国立空軍博物館の爆撃機シリーズ、今日は
重爆撃機のガンナーについて取り上げます。
その前に、伝説の爆撃機「メンフィス・ベル」の「マーキング」について
そのコーナーから紹介します。
■「メンフィス・ベル」パブリシティ・マーキング
ヨーロッパでの25回の任務を終え、アメリカに帰国後、
全米をツァーして「国際販促ツァー」をおこなった「ベル」。
行く先々で、民衆の好き勝手な「マーキング」、
国民の熱い思いが生んだ各種落書きが機体にに残されました。
もちろん現在展示されているメンフィス・ベルの機体には
そのような痕跡は一切なく、全てが修復されています。
ツァーで歓迎されたベル
乗員には、彼らを色々と利用したい人や追っかけの女性が群がり、
ヨーロッパ上空を飛んだ機体には、その姿を一眼見ようとする人、
近づいて触ろうとする人、なんなら落書きしたい人が群がりました。
上の写真には
「F.J. De GRASSE BANGOR, MAINE」
メイン州バンゴーのド・グラッセさんの名前が見えます。
もうやりたい放題。
後ろには手型を残そうとする人たちの集団が。
ツァー当時、モーガン機長の爆撃ミッションは、
わかりやすくこんなふうに機体左側にペイントされていました。
各種落書きに紛れて誰かがシュワスティカ(鉤十字)を一つ増やし、
さらにこいつは「S」に文字を付け足して「Sally」にしてしまいました。
窓の下には
S/St C.E. Winchell
という「メンフィス・ベル」メンバーの名前がありますが、
これも正式なペイントではなく落書きされたもので、
ペンキの色から推測するに、「Sally」と同一人物の犯行だと思われます。
おそらく、メンバーの身内か航空隊関係の人物でしょう。
民衆の落書きはほとんどが自分の名前。
「マサチューセッツ、誰それ」
「なんとか技術軍曹」
「カール・デロース、ウィルミントン デラウェア」
とどれも名前と出身地など。ちなみにこの写真の白い部分は、機左側の星マークペイントです。
その後、機体は展示のために修復され、すべての落書きは消されました。
しかし、時はすぎ、2000年代になって当博物館が修復をしたとき、
このカール・デロースさんのサインも修復の過程で浮き上がってきました。
博物館は、彼や他の落書きの名前もちゃんと公式文書に記録したそうです。
歴史的な機体だから、落書きといえども歴史資料。
ご本人たちも本望なのではないでしょうか。
■ ガンナー
第二次世界大戦の銃爆撃機、B-17フライング・フォートレスや、
B-24リベレーターに乗り組んだアメリカ陸軍航空隊のガンナーは、
手動で狙いを定める機関銃(「フレキシブル・ガン」)と
電動式の銃座を駆使して機を敵戦闘機の攻撃から守りました。
爆撃機乗組員の半分が砲手として乗り組んでおり、
彼らの持ち場は、上部砲塔(1名)、ボール砲塔(1名)、
2基の腰部砲(2名)そして尾部砲塔(1名)です。
他の乗組員は、副次的な任務として状況によって防御砲を適宜操作しました。
B-17機首
初期の重爆撃機は、機首に手動で操作できる
フレキシブル・ガンを装備していただけで、
敵戦闘機からの正面攻撃に対して大変脆弱でした。
B-24機首
B-17B-24どちらも後期型で、強力な二連装機首砲塔を装備しています。
くわえタバコ
尾部砲塔。B-17は射界が限られた手動式でしたが・・・、
B-24は広範囲をカバーする自動式の尾部砲塔を備えていました。
■ B-17スペリー砲塔
博物館に展示されているこの上部砲塔は、
アメリカ初のフルパワー機銃砲塔設計の一つです。
電気油圧システムにより、砲塔の2.50口径M2ブローニング機関銃と、Traverse and Elevation Mechanism T&E M2の両方を駆動しました。2門の発射速度は合わせて毎分1,400~1,600発。
前にも描きましたが、砲塔上部の砲手はフライトエンジニアでもあります。
