もありましたが、
意外なことに、担当者は国籍は問題ないとあっさり採用許可を出しました。
担当者も、今アメリカ人が地球上で一番敵視している人種が軍隊に入ったら、
大変な目に遭うであろうことは想像がついていたはずですが、
なにしろリクルーターにはノルマもあるし、事務所の成績も上げたいわけ。
目の前の二人は日系人ですが、それでも志願者には違いありません。
まあ、はっきり言って入隊を許して彼らがどうなろうと、彼個人にはどうでもいいことですから、問題ないZE!
(確かに彼らにとっては)として入隊者二人ゲット、という流れでしょう。
このとき担当者が「Kuroki」という名前をポーランド系だと勘違いした、
というまことしやかなエピソードもあるそうですが、
いくらなんでも彼らがポーランド系に見えるはずはありません。
彼には後二人弟がいましたが、そのビルとヘンリーも
従軍を許可されていることからも、その話は後日出たネタだと思います。
■ 爆撃隊に配属
彼はフロリダ州フォートマイヤーズの第93爆撃群に配属されますが、
そこで日系アメリカ人の海外勤務は許可されないと告げられます。
しかし彼は指揮官に嘆願し、とりあえず事務官として
イギリスの基地に転勤することを許されました。
そこで彼は当時需要のあった航空砲手に志願します。
航空隊の爆撃任務は消耗率も多かったので、彼の志願は聞き入れられ、
すぐさま砲術学校に送られてわずか2週間の研修を終えて、
B-24リベレーターの胴部砲塔砲手になりました。
ある日の任務で彼のB-24はスペイン領モロッコに不時着し、
スペイン当局に捕らえられて3ヶ月後に解放され、
再びイギリスに戻って所属していた飛行隊に復帰しています。
もしかして人気者?
1943年8月1日、
彼はルーマニアのプロイエシュチにある石油精製所破壊作戦、
「オペレーション・タイダルウェーブ」に参加。
健康診断の結果、クロキは入隊規定より5回多く飛ぶことが許されますが、
彼本人は、それを、国内にいる弟のフレッドのためだったと言っています。
30回目の任務で、彼は対空砲火による軽傷を一度負っただけでした。
■ 帰国後与えられた勧誘任務
米国での休養と回復の間、クロキは陸軍から、
健常な日系アメリカ人男性に米軍への入隊を奨励するため、
多くの日系人収容所を訪問するよう指示されました。
そこで彼は二世の志願者を募るリクルーターと共に、
日系人強制収容所、トパーズ、ハートマウンテン、ミニドカを訪問し、
講演活動をして入隊を啓蒙してまわりました。
強制収容所ができる前に入隊していたクロキは強制収容所の実態を知らず、
日系であるというだけで、同じアメリカ市民が、
武装警備と鉄条網に囲まれた収容生活をしているのを目の当たりにし、
一生忘れられない衝撃を受けることになります。
その活動は『タイム』誌を含むニュース記事によって取り上げられました。
■ 「二つの祖国」
帰国後の彼は、もう戦線に赴く義務も果たしていたので、
ベテランとして軍服を脱いで退役生活を設計し直しても良かったはずですが、
彼は自分の信念のため、それを選びませんでした。
クロキが選択したのは、父母の祖国、日本を敵として戦うため、
太平洋戦線に爆撃手として参加するという道だったのです。
このレターは、一旦却下されたクロキの転属願いを
陸軍長官ヘンリー・スチムソンの名の下に許可するものです。
クロキ軍曹については、その素晴らしい戦績を鑑み、
私が先に言及した方針の規定から除外することを決定し、
これを謹んでお知らせすることといたします。
という文章が読めます。
その後、クロキはテニアン島を拠点とする
第20アメリカ陸軍航空隊第505爆撃群第484飛行隊の
B-29スーパーフォートレス「サッド・サキ」の搭乗員となります。
