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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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映画「銃殺 2・26の反乱」〜処刑

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2・26事件の映画は数多くあれど、彼らを裁いた法廷シーンを描いているものは皆無です。
なぜかというと、当時の軍法会議はマスコミには公開されず、
しかもその公判記録は戦後逸失して長らく詳細が不明になっていたからです。

しかし、当時からはっきりしていたことは、軍人15名に北一輝と西田税の二人を加えた
この17名が反乱罪における「首魁、あるいは群衆煽動の罪」を問われ死刑に処されたこと、
そしてその裁判が弁護人をつけず、審理は全て非公開、一審即決、上告を通さずの
暗黒裁判であったということです。

それにしてもこの異常な人数の処刑は一体何なのでしょうか。


安藤、そして栗原は死刑になる人数があまりに多いことに衝撃を受け、
磯部は最後までこの判決を恨んでいたといいますが、これは彼らに限ったことではありません。
事件が歴史の一ページとして語られるようになった今日の目で見ても、
その量刑の厳しさには、尋常でない、何か大きな力が働いていたらしいと窺い知れます。

この裁判には、まず民間人である北と西田は事件への直接の関与がないとして、
不起訴または執行猶予付きの刑が妥当だとされていたのを、陸軍大臣の寺内寿一が

「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」

と主張したため死刑に決まっています。
この公判で無期禁固となった元歩兵少尉の池田俊彦は、調査起訴した乞坂(さきさか)春平を

「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、
人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、
全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、
我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも
不当に極刑に追い込んだ張本人であり、
二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した
(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」(wiki)

と戦後厳しく糾弾しています。
池田は首魁とされた中でただ一人死刑を逃れた人物であり、
処刑された蹶起将校たちの遺志を伝えるべく戦後数々の著書を残し、
2002年に88歳で亡くなりました。

確かに彼らが革命成立後、総理大臣、陸軍大臣として真崎や荒木を立擁立して
新政府を立てることまで計画していたのだとしたら、この二人が全く法的に責任を問われず、
思想指導をしたという西田や北が処刑されたというのは、バランスからいっても全く不明瞭で
かつ不公平であったと言うしかありません。




映画に戻ります。

山王ホテルで拳銃自殺を図った安藤大尉が回復し、
他の将校たちが収監されている獄房に帰ってきました。



房への通路を歩く安藤に栗原、磯部が声をかけます。

このときに彼らは襲撃の際傷を負って入院していた病院で
兄に差し入れさせた果物ナイフで割腹し、頸動脈を突いて自殺した
所沢の航空兵大尉であった天野(河野)のことを讃え合い、

「さあ、これで皆そろった。公判で頑張ろうぜ!」

と檄を飛ばし合うのですが、その結果は前述の通りです。



磯野大尉は監獄で「行動記」という手記を記しました。
面会のたびに夫人に持ち出させて、それが後世に残されることになります。

「何にヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、死ぬことは負けることだ、
成仏することは譲歩することだ、死ぬものか、成仏するものか、
余は祈りが日日に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ」

「余は極楽にゆかぬ。断然地ゴクにゆく、
・・・ザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」

(『妻たちの二・二六事件』澤地久枝著)

佐藤慶の演技には、最後までこのような勁烈たる執念と怨念を吐き続けた
磯部浅一がまるで乗り移ったかのような鬼気迫るものが感じられます。

映画では公判の様子をまったくすっ飛ばして、厳しい量刑がでたことを字幕ですませ、
安藤大尉が判決に憤る彼らの声を聞きます。

「暗黒裁判だ!」
「俺たちの声を国民に知らせろ!」
「畜生、俺は地獄から舞い戻って軍首脳を皆殺しにしてやるぞ!」
「俺は銃殺された血みどろの姿で陛下のおそばに行って
 洗いざらい申し上げるんだ!」

最後の言葉は、一年後に処刑となった磯部が、7月12日にまず15名が処刑になるとき
その銃声をかき消す為に朝から隣の代々木練兵場で行なわれていた空砲による訓練と、
同じく音を消す為に朝から低空飛行を続けていた飛行機二機の爆音、そして
ときおり聴こえる「万歳」の声の合間に混じる実弾の音を鋭く聞き分けて(澤地)

