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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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護衛艦「ふゆづき」引渡式及び自衛艦旗授与式に行ってきた

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落馬事故によって右手首を骨折し、一時は再起不能かと思われたエリス中尉ですが、
悪運が強かったと見え、今のところ順調に回復しています。
見た目は普通の人ですし、箸が持てないとか、ペットボトルが開けられないとか、
お釣りを受け取るときに手のひらが上に向けられないとか、
自分でもそういうことが起こるたびに不便さを感じる毎日ですが、
のど元過ぎればで、最近は怪我をしていることをときどき忘れてしまうくらいです。

しかし、実は、救急車で運ばれたERの外科医が当初

「私の奥さんなら手術は受けさせない」(!)

と言ったくらい、手の外科というのは、特に対象が音楽家の手術は難しく、
また誰にでもできるというものではないそうです。
今回は幸いにも手の外専門の名医という先生をご紹介いただいたおかげで、
一か月ギプス生活、という考えただけで気の狂いそうな日々を過ごさずにすんだのですが。


前置きが長くなりましたが、もし今回の事故での「不幸中の幸い」ランキングで
ベストをつけるなら、それはこの先生の手術を受けられたことかもしれません。
なぜなら、そのおかげで今回の

「ふゆづき」引渡式および自衛艦旗授与式

への出席をあきらめずに済んだからです。
(じつは時期的にぎりぎりで実に危なかったんですけどね)


しかしたとえ温存療法でギプスをしていたとしても、皆の制止を振り切って
わたしはこの式典だけには参加していたことでしょう。

以前、自衛官旗授与式の模様をほかならぬ自衛隊の中の方から教えていただき、
その様子をエントリにアップしたこともあるくらい、この一連の儀式には憧れており、
チャンスがあればぜひ一度はこの目で見たいと思っていたからです。

そしてそのチャンスがとうとうやって来たのです。

今までの自衛隊イベントには、自力で、あるいは自衛隊の方からの
篤志によるご招待で参加してきたエリス中尉ですが、今回はこの竣工式典に

正式招待客待遇

で参加する予定だったのですから、これは何が何でも行かねばなりません。


今回、東京音楽隊のコンサート(とついでにクラプトンのコンサート)を
怪我のため断腸の思いで断念し涙をのんだわたしにとって、この式典に参加する程度にまで
怪我が回復していたことは、まさに天佑神助というべき僥倖でした。



さて、この日完工した護衛艦「ふゆづき」は「あきづき型護衛艦」の4番艦で、
平成23年起工、24年8月22日に進水式を行っています。
その模様。



建造は三井造船。

今回は、三井造船からの関係協力企業団体に対しての枠でご招待です。
しかもご同行くださったのが、地元経済同友会並びに民間防衛協会の偉い方であったため、
またお話ししますが、その御威光の御相伴にお預かりすることになったのでした。


それにしても、この進水式の様子ですが、美しいですね。

・・・・天気が。

青々と抜けるような空、白い雲、翻る日の丸に極彩色のテープ、
そしてその空に放たれた無数の風船が、「ふゆづき」の前途を祝すかのように・・・。

だがしかし、その完工を記念すべき式典の行われた2014年3月13日、
三井造船艦船工場のある岡山県玉野市は、いや玉野市に限らずその日は、
全国的に本格的な雨と強風に見舞われることとなってしまったのです。

何日か前に週間予報を見たら、その日だけが早々に雨の予報。

「どうせ一週間先の予報なんて当たらないから」

と軽く考えつつ降水確率を見ると・・・・90%・・・?
気象庁のこのいつにもなく断固として確信に満ちた数字。
ということは「実は降水確率100パーセント」という意味でしょう。

足元以前に当方は手許がおぼつかないのに何たることか。


しかし前日、三井造船に直接電話をし現地の様子を聴いて安心しました。
なぜなら、招待客は控室からドックまでバスで送迎、
バスから降りて数歩歩けばテントのなかで式典見学、という楽々モード。

思い出せば去年の朝霞、観閲式予行で数時間冷たい豪雨の中傘もささずに座り込み、
終わってみれば手の皮が白くフヤけていて何時間も乾かず、さらには
バッグの中に溜まった水で携帯が水死したあの日のことを思えば、
たとえ手の怪我というハンディがあったとしても天国と地獄くらいの違いです。

