ここ何日か「226」ならぬ「228」の検索が多いらしく、
このエントリに閲覧数が増えています。
今日は2月28日ですので、映画「銃殺」をベースにした2・26事件シリーズにはさみ、
台湾旅行で見学した228博物館について書いたこのエントリを再掲します。
ちょうど怪我療養中で毎日アップできなかったので・・・(あ、この手があったか)。
さて、台北に続く台湾第二の都市が高雄です。
打狗(ターコウ)、犬を叩くという現地人の音から統治時代に日本人が命名し、
以降「たかお」、戦後は国民党政府によって「ガオション」になりました。
戦後、日本の統治が終わって大陸から来た中国国民党によって、
台湾には政治的腐敗や社会的無秩序が運ばれました。
「旧日本パージ」とともに自分たちの利益だけを貪り肥え太ろうとする蒋介石始め
国民党幹部の姿が、それまで台湾人が知っていた公明正大で規律を重んじる
日本人のそれとば真逆であり、彼らは大きく失望するとともに、そのやり方に
不満と不安を抱いていました。
そんな中、起こったのが「2・28事件」です。
わたしは、今回の台湾旅行では大まかな計画として
「日本が統治時代に建設し現存する建築物をこの目で見る」
というテーマを決めていました。
同じ統治国であった朝鮮半島や日本にさえあまり残っていない、日本政府手による
戦前の建築物が、台湾ではいまだにあちこちで使用されているのです。
また後日このテーマでお話ししようと思っていますが、そんな「旧日本の名残」
である建物の一つが、ここ高雄にもあることがわかりました。
高雄は、大きな川沿いに比較的海岸に近く開けた都市で、中心部には
このようなウォーターフロントがあります。
川沿いには高級ホテルや住居、テレビ局などがあり、この日はヨットに興じる市民の姿がありました。
これが旧日本統治時代に市役所であった建物で、今は博物館です。
ここにきてわれわれは「引き寄せの法則」ともいえる偶然に驚愕しました。
台湾の悲劇、「2・28事件」が、ここで特集展示されているのに気づいたのです。
この展示は一年前にオープンしたということでした。
わたしは恥ずかしながら今回台湾に来てからくわしく知ったくらいで、
一般的にも日本であまり有名な事件ではありませんが、実はこの228、
日本にもある意味深くかかわっている、戦後の台湾史上もっとも有名な悲劇なのです。
一言でこの事件をを説明すると、それは
「戦後大陸から来た国民党政府が台湾人を殺戮した」
ということになるのですが、「日本とのかかわり」というのはどういう意味かというと、
統治政府によって、日本式の社会を与えられていた台湾人に、
大陸の外省人である国民党が中国式の迫害を加えたという部分です。
統治するには民衆は愚昧で在らねばならぬのに、国民党にとって残念なことに、
日本統治後の台湾の文明は、中国本土が及ばぬくらい先に進んでいました。
民度においても同じでした。
金さんとともに台湾でお話を伺った蔡焜燦さんですが、国民党が来てから、
警察官は無実の人間に難癖をつけて警察に引っぱり、釈放金を要求したり、
ちょっとした財が築けるくらい先生は生徒から賄賂を貰うのを常としていたり、
とにかく社会全体が「腐り果てていた」ことを著書で述べています。
そんな大陸人の政府が恣意的で放埓な統治を行うのですから、ただでさえ
日本語や台湾語を禁止されていた台湾人の不満は日に日に膨れ上がりました。
そんなある日、1947年の2月27日のこと。
密輸取締りの警官が、煙草を売っていた未亡人を銃の台座で頭部を殴り、
それを批難した群衆に発砲してけが人が出ました。
群衆はこれに怒り、警官の引き渡しを求めて専売局の前に押しかけたのですが、
専売局は二階バルコニーに警備兵を立たせ、丸腰の彼らに機銃掃射を加えたのです。
この暴挙によって台湾人の国民党政権に対して燻っていた怒りが爆発しました。
台北市内から台中、そして台南、ここ高雄にも人々の抗議と行動は飛び火し、
「打倒国民党」を叫ぶ人々が声を挙げましたが、これに対し、
国民党政府の取った行動は大量虐殺とそれに続く弾圧だったのです。
この博物館でこの展示をやっていると知り、すぐさま見学を決めたわたしたちは、
この日本統治時代の建物に入って行きました。
この建物がなぜ「歴史博物館」となっているのか、その意味を全く知らずに。
何気なく入って行ったわたしたちですが、気のせいかそこにいた人たちが
わたしたち日本人に対して、何か物言いたげな風を見せるのに、
とくにそういう雰囲気についてはわりと敏感であるわたしは気づきました。
入り口で入館料を査収する館員、そして展示室の入り口にいる係員が一様に、
そういった何とも言えない空気を湛えてこちらを見るのです。
これをわたしは「外国人、ことに日本人に対して理解と同情を求めている」
という風に解釈してみたのですが・・・・。
展示室は三部屋に分かれており、決して広いものではありません。
