関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。
その日に、二・二六事件というものが起った。
私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。
実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。
激怒に似た気持であった。
プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。
狂人の発作に近かった。
組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。
馬鹿とも何とも言いようがない。
「苦悩の年鑑」太宰治
わたしは太宰治という作家を今日に至るまで好きと思ったことはないのですが、
「苦悩の年鑑」で太宰が糾弾するところの2・26事件についての論評は
この、一人で死ぬことも出来ずその度にキャフェーの女給だの愛人を道連れにするような、つまり
「自分の人生は自分のためにのみ浪費する、ましてや他人の人生をや」
とばかり清々しいほど利己的で人生ロックで、ナルシズムの塊である小説家であれば、
おそらくこのようにいうのが当然かもしれないと妙に感心してしまったものです。
特に「プランがあるのか。組織があるのか」という彼の誹りは
ある意味この事件の本質を突いており、それこそがこの事件について
大方の感じる初歩的な疑問でもあるかもしれません。
しかし太宰はあくまでも結果だけを見てこう言っているわけで、
実際のところ、青年将校たちは無策と言い捨てるほどでもなく、
彼らとて決して何の公算もなく始めたわけではなかったのです。
少なくともそこには一定の期待値が当初はあった事は確かです。
それが何だったのか、少しこのことについて思ったことをお話ししてみます。
映画の出だしが実はこの菊の御紋であったことは、
この事件の大きなキーワードが「皇室」であることを象徴している、
と前々回書いたのを覚えておられますでしょうか。
天皇陛下の周りに巣食う奸臣軍閥を排除し、天皇親政を実現する。
彼らの目指したのはここであり、それがために事を起こしたわけですが、
肝心の天皇はこれに激怒され彼らを逆賊と御呼びになった・・・。
このことは決定的な彼らの誤算でした。
事さえ起こせば維新は成功し、それが必ず天皇陛下の御意に適うと信じ込んで
この挙に及んだオプティミズムというべき信念は何に支えられていたのか。
太宰が言うところの「何も無かった」はあくまでも結果であり、
「結果として何も無かった」と書き換えられるべきで、
それでは彼らの目算とはどこに根拠を置いたものであったのか。
ここに、秩父宮、つまり天皇陛下の弟宮の存在が大きく関わってくるのです。
検索していただければお分かりですが、
『秩父宮と二・二六』『秩父宮と青年将校』
このようなタイトルの本を始め、世には秩父宮と事件の関わりを記した文が
あまりにも多いのにお気づきでしょう。
陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから2・26の際、
反乱軍将校が秩父宮擁立を画策していたとする風評が生まれた(wiki)
このような噂の元となったのは、秩父宮が
●陸軍歩三におられたころ、国家改造に理解を示され、決起将校のひとり坂井中尉に
「蹶起の際は一中隊を引率して迎えにこい」と仰せになった (中橋中尉の遺書)
●陸士の同期生であった首魁の一人西田税が改造の断行を力説したところ、
それに対して理解を示された(西田の自伝)
といったことだとされます。
2・26への宮の関与は勿論ありませんでしたが、つまり青年将校たちは行動に際し、
秩父宮を通じて天皇に自分たちの真意至誠が必ず伝わる、と信じていた節があるのです。
彼らが世を憂い、いざ立つべきとそのときを窺っていたとき、相沢事件が起こりました。
士官学校事件を契機に行なわれた「統帥権干犯の波及」として起こったこの事件。
青年将校たちは公判を熱心に公聴し、「中佐一人にそれをさせておくわけにはいかない」
といった義憤から彼らの中に蹶起への気運が高まります。
そのとき、第一師団(安藤中尉始め多くが所属する)は満州への派遣を
三月に控えているという状態でした。
これも、若手将校たちの動きを察知した軍首脳部が画策した
「島流し」的措置であったことは明らかです。
つまり彼らのなかに
「今しかない」
という焦燥が瞬間風速的に高まり、行動を現実にしてしまったのでしょう。
「巨悪を排除し新しい世界秩序を打ち立てる昭和維新」
という題目は、彼らの中では何人たりとも非難する余地のない理想であり、
若く一途でいわば世の汚れを知らない彼らは、これが正義であるならば
必ず全ての人々にに受け入れられると信じていた節があります。。
事実、世間では彼らの無謀さを非難する声と同じく、
その意図に一定の理解を示す擁護論が当時の社会にも起こりました。
彼らの挙が私利私欲に基づくものではなく、世を憂えてのことであり、
人々はそこに信念と殉教を見い出したからでしょう。
しかし、その行為を
「それは只だ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」
と一言に断罪した人物がいます。