いや、人間、いちどでも底を見ると強くなりますね。
その程度が「底」なんて甘い、と思われるかもしれませんが。





この日配られた記念写真(冒頭)のケースですが、
雪の結晶に三日月、で冬月。
気持ちはわかるがあまりにもベタではないか。

しかしそんなことはどうでもよろしい。
これを手にしたわたしは猛烈に感動していました。

まあもっともこの日一日中感激しっぱなしだったのですが、どういうことかというと、
かつてこの三井造船所で、そして他のドックで建造された幾多の戦艦、
その完工のたびに、造船会社はこうやって「完工記念祝賀」を行って来た訳で、つまり、
その数だけ(戦争末期に駆逐艦を急造していたときはどうだか知りませんが)
こういった記念のよすがが関係者に配られて来たのです。

それを今、こうやってわたしが受け取っている、という感動。


艦船の起工から完工までは3年かかるのが通常で、例えばこの三井造船では、
戦後から数えてこの「ふゆづき」が30隻目の建造にあたるそうです。
つまりそうそうしょっちゅう立ち会えるというわけではない行事。
「ふゆづき」の起工が決まったころにはこの世界に何の興味もなかったこのわたしが、
何のご縁かこうやってその行事に参加しているのですから。

「ふゆづき」は初代から数えて三番目に当たります。
初代「冬月」、あの坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」とともに出撃した駆逐艦が完工したときも、
やはり同じような儀式が行われたのでしょう。

そのとき見守った人々とまったく同じように、一つの駆逐艦の誕生の瞬間、
フネに命が吹き込まれる瞬間にわたしもまた立ち会っているという感慨に耽りました。



さて、というわけで、今日から何日かかけてこの日一日のことをお話ししていこうと思います。

進水式のときにはおそらくたくさんの人がつめかけ、一般にも公開していたので、
多くの方がこういったブログにそのときの様子を挙げていたのだと思われますが、
今回はこのお天気。
一般の見学者も艦首付近に傘をさして少しいたようですが、



少なくとも天幕の中にいた人々の顔ぶれには、このようなブログ媒体で
写真をアップしようとしているような雰囲気の方は一人もおられませんでした。

本稿はもしかしたらテント内幕から見た唯一の報告になるかもしれません。



前日夜から一人で岡山入りしました。
今回の造船会社、「三井」の名が入るホテルです。
まだ新しいホテルらしくきれいで、朝食もとても結構でした。

朝、待ち合わせの時間にロビーにいたら、制服姿の自衛官が
何人もチェックアウトしていきました。
後からわかったのですが、市ヶ谷からは制服組も私服もたくさん来ていたようです。

その日ご一緒させていただく方とロビーで会い、運転手付きの黒塗り車で
岡山市中心から40分ほど離れた玉野市まで山を越えていきました。

玉野は呉軍港からは離れているところですが、軍港から離れていて内海にある、
というこころが造船に最適であったようです。
軍港が空襲に遭うことがあっても、ここは離れていて被災しにくいという理由です。

当初、この造船所のある玉野には、昔男爵位を持っていた「塩田王」所有の塩田がありました。
遠浅地形と、山が迫っていてドックを作るだけの海深が両立しているという
希有な条件を備えていたため、この地が選ばれたそうです。

ご一緒下さったI氏は地元生まれの地元育ち。
某地場産業の会長で、また地元の経済同友会の要職にある方ですから、
こういった話始め、興味深い話題は尽きません。
夢中で話をしている間に、いつの間にか現地に到着していました。




三井造船前に到着。
車の窓ガラス越しに撮りました。




車から降りて、テントで受付をしました。
ところがここで問題が。
わたしの乗るバス、控え室、そして観覧席、そのことごとくが
当然ですがご同行のI氏とは全く別になってしまうことが判明したのです。