「やられていますよ」

と悲痛な声をあげたあとに絞り出した怨嗟の言です。
自分たちの至誠を受けいれることを拒まれた天皇陛下に対し、彼がどのような思いでいたのか、
何よりもこの言葉が多くを語っています。



精一杯の心づくしの弁当を持って面会に訪れる安藤の妻房子。

蹶起将校は殆どが結婚してまもない若い妻たちを後に残して行きました。
許された僅かな面会時間にせめて自分の美しい姿を夫に見てもらおうと、
彼女たちは「毎日お祭りのように綺麗に着飾って」夫との逢瀬にやってきたそうです。

そして、雨の降るある日、おそらく6月という設定だと思いますが、
今日の面会が最後になる、と看守に言い渡され愕然とする房子でした。



実際に行なわれた7月12日の処刑第一組は、
安藤、栗原、香田清貞、竹嶌(しま)継夫、対馬勝雄でした。
処刑用の刑架は5つで、この日の受刑者は5人ずつ、朝7時から8時半までの間に
三回に分けて銃殺されました。



処刑執行のあいだ、刑務所の一室では家族が来て遺体の引き取り待っている、
という設定で映画では喪服姿の集団が映し出されますが、
実際では家族はこの日、

「御遺骸引取ノ為 本十二時×時
 東京衛戌刑務所に出頭相成度」

という通達を前日夕方に受けて駆けつけています。
報せを聴いてから徹夜で喪服を縫い上げた妻も、間に合わなかった家族もいました。

前にも言ったようにこの日刑場から聴こえる銃声を隠す為に、
陸軍は隣の練兵場で空砲による訓練を行ない、飛行機を上空に飛ばせていた程で、
ましてや遺族に銃声を聴かせるようなことはしなかったはずですが、
この映画では夫の命が奪われた瞬間を妻が銃声によって知る、
というシーンがラストとなっているため、あえてこのようにしたのでしょう。

 

あらゆる226の映画で何度もお目にかかった処刑場の刑架。
意識せずとも記憶に残ってしまうほど特殊な形状をしています。
刑架からわずか10メートルの位置に銃架があり、そこには
二挺の三八式歩兵銃が固定され、照準は前頂部に合わせられていました。



最初に眉間を狙って撃ち、その一発で絶命しなければ心臓部を狙います。
頭に巻かれた白い布の真ん中の赤い(白黒映画ですが多分)丸は 、
日の丸ではなく、刑執行者の為の照準なのです。

このとき、彼らがこのように陸軍の軍服で刑に服したというのは
おそらくこのときには既に全員が軍籍を返上した身であったことから
実際にはありえないと思うのですが、これは映画的な演出であろうと思われます。

家族に引き渡された遺体はいずれも白装束を着ていたといいます。
確か映画「大日本帝国」ではすでに死に装束のような着物を着て刑架にかけられていましたが、
家族が見た遺骸は時間を経て既に死後の処置を施され、せめてもの配慮か
血痕や銃痕を遺族が目にすることはなかったといいますから、
刑執行後処置とともに着替えを行なったというのが本当のところでしょう。
銃痕を隠す為には、遺体の額に白い布が巻かれていたそうです。 



最も急進的な首魁とされた栗原中尉。

香田が音頭をとり、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を
のども裂けんばかりに叫びました。
香田は

「撃たれたら直ぐ陛下の身許に集まろう。
事後の行動はそれから決めよう」

と言い、叫びの間には誰かの笑い声すら風に混じって聴こえたと言われます。





実際には磯部浅一の処刑は一年後に行なわれているのですが、
そこは映画ですので、安藤と一緒に処刑されたことになっています。
磯部は事件発生の時点ですでに一般人となり軍服を脱いでいましたから、
このように軍服のまま処刑をうけることはさらにありえません。

天皇陛下への恨みを最後まで隠さなかった磯部は、
やはり民間人である西田、北、自分と同じく軍を追われた村中と、
4人で死刑になっています。

この4人は刑に際して誰も天皇陛下万歳を叫びませんでした。

15名が処刑されてからの約一年の間に磯部が書いた手記には

「今の私は怒髪天を衝くの怒にもえています。
私は今は陛下を御叱り申し上げるところに迄精神が高まりました。
だから毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております」