「Sad Saki」(悲しいサキちゃん)とは、もちろん、
日系人であるクロキと攻撃先の日本に因んだ名前でした。
また、乗組員たちは彼のことを
「Most Honorable Son」
と呼びました。
彼はサッド・サキの尾部砲手として、
日本本土上空など28回の爆撃任務に参加します。
B-29から見た東京空襲
当然ですが、彼は太平洋作戦地域、それも日本本土攻撃において
空戦任務に参加した唯一の日系アメリカ人となりました。
終戦までに、彼は58回の戦闘任務を完了し、技術曹長に昇進しています。
ニューヨーク・タイムズ紙は、真珠湾攻撃から50周年にあたる
1991年12月7日の社説で、
「ジョージ・マーシャル元帥はクロキに会いたいと言った。
ブラッドリー、スパーツ、ウェインライト、
ジミー・ドーリトル各大将も彼に会いたいと言った」
と書いています。
■ 従軍後の戦いとキャリア
彼は見た目こそ日本人でしたが、心は純粋にアメリカ国民でした。
有色人種ゆえに耐えなければならなかった偏見や差別、
不平等ゆえにより熱烈な愛国者になったのか、
愛国者ゆえにそのハンディに立ち向かえたのか、それはわかりません。
偏見を跳ね除けるために敢えて父母の国と直接戦うことを選び、
祖国への忠誠心を戦争という手段で証明しようとしたことが、
あるいはアメリカ人からも評価されない可能性もあったのです。
驚くべき強い意志でアメリカ人であることを証明した彼でしたが、
戦後も人種的平等の必要性と人種的偏見に対する反対を訴え続けるため、
これらの問題を論じる一連の講演ツアーを行いました。
その資金は彼自身の私財、ラルフ・G・マーティンが彼について書いた伝記
『ネブラスカから来た少年』
『 The Story of Ben Kuroki』
からの収益金から捻出されました。
この講演で彼は、
「私は自分の国のために戦地に赴く権利を求めて
地獄のように戦わなければならなかった」
と述べたそうです。
戦後、彼はネブラスカ大学に進学し、
1950年に33歳でジャーナリズムの学士号を取得しました。
そして新聞社で記者や編集者を務め、1984年に退職しました。
2005年8月13日にはネブラスカ大学から名誉博士号を授与されています。
2015年9月1日、カリフォルニア州カマリロのホスピスケアにて死去。
98歳でした。
AVC Tribute Videos: Ben Kuroki
YouTubeの自動翻訳ができないので、ざっと日本語訳しておきました。
途中、省略している箇所がありますので念のため。
1941年12月、西ネブラスカのベントン。
「アメリカンドリーム」を求めて日本からの移住し、
農業に従事していた両親のもとにベンと兄フレッドは生まれた。
彼の両親は日の出から陽が沈むまで、1日の休みもなく
重労働をしながら彼らを育てた。
1941年12月7日の真珠湾攻撃が起こったとき、父親は息子たちに、
軍隊に志願して国への忠誠を証明するべきだと言った。
彼とフレッドは150マイル離れた航空隊の募集事務所に赴き、
おそらく日系アメリカ人として最初の志願兵となった。
彼とフレッドはテキサスのシェパードフィールドに送られ、
2週間の試用訓練を受けたが、実情は悲惨で、フレッドは
すぐさま航空隊から追い出されて塹壕掘り部隊へ移動させられ、
ベンは連日連夜KP(残飯処理などの厨房の下働き)をしていた。
彼はそんな仕事も文句一つ言わずに耐えた。
一歩間違えれば、あるいは一度でも疑わしいことがあれば、
忠誠を証明するチャンスが危うくなることを恐れて、
彼は卵の殻の上を歩いていた。
彼は祖国のために戦う権利を逃すまいと一人必死に戦っていた。
彼に初めての任務が与えられたのは1942年12月13日。