「僕たち別々になると困るんだけど、これ何とかしてくれない?」

恐縮するわたしを尻目に、I氏、まず受付の人たちに交渉。
しかし、現場の人間ほどそんな融通は利かせることができません。
わたしなどよりそういったことをよくよくご存知のI氏、
とっとと自分の待合室のある建物に行って、そこの一番偉そうな人に
何が何でもわたしの場所を作るように、有無を言わせず認めさせ(笑)
わたしは恐縮しながらおじさまばかりの応接室で小さくなっていました。



待機のための部屋に割り当てられたのは実にクラシックな雰囲気の社屋。
築数十年経っていそうな、木造の雰囲気のあるレトロな建物です。
ちなみに写真に写っているのはその隣のパーティ会場です。

部屋にはいるとソファが置かれ、人数分のお茶と会社資料が用意されていました。
わたしはここでデジカメに加え、望遠レンズを装着したニコン1をスタンバイ。

怪我の前になりますが、ここで「広角レンズが欲しいと思った」と書いたら、
読者のmizukiさんに一眼レフ並びに白レンズを勧められました。
あのコメントはわたしのような初心者にとって結構なカルチャーショックでした。

そしてニコン1と広角の相性の問題についてしばし考えこみ、やはりこれはボディ買い替えか?
と長考に入ったところで怪我をしてしまい、そこで話が終わってしまったのですが、
じつはそのとき広角レンズが欲しくなったのは、この引き渡し式に参加することになり、
岸壁にある護衛艦は望遠だけでは撮れない、と考えたからでした。

結局それどころではなくなってしまったので今回はソニーのRX−100を併用したのですが、
やはり遠いようで護衛艦は近すぎ、案の定あまりまともな写真は撮れませんでした。
艦上の自衛官たちの表情などはこのレンズでないと無理、というくらい寄せて撮れたのですが。


現地案内まで訳40分ほどあり、その間ここで準備をしたり、
二階にある三井造船の資料室を見学したりしました。
資料室についてはまた別の日にお話しします。


その後移動の時間となったとき、バスの人数に制限があるのにも関わらず、

「いや断じてこの人はわたしと一緒のバスでないと困る」

と三井造船の社員にI氏がだだをこねていたら(笑)同室のおじさんが、
(といってもおそらくI氏と同じ部屋だからかなり偉い人) 
「何だったらわたしが代わりにそちらのバスに乗りますよ」
と言ってくださったので、八方丸く収まり、
わたしは安心してI氏と同じバスに乗り込みました。

じつは歩いたって岸壁までは10分もない距離ですが、
今日は天気が悪いため皆おとなしくバスに乗って行きます。




向こうに海保の艦船も停泊しています。

当たり前ですが見渡す限りそこは三井造船の岸壁。
ここで働く社員だけで何万人もいて、玉野という町はそのほとんどが
就職先にここを選ぶという地元密着型企業です。

しかし、近年機械化とオートメーション化、さらにIT化が進み、
昔と違って社員の数は激減し、玉野市内の社宅はほとんどがガラガラだそうです。




バスが「ふゆづき」が係留してある岸壁に到着しました。
それにしてもこの窓ガラスの雨をご覧ください。



わたしが座ったのは(というかIさんの席は)ここ。
立っている人がいるところから向こうが式典の行われる中央ですから、
じつは特等席だったのです。



はい、ここですね。
テントの下には呉音楽隊、その手前が儀杖隊、
そして紅白の幕がかけられたラッタルの手前に艦長始め幹部、
士官の皆さんの順番で立っています。



左手には下士官と水兵さん、じゃなく曹士。
何となく右から左に行くにつれて立ち姿勢に緊張感が無くなっていくような・・。
というか、こうやって写真に撮ると、顔を動かしたりしている人は
圧倒的に若い曹が多かったのが不思議です。


ずっと緊張し続けていられるというのもすべて訓練の賜物だとは思いますし、
実際に見ている分には「だれている」とは全く思わなかったのですが。




いかに激しい雨の中、彼らが全身濡れそぼっているかがよくわかる画像。
しかしこうして見ると各人の制服の水のはじき方に大きな違いがあります。
一番右の隊員と一番左のでは、素材が全く違うように見えるのですが気のせいかしら。



わたしのいるテントからはこんなかんじです。
広角レンズが必要だと思ったわけがお分かりでしょう。


 
とりあえず望遠レンズで撮りやすかったウェポン(笑)