最初の部屋にはパネルとモニターがあり、この事件の概要と流れについて
説明があり、ここで内容をほぼ理解できるようになっています。
日本が去り、国民党政府が台湾にやってきたとき、人々はこの
同民族政府を歓迎しそしてこれから始まるその治世に期待しました。
すぐにそれは失望と怒りに変わることになります。
高雄地区は国民党政府が本土から軍を派遣する前に国軍の鎮圧を受けた場所で、
それは事件全体の広がりに対し深刻な影響を与えました。
司令部から軍隊が侵攻してきた様子。
市役所と中学に向かったのは、制圧する対象を
「日本の教育を受けたインテリ層」に特定していたということでしょう。
高雄駅は、人の出入りを防ぐために制圧されました。
先日台北で金美齢さんとお会いした話をしましたが、金さんの亡夫で、
台湾大学から東大に留学し、その後東京理大の教授であった周英明氏は、
この高雄の出身で、高雄中学の一年生でした。
周氏はその日、通学途中で三人の中学生が銃殺されてトラックで運ばれてきて、
その遺体が高雄駅前の路上に見せしめとして放置されたのを見たそうです。
高雄駅。
ご覧のように日本が造った駅舎で、一部今もそのまま残っています。
この駅舎は今移築保存が計画されていて、使われていません。
前に停められているのは工事関係者の車。
現在高雄駅は改装工事が進められ、すべてが超近代設備に置き換えられつつありますが、
どうやら駅舎は歴史的遺産として後世に遺してくれるようです。
これは台南駅の地下道ですが、同じような地下道が高雄駅にもありました。
たまたまこのときに駅にいた人々は、地下道に銃で追われて詰め込まれ、
動乱の広がりを抑えるために長時間拘禁されていました。
身動きしたりどこかに行こうとする者は容赦なく銃で撃たれたということです。
高雄で犠牲になった人々の姓名。
死亡、失踪、負傷、拷問、財産を失ったり名誉棄損された人々・・。
この死亡欄の下から二行目、一番右に「顔再策」という名前があります。
この名前を、わたしは、昨日読んだ金美齢さんの著書の中に見つけました。
周英明氏が高雄で目撃した「両足首を縛られ両手を後ろに括られていた死体」。
その括った手首に「顔再策」の名前が書かれた札が付けられていたのでした。
他の二人の銃殺された少年たちと同じく、彼もまた高雄中学の生徒でした。
このような説明展示を胸が塞がれるような思いで見学していたわたしたちは、
ここにきて愕然とあることに気付きました。
今いるこの建物が、惨劇の一つであった当時の市役所庁舎であることに。
説明を一通り見終わって次の部屋に進んだわれわれは息を飲みました。
そこには巨大なジオラマによって、この惨劇が再現されていたのです。
「ここで在ったんだ・・・・・228・・・・」
わたしたちは信じられない思いでただジオラマに見入りました。
国民軍が侵攻してきたとき、高雄中学の生徒は自衛軍を組織したそうです。
しかしそれにしても、なぜ彼らは虐殺されねばならなかったのでしょうか。
今、大陸の中国共産党が現在進行形で行っているさまざまなこと、
天安門事件、チベット虐殺に始まって法輪功への弾圧、そして
国民に対しても全く人命を顧みない人権無視の上に立ったあれこれ、
また民間においても暴動や日本に来て起こす凶悪犯罪の手口を知る我々は、
このような殺戮を同民族に対して加えることに対し何とも思わないのが
まさに彼の国の人間であると誰もがこのように理解しています。
つまり、これが民族の特性なのです。
しかし、当時ほとんどの台湾人はそれを知りませんでした。
その民度の低さに眉をしかめながらも「まさかこれほどとは」
と信じたくない思いが働いていたのかもしれません。
翻って、国民党がなぜここまで残虐な手段で暴動を鎮圧したのかというと、
彼らがもともと大陸でこのような統治方法を取っていたからでした。
基本武力と弾圧による恐怖政治によって対立する力を捻じ伏せる、という従来のやり方が、
「日本統治により進んだ文明社会を享受していた台湾人へのコンプレックスと恨み」
によってさらにいっそう拍車がかけられた結果がこの虐殺だったと言えます。
対して、台湾人はそれまで受けてきた日本統治により、メンタリティが
すっかり日本式の「性善説」に成り立っていた、ということもできます。
暴動が起きた当初、旧日本軍の軍服を着るなどして武装をし、
放送局を占拠して「君が代」や「軍艦」を流しながら日本語で
「台湾人よ立ち上がれ」
と呼びかける本省人(台湾人)たちの蜂起に対し、
中華民国の長官府は劣勢を感じ、一時対話を呼びかける姿勢を見せました。
しかし、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、その呼びかけに対し本省人が
対話に応じようと騒乱を一時休止するや、大陸の国民党政府に向かって援軍を要請しました。
陳儀が援軍を求めて蒋介石に打った電報にはこのように記されています。