「天皇陛下 何と言う失敗でありますか 何と言うザマです、
皇祖皇宗におやまりなされませ」

「こんなことをたびたびなさりますと、
日本住民は陛下を御恨み申す様になりますぞ」

などという凄烈ともいえる天皇への怨嗟が書き綴られています。

このとき、真偽のほどは確かではなく、誰だったかも曖昧なことながら、
最後の瞬間、

「秩父宮陛下万歳」

と叫んだ将校がいたとされます。

秩父宮の存在とが226事件の関わりについてはかいつまんでお話しましたが、
最後の瞬間天皇陛下の御名ではなく、秩父宮を讃えて逝った将校には、
非常に消極的ながらも、自分たちと自分たちの行為を徹頭徹尾拒否なさったその方への
恨と怨嗟の気持ちがあったと考えられはしないでしょうか。


そして、もともと天皇親政は御自らのご意向ではなかったとはいえ、どうして天皇陛下は、
最終的には若者たちが見放された絶望感で「御恨み申し上げる」ほどに彼らを処され、
異例とも云える激しい御怒りをこの事件の関係者に向けられたのか。

このような考え方があります。

事件発生後、弟の秩父宮はすぐさま宮中に参内されましたが、そのときのことを

「(天皇に)叱られたよ」

と後日仰っておられたというのです。

元々この兄弟の間には親政の是否を巡って激しい議論があったこともあるといい、
実際にも蹶起将校たちが頼みにしていたのがまず秩父宮だったと言われます。

 「維新のあかつきにはいざとなれば秩父宮を立てるつもりだった」

という風評は火の無いところに煙は立たないの譬えどおりであり、
さらに資質的に豪放で外交的、リーダーに向いているという性質の弟と、
内向的で学者タイプの兄との間には齟齬のようなものが根本にあったとも云われます。


つまり、他ならぬ身内である弟宮の存在が事件の影にあったことが、
天皇陛下の異例とも云える激怒の根本の理由であったとは考えられないでしょうか。

 



蝉の声の中、刑の執行を待ち続ける家族の部屋から
その重苦しい空気にたまりかねたのかついと廊下に出る安藤の妻。
折しも刑場で菊の御紋のついた銃から夫の体に銃弾が放たれ、
その銃声があたかも自分の体を貫いたように、彼女はよろめきます。




ところで、この苛烈な死刑執行の判決を出した裁判においては、
全てが

「血気に逸った青年将校たちが不逞思想家に騙されて暴走した事件」

であるという前提の下に審理が進められましたから、
たとえば決起将校が革命成立後の新政府の首班に立てようとしていた
真崎仁三郎も、荒木貞夫も、誰一人としてその責任を問われることはありませんでした。

ただ、陸軍の皇道派はこれをもって一掃され、対立していた統制派の
東条英機らがこれ以降一層発言力を持つようになっていきます。
武藤章もその一人で、2月28日の段階で陸軍に東京陸軍軍法会議を設立し、
事件にはすべからく厳罰主義で臨むべしということを表明しました。

2・26裁判における異常なほどの死刑執行の多さはここから来ています。

青年将校たちの蹶起は、統制派の立場から見ると皇道派を一掃する
「カウンター・クーデター」(wiki)のありがたい奇貨であったともいえます。
真崎ら皇道派は彼らを利用する為に煽ったと言う面はあるものの、実際のところ
その制御に苦しみ、最終的にに暴走した彼らの行動は自分たちの首を絞めることになりました。

つまり蹶起によって最終的に利したのは、統制派の軍部であったということになります。
青年の純粋な熱と侠気だけでは、老獪な陸軍首脳部の黒さには
到底太刀打ちできなかったともいえましょうか。


この裁判で判決を下した匂坂春平はのちに

「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。
その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、
それは二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。
死なせた当人はもとよりその家族の人たちに合わせる顔がない」

と語り、ひたすら謹慎と懺悔の余生を送ったとされます。




安藤大尉が処刑を言い渡されたのは執行前日の夕方のことでした。
最後の夜、安藤大尉は家族への遺書、所感を書き綴り、それから
このような最後の句を残しています。


国体を護ろうとして逆賊の名

万斛(こく)の恨 涙も涸れぬあゝ天は  鬼神輝三


 

 


 

 


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