その理由は、上空からの攻撃を防ぐだけでなく、配置的に機体のすべてのシステムを把握し、
飛行中のエンジンや燃料を監視することが要求されたからです。
この砲塔は、エマソン・マニュファクチャリング社によって製造、
スペリー・ジャイロスコープ社によって設計されました。
名称の「スペリー砲塔」は設計社名から取られています。
対空砲でダメージを受けた上部砲塔脇。
砲手はおそらく無傷ではいられなかったでしょう。
B-17インベイジョンII(通称ヘルザポッピンHellzapoppin)
の上部砲塔砲手TSgtハリー・ゴールドスタイン。
この機は当初、戦争債券ツァーの候補となっていましたが、
25回の任務を終える前、1943年4月に撃墜されてしまったため、
代わりにメンフィス・ベルが選ばれたという経緯があります。
「ヘルザポッピン」は対空砲火でコクピットと主翼が炎上し、
機体はブレーメン近郊に墜落、乗員全員が行方不明となりました。
■ Duty Above All 「至上任務」
サトゥ”サンディ”サンチェス軍曹 TSgt Sator "Sandy" Sanchez
は、三機目となる爆撃機の、
自身66回目の任務で戦死した航空砲手でした。
彼にとって2回目の任務の最後に、敬意をこめてB-17に彼の似顔絵が描かれ、
それは "Smilin' Sandy Sanchez "と呼ばれました。
本人とのツーショット
第8空軍の第95爆撃群において25回目の戦闘任務を終えた後、
彼は戦地に残ることを志願し、合計44回のミッションに参加しました。
1944年の夏には半ば強制的にアメリカに送り返されましたが、
23歳の彼は3度目の戦闘任務に志願し、
イタリアの第15空軍第301爆撃集団に配属されます。
1945年3月15日、ヨーロッパでの戦争が終結する2カ月も前に、
サンチェスはドイツのルールランドの石油工場を爆撃する任務に志願。
爆撃中、彼の乗った機体は対空砲火で大破のち爆発しました。
サンチェス以外の乗員は全員ベイルアウトしましたが、
サンチェスの遺体は発見されることはありませんでした。
サンチェスが戦死して6週間後、ヨーロッパでの戦争は終結しました。
彼に与えられたメダル各種
サンチェスが66回目の任務で墜落した
B-17G(S/N 42-97683)の垂直尾翼の左側。
この尾翼部分は1993年に発見されたとき、
ドイツの墜落現場近くの農家の小屋の一部として使われていました。
第52装備整備飛行隊が1996年に博物館のために回収しています。
サンチェスは技術軍曹、つまり上部砲塔砲手でした。
被弾後、機長のデール・ソーントン大尉は乗組員に脱出を命じましたが、
乗員のうち9人がベイルアウトしたところで、バランスを崩したB-17「スマイリン・サンデー・サンチェス」は、
よりによってサンチェスだけを道連れに爆発し墜落していきました。
生存者は捕虜となり、シュターラーク・ルフトに収容されました。
最後に、繰り返しになりますが、
「ボールターレットガンナーの死」という詩を原文とともに書いておきます。
The Death of the Ball Turret Gunner From my mother’s sleep I fell into the State,And I hunched in its belly till my wet fur froze.Six miles from earth, loosed from its dream of life,I woke to black flak and the nightmare fighters.When I died they washed me out of the turret with a hose.
砲塔砲手の死
母の眠りから、私は州の中に落ちた
濡れた毛皮が凍りつくまで、その腹の中でうずくまった
地上から6マイル、人生の夢から解き放たれた
黒い対空砲と悪夢の戦闘機で目が覚めた
私が死ぬと、彼らはホースで砲塔から私を洗い流した
続く。