他ならぬ、昭和天皇その方でした。
困った困ったと鳩首会談する陸軍首脳部。
困るのは当然、青年将校たちは自分たちの挙が「天聴に達した」と聞いただけで
自分たちが義軍だと認められたと勘違いしている(させたのはこの人たちですが)
のにも関わらず、陛下は彼らを「逆賊」と御呼びになっておられたからです。
この御怒りの凄まじさは、本庄武官長が陛下に
「彼ら将校としてはそのようにすることが国家のためであると考えたのだと思う」
と彼らをかばうようなことを奏上すると、
「それはただ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」
という、まるでピシャリと鞭で打つような非情の一言が返って来たというくらいでした。
因みに事後、この本庄武官長は反乱軍を弁護したという理由で職を解かれています。
「矢崎(真崎)さん、あんたは彼らの尊敬を集めているのだからその責任を」
「責任?わたしは今は一参議官にすぎん!」
はい、お偉いさんたち、全員で責任の押し付け合いモード入りましたー。
しぶしぶ蹶起部隊の前に現れた真崎は(もう本名でいいよね)、
彼らに取りあえず原隊復帰を勧めます。
史実によればこれは27日の2時のことで、
真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ原隊復帰をすすめた。
相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
(wiki)
となっています。
それにしても、この映画では荒木や真崎を必要以上に矮小化して描くことで
「実はそそのかした本人のくせに、全く責任を取らなかった」
という説を強調しているように見えます。
彼らを利用したのは真崎であり荒木である、ということをこのような演出で補強するやり方は
やはり所詮は映画であるという気がします。
そういうことにしておけば、非常に分かり易い「構図」に事実を収めることが出来る、
このような意図をも感じないでもありません。
日本人は「忠臣蔵」が好きです。
赤穂浪士が大石内蔵助を討ったのは法律的には犯罪であるが、
身を呈して主君の仇討ちをするというその行動の義はあっぱれであるという理由からです。
実際はそう悪人でもなかった大石内蔵助を必要以上に「悪」とすることによって、
さらにこの物語は典型的な日本人の判官贔屓のメンタルにフィットしたといえます。
それと同じく、2・26事件において、
「蹶起部隊が行なったことは犯罪には違いないが、
この若い純粋な青年たちを四十七士に対するように理解してやりたい」
という心情からそこに分かり易い悪の存在を求めたとき、それが真崎であり荒木であったといえます。
わたしが幼い頃読んだ「まんが日本の歴史」で、通りすがりのおじさんが言った
「彼らは利用されたのではなかったか」
の一言にも、こういった日本人の性向が表れているような気がするのですが、
これはわたしだけの考えでしょうか。
ちなみに、わたし個人は、彼らを太宰のように馬鹿と切り捨てることはもちろん、
私利私欲や名誉欲の為に事をしでかした犯罪人であると罵倒することは到底できません。
そして彼らを「利用した」のは皇道派だけではなかったとも思うのですが、
それについては最後の項でお話ししようと思います。
この日から安藤隊は山王ホテルに宿舎を移すことになります。
「西洋料理食ったことあるか。
ハンバーグステーキ、ビーフステーキ、今にこんなもの毎日食えるようになる」
下士官と兵が食い物の話題で盛り上がっていると、妙にハイテンションのウェイトレスが
支配人の差し入れとしてキャラメルとおせんべいを差し入れてきます。
実際の山王ホテルの従業員の証言によると、彼らの雰囲気は暗いもので、
広間に置かれていた酒を飲み、歌を歌い続けていましたが、なかには
「こんなことになって」と泣き出す兵もいたそうです。
このころから戒厳令の御勅を受けて、戒厳司令部が組織され、
首都東京に蹶起部隊を鎮圧する為の兵力が集結を始めました。
海軍は東京湾に第二艦隊を集め、「長門」始め各艦はその砲を
全て反乱部隊の駐留地に定め、築地には陸戦隊が上陸しました。
しかし、これ本当に戦闘になっていたらどうなっていたんでしょう。
都内に戦艦の主砲がドンパチ撃ち込まれ、その破片が降り注ぎ・・・。
いかに「脅し」のためであったとはいえ、どこまで海軍は「やる気」だったのか・・・。
山王ホテルも囲まれております。
反乱部隊を鎮圧すべし、との奉勅命令が出されたのでした。
そのことが青年将校たちに伝わるシーンですが、
「今朝我々に対して奉勅命令が出されたそうです」
「奉勅命令?なんだそれあ」
(姿勢を正す)「陛下から」
(全員姿勢を正す)「我々を鎮圧せよとのご命令が下ったんです」
この、「陛下」「畏れ多くも」のあと、全員がバネ仕掛けの人形のように
姿勢を正して言葉を継ぐ、ということをこの映画は逐一几帳面にやっています。
戦後の映画では天皇の御名を口にしながらふんぞり返ったままのものがありますが、
ここではテーマがテーマなので、神経質なくらいその表現にはこだわっているようです。
その直後山下奉文が詰め所を訪れ、奉勅命令をあらためて彼らに伝えます。
そして隣のドアをいきなり開けたら、そこには・・・・
じゃ〜ん。(BGMもこんなかんじ)
なんとびっくり、人数分取り揃えられた自決セット一式が。