(その電報の写真もここには展示されています)
「台湾人が独立を求めて組織的に反乱を起こした。
これを武力で鎮圧すべきである」
すっかり油断していた台湾人に向けて、国民軍の容赦ない殺戮が始まります。
つまり、日本の統治を受け、日本式の常識や道徳が身についていた彼らは、
まさか同じ民族である中国人が非武装の民衆を無差別に殺戮することなど、
全く想定に無かったのでしょう。
身についた「性善説」が最悪の想定を遠ざけ、つまり、
援軍を呼ぶための時間を国民党に与えてしまったとも言えます。
全てを観終わって重苦しい気持ちで展示室を後にした我々は、
もはやさっきと同じ気持ちでこの建物にいることができなくなっていました。
左は、外から見ることができないので写真で展示されているジオラマの「室内」。
細部まで驚くべき緻密さで造られているジオラマは、1年前から展示されています。
おそらく資料に残る惨事ができるだけ忠実に再現されているのでしょう。
「この階段とか大理石の床って、そのままだよね」
「柱は一緒だね。床はもしかしたら変えたかもしれないけど・・」
どちらにしても、これだけの惨劇の起こった建物を壊さず、
そのまま使い続けていることは「負の歴史から目を背けない」という姿勢に通じます。
現在の台湾は、政府は勿論マスコミにもいわゆる「大陸人」が占めていて、
国民党に対して都合の悪いことは報道しないというような
「報道機関が占拠された状態」が続いているそうです。
どこかの国のようですね。
戦後40年にわたる弾圧政治、戒厳令下の「白色テロ」時代には、
日本統治のことを「過酷であった」などと教えさせようという動きもあり、
いまでも反日的な言動をする台湾人のほとんどが、大陸人である外省人だと言われています。
しかし、この事件の在った当時、おそらく台湾語と日本語で生活していた本省人にとって、
北京官話という「外国語」を話す外省人が同胞を殺戮する姿は
どんなにか恐ろしい獣のように見えたことでしょう。
その獣に、自分の身内が虐殺されたり、いまだに連れ去られたっきり行方も分からない、
という台湾人たちが、そんな情報操作に騙されるわけがありません。
外から見えれば同じ台湾に住む台湾人としか認識されないこの国に住む人々の心には、
実ははっきりとした、決して晴らされざる怨恨と深い対立がが横たわったままでいるのです。
たとえ当事者が死に絶えても、その子孫に未来永劫引き継がれるであろうルサンチマンとして。
台湾には今日も228にまつわる展示が開催され、街には慰霊碑が立ち、
決してこうしたことがここでは忘れられていないということがわかるのですが、
しかし一方では、巨大な蒋介石像や、その聖地化された居住跡や、
さらには「台湾の靖国神社」であるところの慰霊廟などもまたそれ以上にあり、
この国の歴史の複雑さを感じます。
台湾人として自分のアイデンティティに深く悩むことを、たとえば金美齢さんは
この国に生まれたものの「宿命」だと考えているようです。
彼女のような人間に言わせると、日本人として生まれてきた瞬間、
我々はそのアイデンティティに悩まなくて済む権利を与えられているのです。
それがいかに幸せなことであるかを、わたしはこの台湾で複雑な思いとともに確認しました。
わたしたちをあの何とも言えない、理解を訴えるような眼で迎えた受付の女性、
切符を渡して「写真を撮ってもいいか」というと、何度もうなずいたボランティアらしい老婦人、
彼女らは、もしかしたらずっとこの地に住んで、変わりゆく台湾を見てきて、
あるいは自分につながる誰かや仲の良かった誰かを不幸にして動乱で失ったか、
あるいはそのような話を語る親族や知人を持つのかもしれません。
台湾という国が現在も置かれている「主権不在の状態」を知るとともに、
この記念館の見学はわたしの心にひどく重たいものを残したのです。
金さんの夫である周英明氏は、弾圧時代の台湾で受験勉強中、
古本屋で日本の学生にもおなじみである数学の「赤本」を手にしました。
ぱらぱらとめくっていって、裏表紙に書かれた以前の持ち主の名前に、
周氏ははっとして目を見張りました。
「高雄中学 顔再策」
あの日殺害されて高雄駅前に遺体を転がされていた青年の名前。
その遺体にくくりつけられた紙に書かれていた、その名前です。
周氏はこの本を買い求めました。
学業半ばで命を絶たれた青年の遺志を継ぎ、彼の無念を引き受けるかのように、
兵役に就いているときも、大学で助手になってからも、いつもその本を傍らに置き、
ひたすら勉強をつづけたということです。
*おまけ
台湾で製作され昨日公開された「KANO」予告編。
統治時代甲子園で準優勝した台湾の高校野球チームの実話ベースのお話。
映画には八田輿一(大沢たかお)も登場します。
高砂族の生徒もいたということですが、NHKの皆さんにはぜひ観ていただきたいですね。
《KANO》六分鐘故事預告