同じテントにいたおじさま方は、職種も様々ですから、
それこそこういう武装について関わっている会社の代表だったりして、
仕事の関係上護衛艦のことは隅から隅まで知っていたりする方もいたでしょう。

おそらく知識の幅はわたしを基準にしたとすれば(なんでわたしが基準かわかりませんが)
わたしより上とわたしより下は半々ではないかと何の根拠も無く思ったのですが、 
I氏は明らかにわたしより知らない方で、

「護衛艦っていうからもっと武器を搭載しているのかと思っていたけど、
あんな細細い大砲がひとつあるだけなんだねえ」

などとおっしゃいます。
するとわたしの右側の方が明らかにわたしより詳しい方で、

「護衛艦は昔と違ってああいう形の武器は搭載してないんですよ。
あそこの前にあるところから垂直にミサイルが出ます」

と、わかりやすくわたしの頭越しに説明してあげていました。
この「大砲」はMk. 45 Mod4 62口径5インチ単装速射砲。

5インチとは127ミリで、アメリカ製。
「あたご」型と同型で、DDとしては初めて搭載となります。

「長細い大砲」

というのは見た目の通りで、そのため最大射程は3万8千メートル以上、
さらに長距離誘導砲弾であるロケット推進のERGMを使えば、
その最大射程は110kmを超えるそうです。

そのかわり?発射速度は毎分20発で、オートメラーラ製の5インチの半分くらいだとか。


行きがかり上いきなり装備の説明をしてしまいましたが、
このときの隊員の様子をもう少し。



儀杖隊。
儀杖隊長はなぜか白のホルスターの短銃を装備しているようです。

儀杖隊の向こうには自衛隊のカメラマン、写真員と呼ばれる隊員がいます。
雨でも決して傘をささない彼らはこれしきの雨には慣れているのでしょうが、
やっぱり雨が降ってほしくないと一番願うのは写真員でしょう。
近くを通ったときにカメラを観察したら、レンズの上にテープで紙を貼付けたりして、
雨が少しでもかからないような工夫を凝らしていました。
彼らにとってカメラは武器のようなものですから、扱いも慎重なんでしょうね。

ちなみに彼らは写真を撮るのも「任務」で、

「誇りを胸にシャッターを切れ!」

がモットーだそうです。



女性の幹部がいますね。
この一団は士官、と今は言わず、幹部といいます。

昔の「士官候補生」が今の「幹部候補生」であるということに
うかつながら割と最近気づいたエリス中尉ですが、なんかねえ・・。

幹部候補生。

一般企業みたいであまりかっこよくないと思ってしまうのはわたしだけ?

「水兵」という言葉が使えなくなり、この階級を「士」として一士二士士長などと、
えらいのかそうでないのか自衛隊以外の人にはさっぱりわからない名称にしたので、
自動的に「士官」が使えなくなった、ってことなんですね。

わたしのような旧軍好きから見ると、

「青年士官」

という言葉だけで三割増くらい期待してしまうというか浪漫を感じるというか、
陸軍だろうが海軍だろうが、その響きに胸にアツいものを感じるのに(笑)

「青年幹部」

って・・・わけわかんないし。

「スマートな士官」

というとあるイメージがわくけど

「スマートな幹部」

ってまったくイメージすらわかないんですけど。

戦後になって失われた旧軍の用語で最も復活してほしいのがこの「士官」。

「鎮守府」「水兵」「駆逐艦」「戦艦」「攻撃戦闘機」が

「地方総監」「士」「護衛艦たるDD」「支援戦闘機」とは、

だんだん変わっていったとかいうのではなく、ある日突然使えなくなったので
仕方なくあれこれ相談して言葉を決めた無理矢理感が否めません。

まあもっともどんな言葉も60年以上使い続けていれば、
それなりの「言霊」というものが宿ってきているのかもしれないとは思いますが。




ちなみに、すばらしい姿勢の良さでしかも微動だにせず、最も衆目を集めていたのは
列の一番右にいた幹部、というかスマートな士官でした。

「ふゆづき」艦長北御門裕2等海佐です。

 

(続く)








 

 


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