B-24の銃手の配置であった。
彼はのちに、最初に遭遇した高射砲は恐ろしかったが、
しかし、不思議なことに彼は、そこで
入隊以来初めて平和な気持ちを感じた、と言っている。
「誰もわたしの国籍を問わず、皆が家族として一緒に戦っていた」
B24搭乗員の平均寿命は10回だったヨーロッパで、
彼の24回目となるミッションは、
「ヒトラーのガスステーション」と呼ばれた、
ルーマニアのプロイェシュチ製油所への爆撃だった。
低空飛行によるプロイェシュチは、アメリカの軍史上でも、
最も多い5人の戦功賞受賞者を出している。
陸軍は、ベンに25回任務を達成したら帰国していいと言ったが、
ベンは彼の愛国心を証明するためにも留まることを望み、
さらに5回を加えた総計30回のミッションに志願した。
陸軍は彼に帰国命令を下し、その後、
日系人強制収容所で演説をさせている。
彼に命じられたのは、収容所の若者に、当時組織されたばかりだった
日系人部隊442部隊への入隊を説得することだった。
(そのことについて)彼は甚だ居心地悪く戸惑っているようだった。
自責の念に駆られる、といい、なぜなら、
このとき彼がおそらくそのうちの誰かに影響を与えたがゆえに、
彼らはリストに乗り、その後究極の犠牲を払うことになったからだった。
その後収容所から出た日系二世兵士たちは、アメリカ軍の中でも
最も過酷だと言われたヨーロッパの地域で陸戦に参加することになる。
ベンはコロラド州デンバーでタクシーを拾おうとしたことがある。
陸軍のフルドレスユニフォームを着ていたにも関わらず、
後ろのシートに乗っていた(乗合タクシー?)民間人がドアを閉め、
「最低のジャップと一緒なんてごめんだ!」
と彼に言った。
ベンは自らと彼の国の権利ために戦うべきだった。
そして30回のミッションを終えた今、彼はもう十分に
自分の愛国心をアメリカ合衆国に証明したと思っていたのだが、
(現実はそのようなものだった)。
彼は日本と戦うための任務に就きたいと志願した。
陸軍の規則で、日系アメリカ人は航空攻撃のために
日本上空に飛ぶことを禁じていた。
一旦断られた彼は、ヘンリー・スティムソンに直訴までして、
ついにはテニアンに飛ぶB-29「オナラブル・サッドサキII」の搭乗員として
彼の祖父母と叔父叔母、姪と従兄弟が住む国の上空を28回、
爆撃するミッションのために飛んだ。
彼のもっとも印象的だったミッションは、
200機のB-29の編隊で東京上空から焼夷弾を落としたときのものだ。
ベンは尾部砲手としてB-29に乗っており、
目的地上空から離れた後、空は1時間は炎で真っ赤だったと言った。
その夜、8万人の日本人が死んだ。
いうまでもないが、彼は女子供も残虐に絶滅させる作戦に疑問を抱いていた。
しかし彼はアメリカ人であり、アメリカは彼の父親の祖国と戦争をしていた。
結局彼は58回の任務をほとんどかすり傷一つ負わずに達成し、
戦後、差別と偏見との戦いという59番目のミッションに着手した。
彼がどこで語ろうと、人々は今や耳を傾ける。
ある年、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が主催する
年次フォーラムでスピーチするため、ジョージ・マーシャル、
ジョナサン・ウェインライト、クレア・シェンノート将軍が出席した。
そのときウェインライトとマーシャルの間に誰が座っていたか。
技術軍曹、ベン・クロキだった。
■ 叙勲
【二等軍曹として】
殊勲飛行十字章(×3)
オークリーフ・クラスター付航空勲章(×5)
第二次世界大戦従軍記章
【技術曹長として】
殊勲飛行十字章
オークリーフ・クラスター(×5)付航空勲章
第二次世界大戦従軍記章
続く。