おいおい、いつのまにこんなものホテル側が用意したって云うのよ。
この自決セットのようなものが手回しよく揃えられていたというのは本当で、
それは事件が集結を見て彼らが武装を解かれ、捕縄がかけられたとき、
白木の棺、白木綿などの用意がされているのを彼らも見たと言うことです。
「死んでもらうのが一番好都合だったのである」(澤地)
ということでしょうか。
この映画は28日の正午と29日の山下訪問での出来事ををあえて混同しています。
28日、栗原中尉は
「反乱部隊将校は自決するから、その代わり自決の場に
天皇陛下から勅使を派遣してもらいたい」
と提案しています。
しかしこれを伝えた武官長は、またしても陛下の峻烈な怒りの御言葉に息を飲むことになります。
「(彼らに)勅使を賜り死出の栄光を賜りたく」
こう伝えた武官長に、陛下は
「自殺するなら勝手に為すべく、この如き者に勅使など以ての外なり」
と切り捨てられたというのです。。
それにしてもなぜ天皇陛下は「余人の誰も見たことが無いほど感情を露にして」
この事件の首謀者を憎まなくてはならなかったのでしょうか。
理由の一つとされているのが、鈴木侍従長が襲われたということで、実は
鈴木の安否を確かめる為に陛下は受話器を取られ、事情を知る所轄交番の
一警官に御自ら容態をお尋ねになっておられるのです。
その警官は最初に電話をかけて来た人物に
「これから日本で一番偉い方がお話しになる」とだけ云われ、その後、自分のことを
『朕』と呼ぶ人物が侍従長の容態を尋ねたので体が震え気が動転したということです。
鈴木の妻が皇室の養育係であったことも、鈴木を特別に気をかけられた要因でしょう。
しかし、このときの御怒りはそれだけの理由にしては畏れながらいささか異常ともいえます。
ここに、秩父宮の存在、つまり「天皇家の兄弟同士の相剋」を見る説があるのです。
このことについて、次回少しお話ししてみたいと思います。
さて、映画に戻りましょう。
まず原隊復帰を受け入れた野中四郎大尉が訪れ、
「引き上げようと思う。兵隊がかわいそうだ」
と決心を告げますが、安藤大尉は断固それを拒否します。
安藤大尉は最後まで蹶起には消極的でしたが、一旦事を起こした後は
誰よりも強行に事を完遂することを主張しました。
こんな写真、確か教科書に載っていましたよね?
アドバルーンと言うのが今にして思うと当時の最も分かり易い
メッセージの伝達法であった、ということです。
このとき、戒厳司令部発表の「兵に告ぐ」という放送が流され、
さらに「下士官兵に告ぐ」というビラがまかれました。
下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日 戒嚴司令部
蹶起部隊の将校たちにも動揺と憔悴が見えてきました。
そんな折り、野中四郎大尉が自決したとの報が入ります。
磯部がそれを受けて「兵を帰そう」と言い出しますが、
「俺は最後まで兵と行動を共にする!
維新革命はどうなったんですか!」
と安藤大尉はあくまでも反発します。
実際安藤はこのとき磯部に向かって
「僕は僕自身の意志を貫徹する」
と答えたそうです。
そんな中も戒厳本部からは矢の催促のように
「自決するか、投降するか二つに一つしかない」
などと言ってきます。
ここにいきなり新キャラ登場。
新キャラ「皇軍相打つことだけは避けねばならん」
安藤「陛下は我々に死ねと仰るのですか」
新キャラ「そうだ。今帰れば下士官兵は咎められん」
このとき安藤大尉は「そんなの信用ならん」と言うのですが、
実際その言葉は正しかったのです。
2・26に参加した下士官兵たちはその後もれなく前線に送られ、上からは
「軍機を汚したのだから白骨となって帰国せよ」
などと云われ、満州での戦役そのものが懲罰となっていたという事実があります。
特に安藤隊にいた下士官兵はその殆どが最前線で戦死させられているのです。
この「君一人は死なせはせん。俺も死ぬ」と言っている人物は
おそらく第3連隊付の天野武輔少佐であるという設定かと思われます。
天野少佐もまた、説得失敗の責任をとり、29日未明に拳銃自殺しています。
そしてついに安藤大尉が第六中隊の下士官兵を集めます。
「皆はこの中隊長を信じてよく付いて来てくれた。
満州に行っても体を大切にしてしっかりご奉公してくれ」
安藤は大勢が決したと知ったとき、一度自決を図っていますが、
そのときは磯部に羽交い締めにされて止められています。
磯部は安藤を「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と説得し、
その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうとしますが、第6中隊の結束は固く、
全員が安藤大尉と一緒に死ぬつもりであったということです。
しかしその安藤大尉がついに決断したのです。
安藤大尉は最後の訓示を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じました。
この映画では、彼らのテーマソングでもあった「昭和維新の歌」が歌われます。
曲が
映画では歌が続く中、一人ホテルの部屋に入り、ピストルを発射、
おかしいと思い付いてきた久米兵曹に抱きかかえられ瀕死の状態で遺書を遺す、
となっていますが、実際の安藤大尉は歌の終了と同時に発砲しています。
続く